第5話 氷雨
涼は音を立てないよう、そっと玄関の扉を閉めた。傷ついた、というよりも、ただショックだった。
篠吹のマンションを後にすると、涼は降りしきる冷たい雨の中を歩き出した。会いたくて……どうしても会いたくて、真夜中に訪れた篠吹の傍には、如がいた。
悲鳴にも似た喘ぎ声と、ベッドのきしむ音。部屋の中で何が行われているか、わからないほど涼は子供ではなかった。しかし、それを気まぐれな遊びとたかを括れるほど、大人でもなかった。そして、如は……ずっと好きだったと篠吹に言った。
ずっと好きだった……泣きながら訴えた如の思いは、どれだけ深かったのだろう。篠吹は、そんな如をどう思っているのだろう。篠吹は……篠吹は……。
氷雨と呼べる程に寒々とした雨は止まず、しかし涼には、寒さも痛みも次第に感じられなくなっていった。どれだけ歩いたのか、涼は見覚えのある公園にたどり着いた。暗い空の下、公園の時計はもうすぐ午前六時を指そうとしていた。四時間も歩いたのかと、涼は空ろに思った。そして自分にとっては無意味だったその時間を意識した途端、突然の疲労とどうしようもない寂しさに襲われた。
いつの間にか激しかった雨が、静かな霧のような雨に変わっていた。
悴んだ指でポケットを探り、涼はスマホを取り出した。そして短縮ダイヤルとして登録したままだった人物に電話をかけた。
涼の耳元で、どこまでも遠い場所で呼び出し音が鳴っている。
六回目……相手は出ない。まだ朝早いのだから眠っていても仕方のない時間だ。涼は、天を仰ぐように、顔を上げ、耳元から電子音を遠ざけた。
あと一回……それで出なければ切ろう。そう思い、目を閉じた。
「もしもし?」
呼び出し音が、低い男の声に変わった。
「もしもし?」
寝起きなのだろうか。彼は、相手も確かめず電話に出たのかも知れない。男の声は低く、かすれ、どこか不機嫌そうにも聞こえた。
「……どうした?涼だろ?」
暫くの沈黙の後、是俊はゆっくりとそう尋ねた。安堵だったか、何だったか、涼は全身の力が抜けていくような気がして、縋りつくように携帯電話を握り締めた。
「どうした?泣いてるのか?」
電話越しに、是俊が起き上がった気配がした。涼は、声を詰まらせ、ただ懐かしいその声を聞いていた。
「涼?聞こえてるんだろ?何かあったのか?」
返らない答え。是俊はきっと、眉間にしわを寄せ、電話越しに自分の気配を探っているのだろうと涼は思った。
「今どこだ?」
是俊が優しい声で聞いた。涼は、恐らく近くまで来ている。そんなことが長年の付き合いで、是俊には感じられたらしかった。
「日向公園」
涼がやっとの思いでそれだけを答えると、是俊はそこで待ってろ、と言い、電話を切った。
「……」
こんな時に、是俊に縋ってはいけないと、涼にはわかっていた。しかし、それ以外の誰のもとに行けばいいというのか。本当は篠吹に会いたかった。しかし彼の傍には別の人間がいた。
涼は力なく公園のベンチに腰を下ろした。底冷えする朝の空気に、体を丸め蹲ると、悲しいのか、寂しいのか、あるいは悔しいのか……ただ涙が流れた。
「涼」
体中がきしむように痛くて、寒さと疲労感と、どうにもならない暗い感情の渦の底で、涼は懐かしい声を聞いた。
「涼?どうした?大丈夫か?」
「こ……し」
お前、と言ったきり是俊は絶句した。霧雨の中を傘もささず、是俊はパジャマにコートを羽織っただけの格好で走ってきてらしい。是俊の息は弾み、凍てつく外気に白く霧散した。
「どうした?」
是俊は涼を抱きしめ、驚いて顔を上げた。
「雨の中、歩き回ってたのか?」
涼は頷き、滲んだ視界の中で是俊の心配そうな顔を見ていた。
「ばか」
小さく舌打ちし、是俊は涼の体を支え、ベンチから立たせた。ずぶ濡れの、冷え切った体に自分が着ていたコートを着せ、是俊は涼の肩を抱いて歩き出した。
それから是俊の部屋に着くまで、二人は無言だった。見慣れた玄関のドアをくぐると、懐かしい家の香りがして……涼は胸がつまるような気がした。
是俊の気配しかない部屋は、相変わらず片付いていた。
「風呂入れよ」
