第11話 旅立ち

 いくつかある腕時計が一つ足りないことに、涼は気がついた。最後につけたのはいつだったかと考えていると、寒い雨の夜を思い出した。

 「……」

 そう言えば是俊は濡れた自分の服をまとめて乾燥機に放り込んでいたような気がする。まさか時計まで入れてはいないだろうが、きっと忘れてきたのだろう。

 自分で買ったものならまだしも、あれは高校を卒業する時に周二がくれたもので、日本では知られていないが、イタリアの老舗時計店で作られた限定品だった。文字盤まで細かな細工が施された美しいアンティークの逸品で、一番気に入っている。周二にも高いから大切にしろと言われたくらいだ。値段も勿論のこと、物としての質も価値もという意味だったと気付いたのは、愛着をもち始めてからだった。

 是俊にはあれから会っていない。部屋についてから「ごめん」とメッセージを送ると、「早く風邪治せよ」と返事が来た。時計を見るともうすぐ正午だった。土曜日なら、是俊は家にいるだろう。もしかすると、如が傍にいるかも知れない。そう思うと、気が重かったが、やはり探すべきだろうと携帯を手にした。電話は、是俊の部屋の方にかけた。その方が、何となく楽な気がした。

 呼び出し音が響く。自分のいなくなった空間に響く聞きなれた音を涼は想像した。なり続けるベルの音。不在かと、電話を切ろうとした時

 「はい」

 と、不機嫌そうにも聞こえる是俊の声がした。

 「是俊……あ、俺、だけど」

 「おお、どうした?風邪治ったか?」

 一瞬だけ緊張したような是俊の声に、涼の胸がわずかに痛んだ。少し前には、絶対に聞くことのない声だった。

 「うん……。ありがとう。あと……この前」

 「もう、やめようぜ、その話……。俺も……悪かったな。余裕なくて」

 二人は遣る瀬無いような沈黙の中、互いの気配を遠くにうかがっていた。やがて是俊がため息をついた。

 「仕方ないよな……。済んだことは」

 「うん」

 軽薄にも聞こえる是俊の言葉は、不思議と涼の気持ちを軽くした。そして、是俊が彼のペースで話をしていることで、是俊が今一人であることも涼にはわかった。

 「で、どうした?何かあったのか?」

 労わるような、優しげな声で、是俊は涼の声を待った。

 「時計」

 「時計?」

 唐突な涼の言葉に是俊は間の抜けた声で繰り返した。

 「腕時計、周二さんが高校卒業した時にくれたやつ……なくしちゃって、もしかしたらと思って」

 「ああ、あれな。預かってるぜ」

 案外あっさりと見つかってしまい、涼は何と言えばいいのかわからなくなった。それでなくても、今の是俊と話をするのには何とも言えない違和感が付きまとっているのだ。電話の向こうで是俊が笑った。

 「探してなかったらもらおうかと思って連絡しなかった」

 「探してたよ」

 冗談めかした是俊の声に涼もようやく笑った。

 「しょうがねーなぁ。返すか……」

 「ごめん」

 「お前のもんだしな。どうする?取りに来るか?」

 是俊は何気なくそう言ってから涼の沈黙が躊躇なのだと気がついた。さすがにあんなことがあった後だ。早々には来られないだろう。

 「今夜暇か?」

 「え?」

 「軽く、外で飯でも食わないか?」

 是俊の提案に、涼はうんと答えた。二人きりで会うより、外で食事でもしながら話す方がいいように思われた。

 是俊は以前からよく使っていたレストランの名前と時間を告げ、その時に時計を持っていくといった。

 「ありがとう」

 「ああ。じゃあ、後でな」

 「うん……」

 電話を切って、涼は時間を確かめた。

 今さら、どうということもないはずなのに、どことなく気持ちが重い。是俊もきっと、同じような感情を抱いているのだろうと涼は思った。


 

 おう、と涼を見つけた是俊が片手を上げた。いつもと同じような表情で、けれど少しだけ気まずいような渋さがあった。涼は、何も言わずに微笑んだ。

 「ほら」

 席に着くとすぐ、是俊は右手にしていた時計を外した。外した左手には別の時計をしていたので、涼はちょっとおかしそうに

 「ありがとう」

 と是俊を見る。何だよ、と是俊は微笑したけれど少し元気がないように涼には思われた。しかし、涼がそれを指摘する前に

 「お前、これからどうするんだ?」

 是俊が唐突に言った。

 「これからって?」

 果実のアペリティフを啜りながら、涼は是俊を見返した。

 「周二から、バイトやめたって聞いたから」

 「ああ……。四月から、メイクの専門行くつもりだよ。周二さんの友達に推薦状も書いてもらったし……。見られるのは、やだけど、ああいう世界って楽しいから」

 「そうか」

 よかったなと、是俊は頷いた。それでも……どこか寂しげな気配は消えない。食事が進んでも、是俊はやはり寂しそうだった。心ここにあらず、とは言わないが、必死でここに連れてこようともがいているような雰囲気がある。

