第6話 沈黙

 「今夜、会えない?」

 如から電話があったのは、昼過ぎのことだった。どうしてこんな時に、と是俊は誰をともなく呪いたいような心境だった。

 「是俊君?」

 電話越しの如の声。是俊の沈黙を訝しんでいる。

 「悪い……今、涼がきてるんだ」

 「涼君が……?」

 「如?」

 らしくもない。如が電話越しにはっとしたような気配を是俊は感じ取った。

 「……あ、ごめん」

 如は何に対してか、突然謝った。

 「いや、俺こそ……。涼、様子がおかしいんだ。今朝早く電話してきて、一晩中歩き回ってたらしくてさ……。ずぶ濡れで、たぶん風邪も引いてると思う」

 言い訳がましいと自分でも感じたが、是俊は自身の言葉を止められなかった。如が、涼のことで動揺したのだとしたら……それは、如が自分を愛しているという証だろうか。こんな時に不謹慎だとは思いながらも、是俊は束の間の幸福感に浸った。そして、今朝涼を抱いたことを、初めて、如に対して申し訳ないという思いから後悔した。

 「今朝から……」

 電話の向こう、如は物思いに沈んでいる様子だった。是俊は、鋭い彼に、何か勘付かれたのではないかと不安に襲われた。今朝の一件に対して、是俊なりの言い分はあった。しかし、それを上手く説明できる気はしなかった。

 「様子がおかしいって、どうおかしいの?」

 是俊の恐れを裏切って、如は涼のことを心配しているようだった。是俊は涼に聞こえないよういっそう声を潜め、

 「俺が思うに、先生と何かあったんじゃないか?」

 如は沈黙を返した。

 「如?」

 「あ、ごめんね。そう、か……。涼君は、何か言ってた?」

 「いや、何も……。如、どうかしたのか?」

 如の反応は、どことなく妙だった。是俊は眉を寄せ、電話越しの如の様子に意識を傾けた。

 「篠吹さんに、教えてあげた方がいいかな?」

 如は是俊の問いには答えず、しばらく経ってからそう言った。

 「ああ……そうだな。ただ、俺はそれを涼に言わない方がいいだろう」

 そうだね、と空ろな如の声がした。

 「如、何かあったのか?お前もおかしいぞ?」

 是俊はストレートにそう尋ねた。如は精気のないような笑い声を上げ、そうかな、とはぐらかした。

 「俺に、用があったんじゃないのか?」

 嫌な胸騒ぎ。是俊は遠い如の声を待った。

 「……うん、ちょっとね……。ただ、会いたかっただけだよ」

 「珍しいな」

 「そう?」

 如の笑い声は乾いていた。顔を見れば、あるいはわかったかも知れない。如が、何かを隠していることに……。しかし、

 「それじゃあ、切るね。涼君にも悪いし」

 如はそう言って電話を切ろうとした。

 「如」

 是俊が呼び止める。何故か、はっとする如の顔が是俊の脳裏には浮かんだ。

 「ん?」

 いつも通りを装って、如は気軽に応じた。是俊には、そんな気がした。

 「愛してる」

 「是俊君?」

 「愛してるんだ、お前を」

 そんな直截な言葉で、是俊は思いを告げた。如は驚きを隠せぬ様子で、それでも、うんと言った。

 「じゃあ、またな」

 「うん……」

 電話でも変わることのない如の澄んだ声。そして、わずかな曇り。いつの間に自分はこんなに鋭くなったのかと、是俊は苦笑した。今朝の、涼とのことは……折りを見て如に話そうと、是俊は思った。



 是俊との電話を切った如は、無意識に口元を覆った。別れ際、玄関まで送ってくれた篠吹の言葉が、ある可能性を示唆していた。

 「鍵、かけたつもりだったんだけどな……」

 篠吹は訝しそうに首を捻ったが、忘れることもあるだろうと、最後には明るく笑っていた。しかし……それは、篠吹がかけ忘れたのではなく、他の誰か開けたととは考えられないだろうか。

 涼も、恋人の部屋の合鍵ぐらい持っているだろう……。

 如は心臓が高鳴るのを覚えた。そしてこの事実を篠吹に伝えるべきか否か、思い悩んだ。篠吹も、知るべきだろう。しかし、自分の考えは憶測を出ていない……いや、間違いないのだろうが、知らせたくない、という思いが胸を占めていたのだ。

 篠吹の心は、いつも涼の傍にあると、そんなこととっくに悟っていた。しかし、今また……ほんの束の間自分に向けられた眼差しを涼の元に押し返すのは、如にとって耐え難いほどの苦痛だった。

