第二章 ダンピール


 その日は、雨が降っていた。ざあざあと、冷たい大粒の雫が止め処なく頬を打つ。まるで、人の愚鈍さを見せ付けるように、生まれ持った罪を詰るように。

 僕は、襲い掛かる刃から逃げることも出来なかった。


『……お前なんか、居なければ良かったのに』


 彼が、底冷えするような声で呪う。何度も、何度も。髪を、頬を、歯を、舌を、そして唇を紅に染めて。ぶるぶると可哀想なくらいに震える両手で、大振りのナイフを握り締め。

 繰り返し、繰り返し。頭上よりも高く振り上げては、馬乗りにした僕の身体へと力いっぱいに突き刺した。


『…………』


 痛みなんか、とっくに感じなくなっていた。心臓が止まって、息が出来なくなって、瞳が光を失くして。ぴくりとも動かなくなっても、声を掻き消されても。彼は、その手を止めなかった。

 彼――カインは、自分と血の繋がった『弟』を無かったことにしようとしたのだ。


『お前なんか、最初から要らなかった。弟なんか、必要なかった。いつもいつも、私の邪魔をして。私が欲しいものを、私の目の前で全部奪って。私が焦がれていることを知っていながら、見せびらかして自慢して……そうやってお前は、惨めな私を見て嗤っていたんだろう!?』


 喉が張り裂けんばかりに、彼は叫ぶ。その全身を返り血で、弟の身体から溢れ出る命で染め上げて。そんな恐ろしい形相のカインを――『兄』を、僕はただ見上げるしかなかった。

 両手は氷のように冷たく、身体は鉛の如く重い。光を失った目では、兄の姿がよく見えない。

 名前を呼ぼうにも、声の出し方さえもうわからなかった。

 でも、多分。カインは、泣いていた。


『そんなに、面白かったか? 私を兄と慕いながら、見下して、馬鹿にして。楽しかったか? 私の前で全てを手に入れて、優越感に浸れて。アベル……お前さえ居なければ、それは全部私のものだったのに!!』


 奪われた僕のナイフが、僕の血で深紅に染まる。憎悪を剥き出しにして、狂気で僕を否定して。僕が積み上げてきた筈のものを、全て壊して。


『お前さえ居なければ、あの方は私を愛してくれる。このカインだけを見てくれる。お前なんか要らない。返せ、返せ返せ返せかえせカエセ私から奪ったものを全部返せ、アベル!!』

『…………』


 言い返したいことは、山程あった。でも、もう何も言えなかった。何も感じなかった。雨が止む気配は無く、空には灰色の分厚い雲が広がっていた。


 後に、カインは人類で最初の殺人を犯した重罪人として、自ら弟を手に掛けた愚か者として神に罰せられることになった。決して癒えることがない飢えに苦しみながら、永遠の時を生きる吸血鬼として。


 ……そして、カインに殺された『アベル』は――

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