第10話 部屋

 仕事が終わると、二人は青山にある行きつけのレストランで食事をし、近くのバーに寄るという、半ば定番化したコースで金曜の夜を過ごしていた。

 隠れ家的な感じのするバーは、カウンターとテーブル席が四つだけの小さな店だった。しかし、無口だが雰囲気のある老年のマスターと秘蔵のワインは非常な魅力で、是俊は何年も前から通っている常連の一人だった。この店には本当に気に入った相手しか連れてこない。是俊がこの店を紹介して相手は、たった二人。涼と、如だけだった。

 週末の喧騒から外れた静かな空間では、時間の流れさえゆったりと感じられる。いつもの旨い酒を恋人とともに味わうのは、是俊にとって、日常の中の、最高の安らぎだった。

 けれど是俊にとって、ただ一つ予想外だったのは、

 「僕の部屋、来てみる?」

 という、如の突然の申し出だった。

 「嫌じゃなかったのか?」

 お前の部屋が見たいと言い、是俊は何度如に断られたかわからなかった。如は是俊にそうねだられる度、部屋に人を呼ぶのが好きではないのだと、やんわり拒絶し続けてきた。

 「そんなこと言ったっけ?」

 是俊に心底驚いたように見つめられ、如ははぐらかすように微笑んだ。

 「何だそれ?」

 是俊はなお訝しげに如を見つめたが

 「心の準備がいるでしょ?僕、是俊君みたいに人見知りしない人間じゃないから」

 如に眩暈のしそうな微笑を向けられると、何もかもどうでもいいような気がしてくるのだった。

 「出よう」

 「もう?」

 性急に立ち上がり自分の腕を掴んだ是俊に、如は不満の声を上げた。

 まだ飲み足りないと言いたげな如の瞳に、是俊は腰を屈め囁いた。

 「気が変わったなんて、女みたいなこと言うなよ」

 「言わないよ……」

 如は苦笑し、是俊にうながされるまま席を立った。


 狭いから驚かないでね、と如は笑い、是俊を部屋に招きいれた。青山から十分ほど電車に乗り、二人は如のマンションに着いた。そこは、アパートというには豪華すぎ、マンションと呼ぶには、少々こじんまりとした、ワンルームの部屋だった。

 「オジャマします」

 いささか意外な気もしたが、是俊は大人しく如の後に続いた。

 「どうぞ」

 如は先に部屋へ上がると、是俊が靴を脱ぐのを見届けてから玄関を閉めた。室内には何の光源もなかった。是俊が壁にあるはずのスイッチを手で探ると、如は言った。

 「電気、ちょっと待ってね。足元何もないから躓かないとは思うけど」

 「はぁ?」

 客を部屋に連れてきて、電気をつけないと言うのもおかしなものだ。少なくとも、玄関脇にはスイッチがあるはずだし、まさか電気代を滞納しているというわけでもないだろう。

 (変わった奴だよな……)

 是俊は改めてそう感じた。顔を上げると、どこからともなく甘い香りが鼻をかすめた。

 「何の匂い?」

 暗がりの中、是俊は如に尋ねた。

 「ろうそく」

 「ろうそく?」

 如はキッチンとバスルームの間の廊下を進み、

 「間接照明好きなんだ」

 そう言うと、足元に置かれていた竹で編んだ鳥籠のようなスタンドのスイッチを入れた。

 ぽっと明るくなった室内には、ベッドとローテーブルしかなかった。暖色系のシーツがかかったベッドは、きちんと整えられており、同じく木目のテーブルには、赤いガラスの入れ物が三つ並んでいた。

