第8話 傷

 「ごめんね」

 「え?」

 床に座ってワインを飲んでいた如が不意に顔を上げ、是俊を仰いだ。唐突な謝罪に、是俊は面食らった。

 「如?何を……」

 「今まで、僕のわがまま聞いてくれてありがとう」

 如はグラスをテーブルに置き、ソファに腰掛けていた是俊の膝に乗りながらそう言った。

 「わがまま言って、ごめん……。是俊君は、僕を……すごく大事にしてくれてた……」

 「如?」

 何を言っているのかが、是俊にはようやくわかった。如は、是俊に顔を寄せながら、だから、と囁いた。

 「もう、いいよ……」

 「もう、いいって……」

 野暮なことは言いたくなかったが、是俊にはいい表現が見つからなかった。如は、笑いながら、是俊にキスして、柔らかく首筋に抱きついた。

 「ずっと我慢させて、ごめんね」

 是俊にとっては耳を疑うほど、嬉しいセリフだった。しかし、何が如にそう言わせているのか、わからないことは何より不安だった。

 「どうして、急に?」

 是俊は如の髪を撫でながら尋ねた。まさか、涼とのことに如が気付いたのではないかとも思った。

 「そうだね……何でかな……。吹っ切れた、って言えば、わかってもらえる?」

 如は是俊の耳に口付け、どこか遠い声でそう言った。

 「何かあったのか?」

 是俊の声は、静けさの中に、閃く鋭さを宿していた。如は、一瞬だけ沈黙し

 「ないよ……」

 ただ……と続けた。

 「是俊君が、欲しくなったから」

 そう、囁くような声で告げた。

 是俊は如の唇を求め、手早く服を脱がせた。如は、是俊の性急さに驚いたようだったが抵抗はせず、是俊の頭を優しく抱いた。

 是俊はゆっくりと如の耳朶を噛んで、首筋に唇を滑らせた。如は短くあえぎ声を上げ、是俊の髪に指を絡ませる。是俊は何度か場所を変え如の胸に口付けた後

 「シャワー、浴びた方がいいだろ?」

 そう、如の表情を見上げながら囁いた。如は頷いて立ち上がると

 「先にいい?」

 と、是俊に尋ねた。

 「ああ」

 突然のことで、にわかには信じがたい……。ありがとうと微笑った如を見送りながら、是俊はソファに身を沈めた。



 交代でシャワーを浴び、是俊がリビングに戻った時、如はパジャマ姿でソファに座っていた。何を見るでもなくぼんやりと壁を眺め、まさしく物思いに耽っている、という表情だった。桃源郷に迷い込んでいるらしい如の気を引くために、是俊はバスルームのドアを音を立てて閉めた。