 わかってる、わかってた、そう胸の内に繰り返しながら、如はスマホを手に取った。


 一人になった部屋で、眠りもせず篠吹は漫然と時間を過ごしていた。

 不意に乱れたベッドに散った血痕を思い出し、急いでシーツを換える。出血の量は意外に多く、ベッドにも微かな染みがついていた。如の悲鳴を思い出し、それから彼の告白が耳に蘇った。

 -ずっと、好きだった……-

 震えていた如の声。初めて聞く声だった。あんな表情も、何もかも、自分が知った如の全てが罪悪感となって篠吹の胸を締め付ける。

 「……」

 鳴り出したスマホに、篠吹は肩を揺らした。いつの間にか午後二時を過ぎていた。

 電話の相手は、如だった。

 「もしもし?」

 「如、君……?」

 勢いで電話に出たものの、篠吹には言葉が継げなかった。別れてからずっと如のことを考えていたせいもある。それに、その電話は篠吹にとって予想外のものだった。

 如は電話の向こうで息をつめた。

 電話越しの気まずい沈黙。しばらくしてから、どうしたと切り出したのは篠吹の方だった。

 「あ……すみません……。僕も、ちょっと混乱してる……」

 「如君?」

 どうしたというのか如はひどくうろたえている。初めて聞くような落ち着きを欠いた如の声。篠吹は

 「何かあったのか?」

 胸騒ぎを覚えながらも、できる限り静かにそう問いかけた。

 「涼君から、連絡はありましたか?」

 如は一度呼吸を止めてから切り出した。

 「涼?」

 できることならば今一番聞きたくない名前だった。篠吹にとって……それは如の口から聞いてはいけないはずの名だった。

 電話越し、如が苦しげに息をついた。

 「涼が、どうした?」

 「さっき是俊君に、電話したんです」

 篠吹は押し黙った。如は一体何を言おうとしているのだろう。そう思っていると如が言葉を選びながら再び口を開いた。

 「是俊君に電話をしたのは、全然、関係ない用事だったんですけど……今、是俊君のところに、涼君いるみたいです」

 「涼が?三村君の家に?」

 心中穏やかとは言いがたいが、何年もともに生活をしていた仲だ。今さら会うなというつもりも、篠吹には毛頭なかった。しかし、如の次の言葉に篠吹ははっとした。

 「今朝、早く、行ったそうです。一晩中、雨の中を歩いて……」

 「三村君がそう言ったのか?」

 ええ、と如の沈んだ声が返る。

 「様子がおかしいって、そう言ってました」

 何があったのだろう。どうして涼は自分のもとではなく、是俊に会いに行ったのだろうか。昨日は一日、メッセージも電話もなかった。

 「篠吹さん?」

 「ああ、すまない……」

 心ここにあらずといった篠吹の声に、今度は如が沈黙した。

 痛いような沈黙だった。言葉を重ねれば重ねるほど、全てが悪い方向に転がっていくような気が二人にはしていた。

 如は、もしかしたらという思いにとりつかれ、篠吹にはまさかという思いしかなかった。やがて

 「わかった。ありがとう」

 と、篠吹が唐突に告げた。如は一瞬の間の後でいいえと呟いた。

 「すみません……。出すぎたことを、してしまったら」

 「いや、そんなことはないよ」

 震えを堪えるような如の声に、篠吹はふと我に返った。あれだけ思い悩んでいた如のことを忘れ、涼のことばかり考えている自分の軽薄さに腹立ちを覚える。

 「如君、あ……」

 「何ですか?」

 自分に向けられる篠吹の意識を如は感じていた。篠吹は電話の向こうで戸惑っているようだった。

 「大丈夫か?」

 体は、と言いかけ篠吹は言葉を切った。

 「大丈夫ですよ」

 その声に、篠吹の脳裏には精気のない如の笑顔が浮かんだ。悔恨か懺悔か謝罪か、篠吹の脳裏に浮かぶのはそんなものばかりだった。如は篠吹の苦悩を感じ取ったのか

 「必要なら、是俊君の連絡先、お教えしますよ」

 全ての感情を押し殺したように冷静な声で言う。

 「ああ……そうだな。そうしてもらえると助かるよ」

 わかりました、と如は携帯の電話番号を告げた。

 「すまない」

 「いえ……」

 恋人を寝取った相手に自分の恋人のことを尋ねるというのは、あまりにも図々しいなと篠吹は苦笑した。自嘲よりずっと重たげな歪みが篠吹の口元に浮かぶ。

 「篠吹さん」

 ふと、如が呼んだ。

 「どうした?」

 「……いえ。失礼します」

 語尾がわずかにかすれていた。如は、一体どんな表情をしているのか。

 「いろいろ、ありがとう」

 いいえと応える空ろな微笑。

 「それじゃあ、また」

 「ああ」

 如は余韻を残さず電話を切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る