 「どこでも、適当に座って。ベッドでもいいし……」

 是俊からコートを預かると如はクローゼットを開け、是俊と自分のコートをハンガーにかけた。

 「そこにしまってあるのか……」

 「そう。本棚とかもね。ウォークインだから大きいんだ」

 如の言うとおりクローゼットには、縦型のコンポや背の高い本棚が隠れていた。是俊はベッドに腰かけ、テーブルの上の赤いガラスを覗き込んだ。

 「この匂いか」

 「うん。嫌い?」

 「いや……お前からも同じ匂いがするからな」

 来いよ、と是俊は如に告げた。

 低くかすれたセクシーな声だと、如は思う。誘われるがまま、如は是俊の目前に立った。

 すっと腕を伸ばして、是俊が如の腰を抱いた。如はゆっくりと抱き寄せられる間抵抗しなかったが、

 「のど渇いてない?」

 ベッドに膝を着くと、是俊の表情を見ながらそう尋ねた。

 「乾いてない」

 是俊は言い、如の体を抱き寄せ、キスをした。是俊の手が如のスーツを脱がせ、ネクタイを外しにかかる。

 「是俊君」

 唇が離れると、如は是俊の肩に手をかけて体をはがした。そして

 「シャワー浴びたい」

 そう、困ったような顔で是俊を見る。

 「そんなのいいだろ?焦らすなよ」

 是俊は、口元だけで笑い、如の首筋に唇を寄せた。

 「やだ。僕は飲み足りなし、シャワーも浴びたい」

 子供のようにそう言うと、如は是俊の腕から逃れ、キッチンへ向かった。是俊はそれでも不満はないらしく、どこかおかしそうに如を見ていたが、興味から不意に立ち上がると、向かいの大きなクローゼットを開けてみた。

 服がかかっているのは、左の半分だけで、後はコンポと本棚とがほとんどのスペースを占めている。スーツや、カジュアルなジャケットなどの下には、大きな深緑色のスーツケースが置いてある。

 本棚には……何か目的を持って集めたとしか思えない、同じようなタイトルの本が並んでいた。

 「……如」

 「なに?」

 広くはない室内。それでも二人は互いの姿の見えない場所で話をした。

 「お前、フランス好きなのか?」

 「そう」

 フランスの観光ガイドから、フランス語の教本に辞書。見れば仏検の参考書まで揃っている。一体どうしてここまで……と是俊が不審に思い始めた頃、一冊の本に目が留まった。

 「……」

 是俊は、手にした冊子に言葉をなくした。それは、『ワーキングホリデー・概要と手続き』というタイトルになっていた。

 「近々、行こうと思って……」

 すぐ後ろでした声に是俊が振り向くと、如がグラスと、淡いブルーのボトルを手に微笑んでいた。

 「お前……」

 それ以上何を言いたかったのか、是俊自身にもわからなかった。如は、どこか寂しげに見える笑みで、ラグマットの上に腰を下ろし、グラスとボトルをテーブルに置いた。

 からん、とグラスの中の氷がなった。如は、ライターで三つの蝋燭にそれぞれ火を点し、それからグラスに酒を注ぎ分けた。

 「もう、二十九でしょ、僕?」

 ジンと、キャンドルの甘い香りが混ざり合い、是俊は息苦しさを覚えた。如は、静かな表情で是俊を見つめている。

 「ワーホリって、三十歳までなんだよね。だから、僕には時間がないんだ」

 「決めたのか?」

 是俊は、多少なりともショックを受けているようだったが、如の意志を尊重する気持ちには変わりないらしかった。

 如は、グラスを手に、うんと、応じた。

 「そうか……」

 是俊は感情の読み取れない声で呟くと、グラスに手を伸ばした。

 「退職届も、今月中には出そうと思ってる」

 お前が、と是俊はかすれた声を出した。

 「お前がいなくなったら、皆寂しがるな」

 是俊は、微笑し、それからジンを煽った。

 「是俊君……」

 俺も、寂しい……是俊は、グラスを持ったまま如を抱きしめた。突然の出来事に、如は手にしていたグラスを取り落とし、アルコールを床にぶちまけてしまった。グラスは無事だったが、フローリングに跳ね、氷が割れた。

 静寂が破られ、張り詰めていた秩序が崩壊した瞬間、蝋燭の灯火も大きく揺らいだ。

 一瞬にしてその姿を変えた世界に放り込まれたように感じたのは、是俊も、如も同じだったに違いない。なすべきことを全て放棄して、二人は沈黙の淵に留まった。

 どれくらい経ったか、如が是俊の首筋に顔を埋めながら小さな声で呼んだ。

 「是俊君」

 是俊は黙って如の声を待った。一時間でも二時間でも……望まれれば一生だって、自分は待ったかもしれない。そんなことが頭をかすめ、如を本当に愛しているのだと、是俊は思った。

 「……離れたら、終わるかな……?」

 「終わりに、したいのか?」

 互いの表情を見ることなく、二人は手探りで相手の心を探し当てようとしていた。どちらの声も淡々としていて……触れても触れても宙を切る空しさを感じさせた。

 「待ってて、なんて……そんなこと僕には言えないよ。だけど、僕は、是俊君が好きだから……」

 「いく……」

 是俊は驚いて顔を上げた。目が合うと、如の目元がほんのりと赤く染まる。長い睫毛を伏せて、如は再び是俊にもたれかかった。

 自分は如の言動にどれほど振り回されてきたのだろう……如は、時折、自分をくらくらさせるような事を言ってのける。何もかも達観し、ひどく落ち着いているかと思えば、純粋な子供のような瞳で飾り気のない言葉を口にし、無茶を言う自分の願いを、柔らかな苦笑の中で叶えてくれる……どれも、本当の如で、自分はどんな如をも愛してしまっている。こんなに夢中になって、こんなに必死になって、誰かを追い求めたことが是俊にはなかった。

