まず、最初に覚えたのは違和感だった。ルシアに追いつくのは無理だと諦めた僕は、代わりに何か手掛かりが残っていないだろうかと辺りを注意深く観察した。

 すると、いくつもの違和感が見つかった。特に、彼等が借りていたこの部屋。いつものルシアならば、自分が言わなくても気が付いていることであろうが。


「……そんな、リヴェ……うそ、だ」


 がくりと膝を折って、その場にへたり込むルシア。冷静沈着、寧ろ冷酷で無慈悲な堕天使が、手から銃を取り落としてしまう程に気が動転してしまっている。

 無理もない。恐らく、この部屋に先に入ったのが自分であったなら、同じように座り込むしかなかっただろう。そう思ってしまうくらいに、凄惨な状況である。


「リヴェ……どうして、一体どこに……誰がこんなことを……」


 リヴェルのことも気にかかったが、今はルシアの方が危険だ。今まで彼は、リヴェルの為だけに生きてきたと言っても過言ではない。

 弟を護る為に、ルシアはどんなことでもやってきた。どれだけ傷ついても、彼はリヴェルが居たから生きてこられたのだ。

 ルシアは強い、恐ろしい程に。だが、それ故に一度でも足を止めて膝を付いてしまえば、再び立ち上がることは誰よりも難しい。


「ルシアくん……おや、これは」


 彼は休ませた方が良いだろうかと声をかけようとした、その時。ふと、視界に入ったそれ。華奢でありながら、吐き気を思い出させる程に輝く銀色の悪意。

 見覚えのある注射器が、空薬莢に交じって床に転がっていた。どうやら持ち主に雑に扱われたらしく、針の先端が折れてしまってはいるが。中身の薬液はたっぷり残ったままだ。


「……これは、ダリアさんの」

「ダリア……ああ、なるほど。あの毒花か!!」


 呟いた言葉が聴こえたのか、ルシアがはっと息を飲んだ。そして、凍てつく様な殺意と燃え盛る憤怒を露わに、彼は立ち上がった。まずい、これは完全に怒り狂っている。


「ま、待ってくださいルシアくん! どこへ行くつもりですか!?」

「説明するまでもないだろう? あの女を探して嬲り殺す!! ここにリヴェが居ないということは、あの女が連れ去ったに違いないからな!」


 再び銃を手に、ルシアが踵を返す。確かに、ここにダリア達が来たことはほぼ間違いないだろう。でも、このまま行かせては駄目だ。

 今のルシアは、冷静な思考と判断が出来ていない。彼の手首を掴んで、その足を無理矢理止めさせる。だが、ルシアの方が体格も力も勝ってしまっている以上、振り払われてしまわないようにするので精一杯だ。


「落ち着いてください、ルシアくん!! 探すって、どこを探すつもりなんですか!?」

「それは……ああ、そうだ。あのエドガーとかいう研究員。あいつがあの女の飼い主だろう? 腕と足を切り落としてでも、あの女の居所を吐かせてやる!」

「そ、そんな恐ろしいことしないでください! 大丈夫です、リヴェルくんはダリアさん達に攫われてなどいませんから」


 何だと? ルシアの注意が、こちらに逸れる。それは、この部屋に入ってきた時から確信していたことだ。


「玄関のドアには、弾痕はありましたが鍵は破壊される程に傷ついてはいませんでした。しかし、ダリアさん達がこの部屋に入ったということは……ドアの鍵は最初から開いていたんです」

「鍵が、開いていた?」

「このマンションは、入り口からずっと銃弾の跡や何か……強力なチェーンソーのようなもので傷つけられた痕跡が続いていました。他の部屋もそうです。鍵がかかっていたとしてもお構いなしにドアを破壊して回ったのでしょう。恐らく……目的はリヴェルくんです」


 でも、この部屋のドアは損傷が少なかった。そこから考えられることは、最初からドアが開いていた。もしくは、鍵が開いていることにダリア達が気づいたということ。


「リヴェルくんは耳が良い。彼等が暴れ回っていることには、すぐに気が付けた筈。だから、彼は逃げたのです。ダリアさん達に攫われたわけではありませんので、エドガーさんに用はありません。時間の無駄です」

「どうして、リヴェが逃げたと言い張れるんだ?」


 僕の言葉に、少しは頭が冷めてきたのかルシアが言った。もちろん、何の根拠も無いのにリヴェルが逃げただなんて断言しているわけがない。

 ルシアの手首を離して、代わりに部屋の中を指し示す。


「ダリアさん達はここまで荒らしているんです。リヴェルくん一人だけを捕まえる為とは思いません。恐らく、エドガーさんが捕まったことにより資金源を失った彼女達は、リヴェルくんを捕まえて……恐らくは、アルジェントへ売ろうと考えたのです。リヴェルくんのことをどこで知ったのかは、流石にわかりませんが」

