第7話 あの人

 どうぞ、と是俊に案内された室内は整然と片付き、物が少なかった。涼の住み慣れた部屋に、篠吹は初めて足を踏み入れた。是俊は

 「少し、出かけてきます。連れて帰るなら、鍵だけお願いします。あとで、郵便受けに入れておいてください」

 そう言って、篠吹に部屋の鍵を渡した。

「ありがとう。本当に、申し訳ない」

 いいえ、と篠吹の言葉に是俊は笑った。どことなく困ったような、それでいて悲しそうな笑みだった。篠吹は、是俊が出て行くのを見送り、涼のいるという部屋のドアをノックした。

 「涼、俺だ。……入っても、いいかな?」

 静まり返った室内。元より返事は返らない気がしていた。篠吹はそっとドアを開けた。

 何もない部屋には、窓際にベッドが置かれているきりだった。

 「涼?」

 ベッドには誰かいる。しかし、人影は声も発せず、物音もたてはしない。篠吹はゆっくりベッドに歩み寄り、涼、と名を呼んだ。

 「……」

 ベッドに腰かけ、篠吹が覗き込むと涼は確かに起きていた。しかし、何を言うつもりもないのか、ただカーテンを見つめている。

 「どうした?」

 涼の髪を撫でながら、篠吹は目を細めて囁いた。昔の恋人の家に泊まりこむとは、穏やかではない事態だ。それでも、篠吹は怒る気配も見せず涼を見守っていた。

 痛いほどの沈黙が続き、篠吹はふと違和感を覚えた。涼の目が、腫れている?

 「……泣いたの?どうして?」

 ふっと涼の瞳が潤んだ。そして

 「すずみ……?」

 篠吹の見ている目の前で、涼の瞳から大粒の滴がこぼれ出した。涼は篠吹から顔を反らそうとしたが、篠吹の指に阻まれた。

 「涼」

 篠吹はそれまで静寂を打ち破る強さで涼を抱き起こし、間近にその顔を見つめた。疲れて、青白い顔をしている。

 「どうして?」

 涼は、苦しげな表情で篠吹を見た。どうして、と問いかけた声は震えていた。

 「どうして?何の話をしてる?」

 「もう、飽きた?俺より、好きな人ができた?」

 涼、と篠吹の唇だけが動いた。

 耐えられないと、涼は篠吹から視線をそらす。

 涼は知っている……?篠吹は言葉を失くした。

 「家に、来たのか?」

 如を送り出した時、玄関の鍵は開いていた。あの時はかけ忘れたのだとばかり思ったが、実際には開けた人間が別にいたのだ。

 涼の沈黙は、肯定。

 「すまない」

 篠吹は言った。勿論、涼の知るところとならなければそれでいいと思っていたわけではない。ただ涼が知ってしまった以上は謝る他になかった。

 すまない、と篠吹が繰り返すと、涼の目から新たな涙がこぼれた。篠吹は目に見えて狼狽し、床に膝を着いた。

 「どう、言えばいいのか、わからない。ただ、俺がしたことは……許されないことだと思う。本当に、悪かった。でも、今でも、俺は涼が好きだよ。今まで出会った誰より大切で、誰より、愛してる。これは、嘘じゃない……。許してくれとは、言えないし……でも、何でもする。もう二度と裏切るようなことはしない。本当にすまない」

 涼は篠吹から背後の扉へと視線を動かした。乾いた唇が言葉を探している。躊躇って、言葉を探す涼の唇。涙の跡が残る青白い頬と不安げな眼差しに、篠吹の胸は痛んだ。理由はどうあれ、自分が涼を傷つけたという事実は変えようがない。もしこうなることがわかっていたら、自分は如を退けられただろうか……。

 「あの人」

 と、涼が小さな声で呟いた。

 篠吹が落ち着きを欠いた瞳を覗き込むと、涼は怯えたように俯いた。

 「……」

 篠吹は息を止めた。涼は、如だと知っているのだろうか。

 「あの人……」

 誰……、涼が意を決したように顔を上げた。

 篠吹はすぐには応えることができなかった。涼は如だと知らない?その事実がせめてもの救いのように篠吹には感じられた。

 「涼の、知らない人間だ」

 乾いた嘘。しかし本当のことなど話せるわけがなかった。如は是俊の恋人で、是俊は涼の恋人だった。涼はもしかすると、二度まで同じ相手に恋人を寝取られたような気持ちになるかも知れない。

 篠吹の眼差しの中で、涼はまた俯いた。

 「悪かった。そういう、つもりじゃなかった。……ごめん」

 自分でも認めたくはなかったが、不道徳な安堵が篠吹に涼に触れることを容易くした。抱きしめると涼の首筋に、背中へ伸びる白い肌の上につけた覚えのない小さな鬱血が見えた。嫉妬を覚える前に、胸を締め付けられるような思いがした。篠吹の動揺に気がついたか、涼が口を開いた。

 「是俊と、寝た」

 「すまない」

 篠吹の言葉に驚いたのか涼が顔を上げた。

 「辛い思いをさせた……。許してくれ」

 「……」

 篠吹はきつく涼を抱きしめた。その激しさに涼は驚き、安堵した。そして、声を殺すことなく泣いた。篠吹の背に腕をまわして滅茶苦茶に泣いた。涼がそんな風に泣いたことで篠吹はほんの少し安堵する。涼の涙が鮮烈な光景を遠くに押しやってくれそうな気がした。

 すまないと悪かったを際限なく繰り返し、どれくらい経ったか。ようやく泣き止んだ涼に篠吹が囁いた。

 帰ろう、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る