 「是俊?」

 涼は思い切ってそう呼びかけた。

 「ん?」

 是俊らしくない気の抜けたような、穏やかなような、優しさと曖昧の途中で是俊は微笑した。

「どうか、した?」

 まさかとは思うが、あの朝のことで如に何か言われたのだろうか。

 「いや……いや、でもないか」

 涼の知らない顔で、是俊はふっと遠くを見た。

 涼は黙って是俊の言葉を待つ。

 「あいつが、如が……」

 ゆっくりと自分と向き合う時の是俊の表情を、涼は注意深く見つめた。どこかでやっぱりと思いながら、できれば触れて欲しくないと心のどこかがざわめく。

 「海外に行くんだ」

 「え……?」

 思わぬ言葉に涼は、戸惑った。早く過去にしたい記憶に伸びていると信じた是俊の眼差しは、どうやらそう遠くはなさそうな未来を見つめていたらしい。

 「自分の店を持ちたいんだと。それで、フランスに一年。ワーホリで、憧れてるギャラリーだかカフェで働かせてもらうらしい」

 「いつから?」

 「もうすぐ」

 「……」

 是俊の気持ちにはそぐわないだろうけれど、もしかすると如は、篠吹と離れる為に遠くに行こうとしているのではないだろうかと、涼は思い至った。勿論それは如自身にしかわからないことなのだが。

 「あいつも、言い出したら聞かないからな……」

 恋人だけの親密さ。諦めに滲む愛しさ。是俊の言葉から、表情から涼はそんなものを感じ取った。

 「本当に俺が聞いたのだって最近だぞ?会社の連中には当然言ってないし、誰にも言うなとか言ってたけど……まあ、お前ならいいだろ」

 「へぇ……」

 是俊に気取られないようそっと、涼は目を伏せた。鼓動が早まる。

 きっと……篠吹も知らない……。

 それは、悲壮なまでの如の決意なのだろうか。

 盗み見るように上目遣いで見上げた是俊の顔には、諦めと孤独とが寂しい微笑の姿を借りてはっきりと浮かんでいた。



 是俊と会ってから三週間が経った。涼の生活にはそれこそ何の変化もなく、如が旅立ったのかどうかさえ知らずにいた。

 是俊からも、連絡はない。確かに、わざわざ知らせるような事ではないのかもしれない。けれど、どこかにわだかまりが残っていた。

 「おかえり」

 玄関で出迎えてくれた篠吹に、涼はただいまと応じた。一緒に暮らしているわけではなかったが、生活のスタイルとしては限りなくそれに近いのは現状だった。以前と変わったことといえば、篠吹の部屋にある家具の配置だろうか。

 あの一件からしばらくしてから、篠吹は模様替えをした。カーテンを新調して、ベッドも買い換えた。本当は、カーテンは口実で、ベッドを買い換えることが目的だったと涼も知っている。涼は丁寧に辞退したが、篠吹は涼にベッドを選ばせた。

 「俺の自己満足だから」

 申し訳なさそうに篠吹は言って

 「二人だけのものにするよ」

 小さな声で笑った。

 そんなことで懐柔されてしまうのはどうかと思ったし、思い出せばまだ心は痛んだが、涼は篠吹の誘いにのることにした。篠吹と共犯になるような気がして、嬉しかったのは本当だ。でも、どこか苦しかった……。

 「どうした?ぼんやりして」

 一緒に買いに行った時のことを思い出し、ぼんやりとベッドを眺めていた涼の背を篠吹が抱いた。ソファの背もたれの上から涼の首筋に抱きつくように、そっと。

 涼はちょっと首をひねって、間近に篠吹を見た。

 言わなければいいと、思っていた。そしてもし、篠吹がそれを知ることがないのなら、篠吹は自分に対して立てた誓いを忠実に守っているということになる……だから、言わなければいい。

 そう思いながら、しかし涼は口を開いていた。

 「如さん」

 「え?」

 篠吹は表情を崩さなかった。

 それが、自分に対する思いやりなのだろうかと一瞬だけ冷ややかに考え、それから涼は篠吹の瞳をじっと見返した。

 「会社辞めて、海外に行くんだって」

 「誰からそんな話を?」

 是俊、と短く応じて、涼は篠吹に背を向けた。挑戦的にその眼差しを見つめ返してはいたものの、知っているということを逆に気取られてしまいそうで怖くなったからだった。

 篠吹はそうか、と呟いた。

 「最近、見かけないと思ってたんだ……。そうか、海外に」

 篠吹の声を背後に聞きながら、涼はわずかにうつむいた。

 もう、篠吹を疑う気持ちはなかった。ただ、何となく……今でも苦しい。篠吹が如を抱いたことより、それを知ってしまったことより、如の気持ちが痛いほど悲しく思えた。

 町ですれ違った時の強ばった笑顔が、雨の夜に聞いた泣き声と重なる。そんな悲痛な思いで誰かを好きになったことが自分にはあっただろうか……。そんなことを考えていると

 「何をしに、どこへ行ったかは聞いてる?」

 篠吹が静かにきいた。

 「フランスに、ワーキングホリデーだって……」

 「そうか……。急だな」

 篠吹は無意識のように涼の髪を撫でて呟いた。涼は斜めに篠吹を振り仰いだが、

 「どうした?」

 何事も感じていないかのような眼差しに出会い戸惑った。

 「……」

 黙りこんだ涼に軽く口付けて、篠吹は再び涼の髪を撫でた。

 愛情のこもった、穏やかで、無感動な愛撫だった。

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