「……それで、その老眼鏡を買ったわけか」

「失礼な! 老眼鏡じゃないですよ、お洒落眼鏡です!」


 夜。彼等が借りているマンションの屋上に、ルシアを呼び出した。改めて見れば、周囲に似たような建物がいくつも建っているし、未だに建設途中のものもあった。

 それらをレンズ越しに眺めてみる。何かが変わるかと思いきや、特に変化は無い。元々視力は良い方だから、このレンズはただのガラスだ。


「ふふふ……良いんですか、この眼鏡を悪く言って? これ、リヴェルくんが選んで買ってくれたものなんですよ? ずっと貯めてたお小遣いを僕の為に使ってまで買ってくれたんですよ?」

「なるほど、確かにセンスが良いな。最早センスの塊だな。ちゃんとわかっていたぞ、最初からな」

「……きみって本当に、残念なお兄さんですね」


 普段は冷徹な堕天使の癖に、どうしてリヴェルが関わると途端に駄目な兄貴になってしまうのか。まあ、僕自身もそういうところがあるので強くは言えないが。

 真新しいシルバーフレームの眼鏡を押し上げて、やれやれと肩を落とす。それにしても、眼鏡というものは慣れていないと意外と難儀な代物だ。既に目頭とこめかみが痛い。


「それで、何の用だ? というか、勝手に他人のコートを着るな」

「良いじゃないですか。新しいコートが欲しいなら一緒に買いに行きますか? 代金はお支払いさせて頂きますよ」

「死んでも嫌だ」

「まあ、それはまたの機会に。では本題に入りましょうか、ルシアくん……きみが今回受けたお仕事、僕にもお手伝いさせて頂けませんか?」


 肌寒い夜風に靡く髪を押さえながら、僕は一つの提案を持ち掛けた。案の定、三歩分程離れた場所に居るルシアが不快そうに端正な顔をこれでもかと顰めた。


「……何のつもりだ?」

「そんなに警戒しないでくださいよ。ただ、僕はこの国を蝕んでいる悪意が気に食わないだけですよ。きみが手に入れた、あの薬……『アルジェント国』の製品ですよね?」


 柵に寄りかかって、僕は言った。ルシアはただ溜め息を吐くだけ。それこそが、答えだった。

 軍事帝国アルジェント。約千年前からこの世界に存在し、それこそ石と木の槍から最新の機関銃を作り上げる程の歴史を生きてきた大国は、今では人間達が生きる中で最大の軍事国家へと成長していた。

 だが、その裏では人外を利用した生物実験なども盛んに行われている。リヴェルとルシアも、生まれはアルジェントであり実験の被害者だ。そして、リヴェルの双子の兄であるテュランは、今もまだ非道な仕打ちの渦中に居る。

 まあ、その辺りの事情は正直どうでも良い。


「あの薬は恐らく、『ダンピール生産計画』の派生による産物ですね? 吸血鬼の血液を少量ずつ、安全かつ継続的に摂取する。そうすることで、ダンピールと呼べないまでも通常の人間達とは比べものにならない程に身体能力を向上させることが出来るのでしょう」

「……ふん、冴えてるな」

「昼間に、ダリアさん達を見かけたことは話しましたよね? 彼女達こそが、その被験者であることは間違いありません」


 そうでなければ、彼女達の驚異的な回復力に説明がつかない。ルシアも、もはや否定することはしなかった。


「……今では、このメルクーリオという国自体がアルジェントの実験場となっている。この国の急成長も、アルジェントが実験に必要な土台を作る為に裏工作した結果だ。用が済めば、そう遠くない内に切り捨てられるだろう」


