――嗚呼、可哀想なアベル。まさか、実の兄からこのような仕打ちを受けてしまうとは。


 カインに殺されてから、果たしてどれくらいの時間が経ったのかはわからないが。気がついたら、僕の目の前には『神』が居た。

 今を生きる者達は、神という存在を夢幻のものとして、全知全能の絶対的な創造主として崇めているが。その実態は、大いなる力を持つだけで僕達と何も変わらないのだ。

 不完全で、欠点だらけで。厳しく、しかし優しくもあり。そして、何者よりも孤独で寂しがり屋だった。


 ――カインには、永久に我が元に戻って来ないよう呪いを与えた。ルシフェルと同じ、永遠の命を与えて楽園から追放したのだ。


 神は言った。彼――あるいは、彼女。僕の記憶では、神がどのような姿をしていたかなんて、もう思い出せない――は孤独を嫌う癖に、自分に仇をなす者は容赦なく切り捨てたのだ。相手の手が自分に届かないよう、出来るだけ遠くに追いやった。

 ルシフェル……世界で一番麗しい、かつての大天使は神の元を離れた結果、楽園へ戻る為の翼を毟られて暗黒の奥深くへと突き落とされてしまった。

 そして、カインには罰として『永遠の生』を与えられた。これによりカインは輪廻の理から外れ、永遠に世界を彷徨う羽目になってしまったのだ。

 生き物は与えられた時間を生きて、死ぬ。死ねば神の元に迎えられ、再び新しい生を与えられる。草花だろうが、獣だろうが人だろうが、それだけは絶対なのだ。

 ゆえに、カインはそう遠くない内に壊れてしまうのだろうと思った。ルシフェル程の強さがあれば話は別だが、カインはそんなに強い男ではない。

 彼……兄もまた、寂しがり屋で怖がりな性格だった。だからこそ、彼は神に愛されたかったのだろう。


 ――愛しいアベル。可愛いアベル。お前を傷付ける全てのものから、永遠に護ってあげよう。


 神は言った。僕は、神に選ばれたのだと。この世界に存在し、そしてこれから産声を上げるであろう全ての苦しみ、悲しみから護ってあげよう、と。

 神の元で、痛みや飢えを知らずに、寒さも暑さも存在しない楽園で。同じ時間を共にしようではないか。


――お前が望むのならば、何でも与えよう。甘く蕩けるような果実も、七色に輝く水も何でもある。どんなものでも用意してあげよう。


 アベルはカインとは違う。アベルは神に選ばれたのだから、それを受け取る資格が与えられたのだ。誰もが欲しがる栄光。永遠の安らぎを。


『……では、神よ。僕の……アベルの願いを、一つだけ叶えてください』


 それは、酷く慎ましい申し出であった。傲慢で、強欲な人間らしくない。周りの天使達でさえそう囁き合い、アベルの言葉に驚き目を疑ったくらいだ。


 それでも、アベルは迷わなかった。


 ――良いだろう、アベル。お前の願いを叶えてあげよう。


 神は優しく、どこまでも暖かで。泣きたくなるくらいに優しくて。慈悲深い主。でも、だからこそ。アベルは、真っ直ぐに神を見据え。底冷えする程に冷たく、綺麗な微笑を口元に飾り、神へと告げた。


『……僕は、この時をもってアベルの名を捨てます。二度と、僕の前に現れないでください』

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