「アルジェント……また、あの国か」

「でも、リヴェルくん一人を捕まえるだけならばここまで暴れる必要はありません。警察などの敵を増やすだけですからね。でも、彼女達には別の目的があった。リヴェルくんをアルジェントに売る為に、メルクーリオを出国する。最後に金目のものでも奪って行くつもりだったのでしょう。屋外に逃げた住人の方は、大した怪我を負っていませんでしたし」

「だが、それがどうしてリヴェが逃げた理由になるんだ?」

「この部屋を見てください。きみのコレクション、壊れたり傷付いているものはありますが……無くなったものはないでしょう?」


 壁に飾られた拳銃の数々に、立て掛けられた狙撃銃。どれもこれも状態が良く、国によっては高値で売れるだろう。

 だが、それがそのまま残っているということは。


「ダリアさん達は、本来の目的であるリヴェルくんが逃げ出したことを知った。ですから、お仲間全員でこのマンションから離れてリヴェルくんを追いかけたのでしょう。目の前にあるお宝も回収出来ない程に慌てて、ね」


 そして、リヴェルが逃げた痕跡がもう一つある。僕は歩みを進め、窓際へと寄る。


「……ガラスが粉々に割れているので、非常にわかり難いのですが。よく見てください、この窓……開いています。ドアの向こうにはダリアさん達が居たのでしょう。リヴェルくんはドアではなく、ここから飛び降りたんです」

「ここから!? 何階だと思っているんだ、ここは――」

「きみは、ご自分がこの程度の高さから飛び降りたら怪我をすると思いますか?」


 リヴェルはダンピールであり、ワータイガーだ。身体能力だけで見れば、ルシアよりも優っている。ならば、精々二十メートル程度の高さから飛び降りたとしても大した怪我はしない。

 そして、何よりもこの部屋にはリヴェルの血の匂いがしない。血痕も見当たらないし、間違いない。リヴェルは攫われたのではなく、逃げたのだ。

 ならば、今もダリア達から逃げている可能性が高い。


「行きましょう、ルシアくん。きっと、リヴェルくんは今も一人で逃げている筈です。ダリアさん達よりも先に見つけなければ――」

「……なぜ、ギターを持って逃げなかったんだ?」

「え?」

「リヴェが捕まったのではなく、逃げた……その可能性があるのは認める。だが、それならなぜ、あいつはギターを持って逃げなかったんだ?」


 ルシアが再び片膝を付いて、散らばる木片の一つを摘まむ。軽機関銃の餌食になったのだろう。どう頑張っても修復は不可能だ。


「それは……余裕が無かったからに決まっているでしょう?」


 ルシアの問い掛けに答える。彼らしく無い疑問だ。でも、納得していないらしく彼は食い下がった。


「リヴェは……本当にこのギターを大切にしていたんだぞ? 毎日飽きもせずに、ピカピカに磨き上げて……持って逃げるのが無理だったのなら、せめて隠すくらいのことは出来ただろう」

「あの、ルシアくん。確かにリヴェルくんにとって、このギターは大切なものだったのかもしれませんが……」


 言いかけて、ふと何かが喉につっかえるような感覚を覚えた。ルシアの言っていることは、あながち的外れではないかもしれない。

 あのギターは、リヴェルの宝物だった。どれくらい大事にしていたかなんて、ルシアに言われるまでもない。ギターはリヴェルの背の半分くらいの大きさであるから、持って逃げるのは難しい。でも、隠すくらいなら出来ていたとしてもおかしくない。

 でも、リヴェルはそうしなかった。何故だろう?


「……いや、何でもない。忘れてくれ。とにかく、リヴェを探しに――」

「ギターよりも大切なものがあって、リヴェルくんはそれを持って逃げたのではないでしょうか?」


 ルシアの言葉を遮って、僕は言った。確かに、ギターはリヴェルの大切な宝物だった。新しいギターを買ってあげようと言っても、子猫は頑なにあのギターに拘り続けた。

 でも、リヴェルにはギターよりも……何なら、自身の命よりも大事なものがある。


「ギターよりも、大切なもの? ……そんなもの、ある筈が」

「いいえ、あります」


 そう言って、呆気に取られるルシアを置いて。僕は締め切られたクローゼットへと歩み寄り、躊躇なく開いて見せた。それは、リヴェルのクローゼットではない。


「おい、そこは俺の服くらいしか……ッ!! あいつ、まさか!?」

「ええ。そのまさか、です。ルシアくん……リヴェルくんは、きみのことが本当に大好きなんですね。まさか自分の宝物ではなく、きみの宝物を優先するだなんて」


 駆け寄るルシアに、苦笑しながら一歩下がって。クローゼットの中には、色気の無い黒いロングコートがいくつか掛かっているだけ。

 数日前までそこにあった筈のものが、忽然と姿を消していた。


「……ねえ、ルシアくん。これは、確認なんですけど……リヴェルくんは、きみのお気に入りである凶暴な『女神様』の扱い方をご存知なんですか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る