第9話 不安

 篠吹は涼を自分のマンションではなく彼の部屋の方に送っていった。

 少し疲れてるからと言った言葉に嘘はないのだろうが、篠吹には涼の気持ちが痛いほどわかっていた。今は抱き合えない。それもわかっていた。気持ちを、関係を元に戻す為に体を繋げても、互いから自分以外の人間の香りを嗅ぎ取りそうで怖いというのもあった。よそよそしくなるのも、痛々しくなるのも二人は嫌だった。

 「明日、仕事の帰りに寄ってもいいか?」

 篠吹は別れ際、躊躇いがちにそう尋ねた。

 「……」

 涼は黙って頷いた。

 あの人、誰……そうきいた自分の本音はどこにあったのだろう。ベッドにもぐりこみ涼は目を閉じた。

 誰かを気遣ったのか、あるいは自尊心を保ちたかったのか。

 是俊だけは、きっと知らないのだろう。何故かそんな気がした。自分だって如の名前を口にしながら本当のことは言わなかった。如を責める気持ちがないと言えば嘘になる。しかし、辛そうな如の声は涼の中の怒りを殺してしまった。憎いとか、許せないとか、そういう感情はいつの間にか通り過ぎてしまった。篠吹の真摯な態度に懐柔されなかったわけではない。けれど……自分が思っていた以上に複雑な感情を如も篠吹も抱いているような気がした。

 ずっと好きだったと告げた如の声が蘇る。ずっと、とは、どんな時間を指すのだろう。何となく自分が篠吹と出会うより早く、如は篠吹に出会っていたのではないかと思う。それなら、篠吹は、如の気持ちに気付いていたのだろうか。是俊は、如に好きな人間がいることを知っているのだろうか。

 寝返りをうつ。是俊と寝たことを告白すると、篠吹は謝った。辛い思いをさせた、そう言ったけれど……篠吹は嫉妬しないのだろうか。当然、現場を目撃するのと後から話を聞くだけとでは印象が全然違う。それはわかっていたが、逆の立場だったら、自分はやっぱり場違いな嫉妬をしていたと涼は思う。

 もう、愛されていないのか。

 それなら、どうしてあんな風に真剣に謝るのだろう。

 あるいは始めから愛されていなかったのかもしれない。

 わからない……篠吹は愛していると言ってくれたし、自分以外の人間を欲しいとは思わないとさえ言ってくれた。

 不安がなかったわけではない。ただ疑いのどこかにいつも、安らぎがあった。全身で、愛されていると確信していた。篠吹の言葉、声、表情、視線、日々見かける、耳にする篠吹の全てから自分への愛を感じ取っていた。

 それが、簡単に覆されるのだろうか。自分への誓いを覆すほど、如は魅力的だったのだろうか。そう考えると、どうしても……是俊と暮らしていた時のことを思い出してしまう。如を見ていた是俊の眼差し。そうとは気取られないくらい密やかな情熱と欲望の、自分にはかつて向けられたことのない類の視線だった。そんな是俊の気持ちを心のどこかで受け止めながら、それでも如に嫉妬もせずいられたのは、是俊との関係が恋人ではなかったからだ。家族が離れて行くような一抹の寂しさはあった。けれど、いつまでも自分と是俊の関係は保たれていく気がしていた。だから許せた。

 (でも……)

 篠吹は譲れない。譲りたくない。例え自分が後出しのようなやり方で、如から彼を奪っていたのだとしても、どうしても返したくはなかった。

 

 翌日、涼が目を覚ましたのは夕方も近い時間だった。熱も下がり、倦怠感もほとんどない。ベッドを下りてシャワーを浴びる。篠吹や是俊の部屋にあるのとは違う石鹸やシャンプーの香り。誰のものでもない自分を、涼は束の間意識した。

 狭いユニットバスに湯気が立ち込める。熱いシャワーの中で全てを、記憶まで洗い流せればいいと涼は思った。もうすぐ、篠吹が来る……。シャワーを止め、冷水で火照った頬を冷やすと涼はバスルームを出た。

 篠吹は一時間ほどしてからやってきた。出迎えた涼に決まりの悪そうな微笑を見せ篠吹は言った。

 「食事を、していないだろうと思って」

 スーツの上にカシミアのコートを羽織り、手には食材の入ったペパーバッグを抱えていた。

 「いらない」

 「涼……?」

 瞳をじっと見つめたまま、涼は篠吹の目前で服を脱いだ。何を、と言いかけ篠吹は止めた。荷物を床に置いてコートを脱ぎ捨てる。

 「俺には」

 これしかない、と抱きしめた涼が呟いた。涼は片腕で篠吹の頭を抱き、息苦しいほど深いキスをした。空いているもう片方の手で篠吹のジャケットを脱がせ、タイを外し、シャツのボタンを外した。

 篠吹は涼の裸の腰を抱いて、冷たいフローリングの床に寝かせた。滅茶苦茶に暴れるようにしがみつく涼を、篠吹はただ受け止めた。これほど感情をむき出しにする涼を見たのは初めてだった。噛み付くように首筋にキスをしながら、涼は篠吹の上にのる。篠吹はそっと涼の首筋に指を這わせ、細い髪をかき上げた。

 「三村君が、つけたの?」

 昨日見つけた痣は、消えることなく涼の首筋に留まっていた。涼は篠吹の眼差しを真っ直ぐに見返しながら、そうだと答えた。

 おいでと篠吹が囁く。

 「消さないと」

 「……」

 涼は促されるまま篠吹に覆いかぶさった。首筋を焦がすような痛みに、涼は目を細めた。

 「涼」

 篠吹がゆっくりとその名を呼ぶ。

 重たげな涼の瞬き。ねぇ、と涼が篠吹を見つめた。

 「俺は、貴方のもの?」

 「ああ」

 かすれた声で、篠吹は傲慢にも頷いた。線の細い涼の頬を撫でる指先が、甘い毒を吐く。

 「あなたは……」

 目をそらすことなく、涼は篠吹の瞳を、その虹彩に映る自分の姿を見つめる。

 「貴方も、俺のもの?」

 「そうだ」

 躊躇うことなく篠吹は告げた。

 「誓って」

 見慣れない涼の顔。世慣れた、わがままな女の顔だった。命じるように短く発せられた涼の声に、篠吹はああと頷いた。

 「誓うよ」

 「……」

 何を思うのか、出会った日と同じ澄み切った眼差しで涼はじっと篠吹の言葉を聞いていた。

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