 「恋人だって、僕が心から言えるのは……是俊くん、だけだよ。きっと……後にも先にも……」

 「如……」

 今までの不安を全てかき消すほど、如の言葉は、何物にもまさる強さで是俊の胸に響いた。

 是俊が言葉を尽くして愛を囁いても、如は例の魅惑的な微笑で全てを受け入れるだけだった。愛されてはいないのではないかと、是俊はずっと不安だった。それでも、今の如の言葉は、何より是俊を幸福にした。想像もつかなかったような幸せを是俊は感じ、如に何度も自分の思いを告げた。

 「知ってるよ」

 如は笑い、そして是俊が言葉を重ねるごとに、彼の頬や額にキスを注いだ。

 「シャワー、浴びたいんだろ?」

 戯れに互いの体に触れ合っていると、次第に欲望が高まってくる。是俊は、脱いだ自分のシャツをフローリングの水溜りに投げ、如のシャツを脱がせながらきいた。

 もういいよ、と微笑し、是俊の眼差しの中で艶やかに目を細めると、如は甘い香りを漂わせて燃える蝋燭の明かりをそっと吹き消した。


 「それにしても、急だな」

 行為の後で、如の細い髪を指先で弄んでいた是俊がため息をついた。

 「決めたのは、もうずっと前なんだけどね。自分のお店、持ちたいんだ」

 「店?」

 それは是俊の知らない如の夢だった。如はベッドにひじをついて顔をのせた。

 「昔パリに旅行で行った時、すごく素敵なサロンを見つけたんだ。昼はカフェで、夜はバーで、若い芸術家の作品を飾って、半分ギャラリーみたいなんだよ。それからも何度か遊びに行ったんだけど、企画が毎回すごく面白くて。オリヴィエ・ルノーとかヴァランタンとか、知らない?二人ともけっこう活躍してるんだよ。今はニューヨークだけど、もとはパリに住んでて、ミヨゾティス、そのサロンの出身なんだ」

 「へぇ……」

 こんなに饒舌な如を、是俊は初めて見た気がした。如はさらに

 「それでね、そこのオーナーがジルベールって言って、若いアーティストの育成なんかを一生懸命やってるんだ。モンマルトルの丘って、昔からそういうアーティストがたくさん来るところなんだけど、みんな憧れるサロンなんだよ。とにかくオーナーの感性が凄いし、とっても情熱的な人で、どうしても日本でこういう店を開きたい、だからここで働きたいって言ったら、僕のフランス語なんてひどいもんなんだけど、その場で快諾してくれて、今すぐおいでって言ってくれて。勿論それまでにいろいろ……」

 「わかったよ」

 放っておけばいつまででも喋り続けそうな如に是俊が苦笑した。

 「お前の気持ちは、わかったから……あくまでも、こっちで店持つことが最終目標なんだろ?」

 「……うん」

 是俊の手に頬を包まれそっと引き寄せられる間、如はじっと是俊の目を見つめていた。

 「ごめん」

 「何が?」

 穏やかなキスの後で、如が小さな声で言った。

 「もっと、早く言うべきだったのに……そうするべきだって、わかってたんだ。ほんとは……」

 「いいさ」

 是俊の大きな手の中に包まれ、如は目を細めた。

 「お前が言い出したらきかないのはわかってる。ワーホリって、最長でも一年だろ?」

 「うん。僕も、一年間行くつもりだよ」

 「行って、帰ってくるんだろ?」

 うん、と如は頷いた。心なしか、潤んだ目をしているようだった。

 黙って如を抱き寄せ、是俊はしばらく何かを考えているようだった。如は是俊の言葉を待ちながら目を閉じた。

 「なぁ」

 「ん?」

 躊躇いがちな是俊の声。是俊は如の顔を覗き込み

 「帰ってきたら、一緒に暮らさないか?」

 「……」

 思いも寄らない言葉に、如は驚いたように目を見開いた。是俊は

 「あの部屋が嫌なら、引っ越してもいい。お前が戻るまでに、探しとくから」

 「うん……」

 如が微笑して頷くのを見て、ようやく安心したように笑った。

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