 「ああ」

 と、如は顔を上げ是俊を見た。

 「……寝ようか」

 聞きなれた言葉が、今夜は特別な意味を持っている。そう考えると、如の微笑がいつもより意味ありげなものに見えた。是俊は如の腰を抱いて立ったままキスをした。

 「如」

 俯いて、如が微笑んだ。是俊にははっきりとは見えなかったが、どこか強張った顔をしていたように思われた。が、如は自ら寝室へと向う。

 長かったな、と如の首筋に口付けながら是俊は不意に思った。ベッドに腰かけていた如をそっと押し倒しながら、上目遣いで見上げると、その顔はいつもより蒼白な感じがした。

 「どうした?」

 白いパジャマを脱がせながら、是俊は優しく如に問う。

 「ねぇ……」

 如は是俊の問いに曖昧な笑みを返し

 「僕を、愛してる?」

 どこか辛そうにも見える表情で問い返した。

 「愛してる」

 真っ直ぐに目を見つめて、是俊は応じた。如の震えるような眼差しは、いつもより彼を儚く見せる。

 愛してる、そう繰り返して是俊は如の腰骨に口付けた。細く長い息をついて、如が是俊の髪を撫でる。是俊の唇は徐々に下降し、如の足の付け根に触れた。

 「ん……」

 慣れた甘い痺れに吐息を漏らし、如はわずかに腰を浮かす。濡れた音が性感帯となった聴覚を刺激し、如はたまらず声を上げる。しかし

 「あっ!」

 「如?」

 ほんのわずかなことだった。指先が後ろに触れただけで、如は上体を起こした。短い悲鳴は恐怖から来るもののように冷たく鋭く響いた。

 「どうした?痛かったか?」

 是俊は驚いて体を起こした。肘をついた姿勢で如は是俊を見た。血の気を失った唇が震え、喉がなる。如は片手で口元を覆った。

 「如?」

 是俊が目を見張る。

 如の瞳から、涙がこぼれた。

 「どうした?俺が、何かしたか?」

 狼狽する是俊に如は激しく頭を振った。違う、と繰り返す小さな声。

 「……」

 是俊が如を抱きしめた。

 「ごめん」

 冷たくなった如の体は、小刻みに震えていた。是俊は如を動揺させないよう、努めて冷静を装った。優しくベッドに寝かせながら、髪を撫でる。

 「ちが……」

 是俊にしがみつくようにしながら、如は呟いた。

 どれくらい経ったか、是俊はじっと如を抱きしめていた。何も言わず、何も聞かず。涙のおさまった如は、ごめんと是俊の言葉を口にした。

 「……前にした時、すごく痛くて……怖かった」

 髪を撫でていた是俊の手が止まる。

 「無理矢理、されたのか?」

 躊躇いがちに口を開いて、是俊が如にきいた。

 「違うよ。……そうじゃない」

 「そうか」

 寂しげにも聞こえる声で是俊は呟いた。如の手が、そっと是俊の頬にかかる。

 「僕が嫌がっても、無理矢理して」

 「できるかよ」

 何を言い出すのか、と是俊が如をじっと見つめた。如はいつもの笑みを浮かべると

 「そうしてくれないと、たぶん僕はいつまでも慣れないよ」

 囁くように告げる。

 「できない……」

 是俊は悲しそうに言った。自分でもそんな言葉が自然と出たことが不思議に思えた。しかし、それが一番正直な気持ちであることを是俊は知っていた。

 「僕は」

 と、柔らかな微笑の如は続けた。

 「是俊君と、一つになりたい……。やっとそう思えるようになった。だから、抱いて欲しい……。僕を、是俊君のものにして欲しい」

 「いく……」

 是俊は今度こそ目をむいた。

 「ね?」

 甘えるような眼差しはそれ以上に何か必死なものを感じさせる。是俊はため息をつきながら、如の髪を撫でて額にキスをした。

 「愛してるんだ……だから」

 まつげが触れ合うほど間近で是俊が囁いた。

 「お前を傷つけるようなことは、俺にはできない」

 如、と是俊が呼ぶ。目をそらした如が是俊を押し返すように自らの腕で目を覆った。

 「愛されてるね、僕」

 口元が微笑んでいる。しかし痛みを殺す微笑にはどうしようもない悲しみが滲んでいる。

 「如」

 白い腕をそっとどかせて是俊は濡れた美しい眼差しの虜になった。

 「焦らなくていい。俺はどこにも行かないし、お前を手放すつもりもない」

 頭を抱き寄せて無言でキスをせがんだ如。是俊は裸の背を愛撫しながら、かつて如を抱いたという相手に嫉妬とも憎悪ともつかない感情を覚えた。強姦ではなかったにせよ、如の心に傷が残るほどの痛みと恐怖を与えたと言うならそれは、是俊にとって許すことのできない暴力だった。

 自分がいつか涼にしたことを、是俊は久しぶりに悔いた。涼との関係はそこで終わることがなかったから、涼が今もそのことをやんでいるとは思えない。少なくとも涼は自分以外の男に恋をして、彼の元へ行ったのだ。きっと如のようなトラウマを抱えていることもないだろう。

 「如」

 是俊が気がつくと、如は熱をもったままの是俊自身を愛撫していた。今夜はいい、と是俊は言ったが如はキスで唇を塞いだ。

 比べるべきではないとわかってはいたが、どうしてもこんな時に涼のことを思い出してしまう。それにほんの数日前、慣れ親しんだあの体にまた触れてしまった。知り尽くした互いの体を求め合うのに情熱はいらなかった。ただ激情が燃え尽きた後のわずかな熱さえあればいい。何かを確かめるように、相手の存在と自分の存在を確かめるように、あの朝是俊は涼と抱き合った。如と体を触り合うことは刺激的でいつにない興奮を是俊にもたらすけれど、やはり涼とは馴れ合いなのだと改めて感じる。

 戯れのように是俊も如の体に触れた。キスの途中、如はうっすらと目を開いた。悪戯に笑いかけるような柔らかな表情だった。いつかと同じ顔だ。ずっと苦しげに微笑んでいた後、何かの弾みで自然と微笑む時の表情。

 是俊は如の手の中で欲望を吐いた。

 愛してる、是俊が耳元で囁くと如も是俊の手の中で震えた。

 その日以来、如は毎日のように是俊と夜を過ごすようになる。言葉通り是俊は無理なことは求めなかったが、早く慣れたいと如は積極的だった。何に対してだったか、吹っ切れたと語った如の言葉は本当だったらしい。

 「こんな毎晩で大丈夫なのか?」

 まだ朝も早い時間に如は身支度を始める。いったん帰宅してから出勤するためだった。それなら一緒に住めばいいと是俊は言うのだが、如は今のスタイルを変える気はないようだった。

 ベッドに腰かけた如の背にシャツ越しに触れながら、是俊は心配していたことを口にする。平気だよ、と肩越しに如は微笑んだ。

 「俺はかまわないけどな……」

 体を起こし背を抱きながら口付けると、如は小さく笑った。

 「いい?」

 「何が?」

 是俊のあごに手をかけて、如は微笑んだ。是俊をうっとりとさせる、あの笑みで。

 「僕」

 目を細めて如は言った。如の口からそんな言葉が出るとは是俊には信じがたい思いだったが、

 「ああ」

 と腿を撫でながら応じた。如の目が不意に細められる。

 「涼君より?」

 「……」

 甘い空気を断ち切る如の声。あの朝のことを告白した時でさえ、これほど辛辣な口調ではなかった如がどうして……。是俊の思いをよそに如はベッドから立ち上がった。

 「冗談だよ」

 そう言いながらいつも通り微笑した如の瞳には、凍えた炎が見える。やっぱり怒っているのだろうかと是俊は黙って如の横顔を見つめていたが、どうやらそんな気配もない。怒りより悲しみ、悲しみより痛み……如の眼差しは凍てついたように静かだった。

 「如?」

 「ん?」

 白い指でタイを結びながら如が横目で是俊を見た。

 何も言えない是俊に向き直り

 「帰るね」

 「ああ……。気をつけてな」

 「うん」

 触れる程度のキスで別れを告げ、如は出て行った。

 何を考えているのか……。如には是俊の知らない表情がまだたくさんありそうだった。

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