 黒髪を靡かせながら、ルシアが淡々と言葉を紡ぎ始める。まさか素直に話すとは思わなかったし、その内容もまた、僕にとっては衝撃的であった。


「……ええっと、流石にそこまでは想定していませんでした。ていうか、それって話しても良い内容なんですか?」

「今回の仕事は状況次第では蹴るつもりだからな。この国がアルジェントの手中にある以上、長居は出来ない」


 だが、とルシアが気まずそうに続ける。


「……正直、今は手持ちが厳しい。出来ることなら、少しでも金が欲しい」

「あんなに凶暴な女神様なんて買うからですよ」


 もちろん、彼が僕に目一杯お見舞いしてくれたVE176のことだ。あの短機関銃一丁で何か月分の生活費になることか。


「……いざとなったら、手放すことは考えている」

「今すぐ手放して頂けると助かるんですがね、僕の精神衛生的に」

「お前の精神状態なんかどうでも良い。だが、お前は……」


 ルシアが真っ直ぐに僕を見つめてくる。僕と同じ、血色の双眸。だが、僕には無い光を宿す頼もしい瞳だ。


「お前は、リヴェルのことだけは裏切らない。そうだろう?」


 そう言うルシアに、いつもの悪意はどこにも無かった。どうやら、彼自身も相当今の状況には参っていたようだ。

 頼りに出来る友人も仲間も居らず。一人でリヴェルを護ってきた。ルシア自身、戦うこと以外の知識なんか皆無に近かったのに。

 そう考えれば、まだまだルシアも可愛げがある。


「……当たり前じゃないですか。あんなに可愛い子猫を見捨てるわけがないでしょう? リヴェルくんのことは、僕が護りますよ」


 言って、自分の手に視線を落とす。この『死』に塗れた手を、彼は怖がらなかった。離したりしなかった。

 そんな優しくて、大切な存在であるリヴェルを護ることに迷うことなんて無い。


「どんな手を使ってでも、何を犠牲にしても。僕は必ず、リヴェルくんを護って見せます」


 彼の笑顔を、歌声を護ることが出来るのなら。僕は、きっと何でも出来る。幸運にも、簡単には死なない頑丈な身体を持っているのだ。


「あは! ご安心を、ルシアくん。たとえきみが死んじゃったとしても、僕が責任を持ってリヴェルくんを育ててあげますから」

「……ほう? それはそれは、頼もしいことだ」


 にっこりと、ルシアが微笑む。あ、しまった。これは完全に失言だった。かつては天界一の美貌を誇ったあの堕天使のような綺麗な笑みに、強烈な寒気を覚える。

 夜風が止んだ、その一瞬。瞬く間にルシアが距離を詰め、僕の喉元に何かを突き付けた。

 冷たく、鋭い感触が肌へ僅かに触れる。それが何であるかなんて、見なくてもわかった。


「――――ッ!? る、ルシア……くん?」

「それ以上ふざけたことを言うなら、このまま喉笛を切り裂いてやるが?」

「あ、ははは……やだなー、冗談ですよ。冗談」


 精一杯に平常心を保とうとするも、声が情けなく震えてしまう。偶然か、それともわざとなのか。とりあえずは満足してくれたらしく、ルシアは鉈程にもある巨大な軍用ナイフをコートの内側にしまった。


「続きは明日にするぞ。これ以上リヴェルを一人にしておくのは心配だからな。歩ける程度に回復したのなら、さっさと自分の住処に帰れ」


 ご機嫌な様子で、背を向けて。ルシアが階下への階段を降りて行った。僕は何とか笑顔を顔面に貼り付けて、ひらひらと手を振った。


「あはは……お、お休みなさーい……」


 見慣れた黒いコートの背中が見えなくなるまで見送って。辺りにはもう、僕以外の人気は無い。元々この集合住宅にはまだ入居者は少ないらしく、明かりが灯っている窓も両手で数えられる程だ。


「あ……はは、ルシアくん……本当に、意地悪ですね。いつものように、脅すなら銃にしてくれれば――」


 虚勢を張れたのも、そこまでが限界だった。まるで後ろから殴られたかのように、ぐらりと視界が揺らぐ。

 何も、あんな夢を見た日に。『ナイフ』なんかで斬り付けてくれなくても良いじゃないか。


「う、ぐッ!?」


 思わず、その場に膝を付く。反射的に柵を掴むも、誰かに揺さぶられているのではと思う程にがくがくと震えている。


 ――お前さえ居なければ。弟なんか、要らなかったのに!!


「ッ、ゲホゲホ!! あぐっ、ううぅ……」


 胸が斬り刻まれ、心臓が破裂して、止め処なく命が零れていく感覚。どうにかして繋ぎ留めようとしても、どんどん溢れ出てしまって。鼓膜を破る程の激昂が蘇り、思考を一色に塗り潰していく。

 恐ろしい程の――紅い鮮血色に。


「……ぼ、くは」


 消え入りそうな声が、勝手に言葉を紡ぐ。それが何を意味するかなんて、意識が朦朧としていた僕にはわからなかったし、興味もなかった。

 ただ、誰にも聞かれずに夜風に掻き消されたことだけは、わかった。



「僕、は……結構、貴方と過ごした時間……気に入っていたんです、けどね……カイン」

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