「――――」


 音が、聴こえる。温かく柔らかな音色。いくつもの音が重なったり、繋がったり。そして、時折そこに乗る少年の声。否、この場合は『歌』と呼ぶべきか。最も、それは鼻歌とかハミングとかそういう類のもので、残念ながらそれ自体に深い意味は無いようだが。

 永い時の中で、『この子』以上に魅力的な旋律を奏でられる者を、僕は未だに見たことが無い。


「…………」


 歌を邪魔しないように、僕は視線だけを動かす。見えるのは、灰色の曇り空ではなく天井だった。何の変哲も無い、白い壁紙に円形の照明。更に、首も動かしてみる。知らない場所だが、何だか落ち着く空間だった。でも、妙だ。

 どこからか、血の臭いがする。


「……ッ」


 身体を起こそうとした瞬間、激痛が走る。あんな夢を見ていたからか。それとも、ダリアに打たれた毒のせいか。体力を凄まじく消耗してしまっている。


「――――」


 僕が目を覚ましたことに気がついていないのか、歌は止まる気配が無い。視線を動かすと、ご機嫌そうな二つの赤い『獣耳』が見えた。どうやら僕はベッドに寝かされていて、少年が床に直接座ってベッドの縁に背を預けているような形で居るらしい。

 僕がこれから何をしようと、大きな音さえ立てなければきっと気づかれないだろう。すると、途端に抗いようの無い強烈な『飢え』が、思考を一色に塗り潰す。


 嗚呼、喉ガ渇イタナァ。


「…………」


 耳と同じ紅い髪に手を伸ばす。この髪を鷲摑みにして、もう片方の手で歌を奏でる口を塞ぎ。逃げないように身体をベッドに沈めて押さえ込み、服を引き裂いてその肌に鋭い犬歯を突き立てて、欲望のままに生き血を啜ってしまおうか。

 彼は、ルシアが自分の命よりも大切にしている宝物なのだ。そんな少年が僕の暴行に泣いて、綺麗な歌を奏でる喉で喚いてくれる。それはそれは甘美な血を与えてくれるに違いない。

 指先が、柔らかな毛先に揺れる。僕は無意識に舌舐めずりして、


「――ッ!? わっ、うわわ!」

「……お久しぶりですね、リヴェルくん?」


 わしゃわしゃと、赤い猫毛を撫で回す。我ながら、今のは危なかった。


「やーめーろーよージェーズー!」

「あっはは。すみません、きみの髪は柔らかくて触り心地が良いので、つい」


 良い感じにボサボサにしてやってから、手を離してやる。そのまま寝ているのも格好がつかないので、歯を食いしばって何とか上体を起こしてみる。今度は何とか成功した。

 長く同じ姿勢で居たから、身体が強張ってしまっているようだ。


「久しぶりー、ジェズ。アンタ、寝てると本当に死んでるみたいに動かねーのな?」

「まあ、僕はこれでも一回死んでますからね」

「スゲー!」


 ベッドの縁に手を置いて少年、リヴェルが此方を見て笑う。銀色の瞳に、紅い虎柄の尻尾がピンと立っている。もう一度、今度は優しく撫でてやればゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らす。リヴェルは『ワータイガー』という、人外の中でも特に獰猛な種族であるのだが。

 こうしていると、人懐っこい子猫のようで本当に可愛い。血は繋がっていないとはいえ、この子があの堕天使……もとい、ルシアの弟だなんて。


「それで、ここは……きみ達の家、ですか?」

「そーそー。でも、一週間くらい前に来たばかりだし、いつまで居るかわかんねーケドな」


 リヴェルが言った。なるほど、確かにまだ引っ越してきたばかりのような真新しい雰囲気がある。

棚やソファなどの大きな家具は、恐らく備え付けのものだろう。

 それでも、見覚えのある物が一つだけ。


「なるほど、ところでリヴェルくん、そのギター……まだ持ってくれていたんですね?」


 僕は、彼が抱えるそれを指差した。先程まで、部屋の中に満ちていた温かい音色。それが、リヴェルの歌と彼が弾くアコースティックギターだ。

 リヴェルはルシアと共に、国を転々と移動する生活を送っている。それは穏やかな旅とは言い難く、どちらかと言えば逃亡生活に近い。時には着の身着のまま逃げる、ということだってある筈。

 それでも彼は、そのギターを手放すことはしなかった。


「んー……だってコレ、ジェズが買ってくれたヤツだからな」


 照れ臭そうに、リヴェルがぎゅうっとギターを抱き締める。確かに、何年か前に僕が買ってあげたものだ。しかし楽器というものは総じて高級品であり、このギターも寂れた町の中古品店で埃を被っていたような代物なのに。ケースすら無いのに。

 ねえ、この子本当に天使なんですけど? こんな汚れきった下界に居ても大丈夫なんですかね? かと言って、あのクソッタレな神の元に返す気なんてさらさらありませんけどね。

 ざまあ見なさい、アハハハ。


「……どうした、ジェズ? まだ具合悪いのか?」

「いえ……大丈夫です」


 少し落ち着こうと深呼吸を繰り返す。しかし、そうしていると殊更に何処かから香る血の臭いが気になってしまう。消耗しているせいだろう、本能的に嗅覚が過敏になっているのだ。


「ねえ、リヴェルくん。きみ……もしかして、どこか怪我をしていませんか?」

「ケガ? ……あー、コレ? ケガっていう程でもねぇケド、さっきちょっと指切っちゃった」


 リヴェルが左手を開く。見れば、中指の頭が線を引いたように切れてしまっている。ギターは買った当初から大分傷んでおり、いくらリヴェルが大事に扱おうとも劣化は避けられない。縁に所々ささくれが出来てしまっており、それで時折指を切ってしまうのだそう。

 自分よりも一回り程小さな手を、そっと取る。色鮮やかな紅が、じわりと滲む。


「駄目じゃないですか、ちゃんと絆創膏を貼りなさい」

「えー? すぐ治るから大丈夫だって」


 ムッとして、リヴェル。確かに、傷はそれ程深く無いようで出血量も大したことは無い。でも、僕が言いたいことはそうではない。

 彼は少々、自分で自分を痛めつけようとする嫌いがある。それも、一般的な自傷行為とは意味合いが異なるので厄介だ。


「あのねぇ、リヴェルくん……きみは、大事なことを忘れていませんか?」

「大事なコト?」

「はい。それは……僕が、リヴェルくんみたいな美少年が大好物な吸血鬼である、ということです」


 にっこりと笑えば、リヴェルが青ざめた顔で慌てて手を引こうとした。でも、もう手遅れだ。

 自分からやってきた『極上の餌』を逃がしたりなんかしない。


「や、やめ――」

「やめません」


 捕まえた指先に唇を寄せて、傷口をそっと舐めやる。甘美な雫が舌先から伝うだけで、彼がまだ何にも知らない綺麗な身体であることがわかる。

 正直、個人的に本当の『餌』とするには少しくらい穢れていた方が良いのだが。飢えている身体と、相手が他でもないリヴェルであるという背徳感が止められない。指先を口に咥え軽く吸えば、十七歳の少年にしては細い肩が大きく跳ねる。


「うぅー……ひっ! ジェズ、もう……やめ、て」


 毛を逆立たせた尻尾が、床にへたり込んでしまう。耳もぺたんと伏せ、ぎゅっと目を瞑り髪と同じ位に真っ赤になってしまった。物凄く愛らしいが、このままでは彼がミイラになるまで吸血してしまいそうなので唇を離した。


「……ほら、言ったでしょう? 意外なところに、お腹を空かせた吸血鬼が居るかもしれないんですから。ちゃんと傷を負ったら、隠さなくては。それに……きみはもっと、自分自身を大事にしなさい。ルシアくんが、命をかけて助けてくれたんですから」

「……うん」

「絆創膏と消毒薬は……ああ、いつもと同じ箱の中ですね」


 すっかり脱力してしまったリヴェルの頭を一撫でして、ベッドから降りる。ほんの少しの血でも、意外に回復したようだ。

 まだまだ好調とは言い難いが、あとは時間を置いて薬が身体から抜けるまで我慢するしかない。

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