是俊は、涼をバスルームに引っ張っていくと、乱暴にコートを脱がせた。なかなか動こうとしない涼に、是俊は苛立ち、服を脱がせてやろうかとも思ったが、今となっては気まずいような感じがして思いとどまる。
涼は緩慢な動作で、それでもゆっくりと服を脱ぎ始めた。是俊はそれを見届けると、バスルームを出て、ドアを閉めた。
是俊はやれやれと溜息をつき、今はゲストルームとなっている、元々涼が使っておた部屋のベッドを整えに行った。
しばらく使われていない部屋は、寒々としていた。部屋自体は片付いているし、ベッドもそのまま使える状態だったが、今ここに涼を寝かせることを是俊は躊躇った。
離れてみて、出会ったばかりの頃に近づいた気がする。よそよそしいのは、傷つけないよう、細心の注意を払っているからだ。他人行儀、と呼べなくもない二人の距離は、傷つけ合うことなく、優しく触れ合える距離でもある。あんな状態で自分に連絡してきたことも、昔の涼なら考えられないことだった。涼は一人でぼろぼろになって……それでも誰かに迷惑をかけないよう、いつも一人でいた。今日のことも、きっと何があったのかは話してくれないだろう。
是俊はブランケットを一枚はがすと、ゲストルームを出て自室に戻った。途中リビングを通った時、バスルームから水音が聞こえたのでいささか安心した。
篠吹との間に、何かあったのかも知れないと是俊は思った。そしてそうでなければ、涼は自分の元になどこなかっただろう。
是俊はベッドのシーツと枕カバーを換え、クローゼットから新しいパジャマを出した。ゲストルームから持ってきたブランケットをベッドにかけたが、思い直してそれもパジャマと一緒に持って部屋を出る。ソファにブランケットを投げ出し、是俊はバスルームへ向かった。
「着替え、おいとくぞ」
そう声をかけ、脱衣所にパジャマとバスタオルを置いてやった。濡れた涼の服は乾燥機へ放り込む。涼は返事をしなかったが、聞こえてはいただろう。ざーっと、湯を流す音がした。
キッチンへ行くと、是俊は冷蔵庫を開けたが、入っているものといえば、アルコールとミネラルウォーターくらいだった。普段飲まないので、ミルクも紅茶も置いていない。近くのコンビニまで買いに行ってもよかったが、今は涼を一人にしておけない気がした。
何かないかと戸棚を物色していると缶詰のスープがあったので、鍋にあけ火にかけた。それは、涼が好きで置いてあったものだが、彼が居なくなってからも買い物に行くとつい手にとってしまうという、是俊にとっては特別なものだった。
懐かしさと、愛しさと、切なさが、温かな香りに乗って是俊の胸に広がる。
恋愛感情がなくなっても、心も体も、涼を忘れてはいない。彼との生活の中で生まれたルールを、自分は無意識にも遵守しているのだなと、是俊はその時に気付いた。如を愛している。それは間違いない。それでも、傍らで眠る如が涼に見えたことは、一度や二度ではなかった。
そんな感情を、何と呼ぶのだろう。きっと、涼がいなくなって、例え新しい恋人ができたにせよ、自分は、寂しかったのだと思う。是俊は、空き缶のラベルを眺めながら、小さく苦笑した。
「上がったか?」
背後で、ドアが開閉する音がした。はっとして、しかし自分が感傷的な気持ちになっていたことなどおくびにも出さず、是俊は涼に声をかけた。振り向かず、食器棚からマグカップを出すと、温まったスープを注いで、リビングへ向かう。
「大丈夫か?」
是俊の声に、涼は小さく頷いた。是俊が用意したブランケットに包まり、ソファに体を丸めている。
「飲めよ」
「……ありがと」
消え入りそうな声で礼を言うと、涼は是俊の手からカップを受け取った。
(可愛くなったな……)
別れたからそう感じるのか、あるいは弱っているからこそそう見えるのか……。涼は顔を伏せたままスープを飲み、ぐったりと吐息をついた。
是俊は涼の傍らに腰を下ろすと、風呂上りだというのに血色の優れない綺麗な横顔を見つめた。涼はスープを三分の二ほど残して、カップを置いた。
「疲れてるんだろ?」
こくりと頷き、それでも顔を上げない涼。是俊は、濡れたままの髪を撫でてやり
「少し寝ろよ。まだ朝早い」
そう言って、涼を抱き上げた。
「是俊」
泣きそうな目で、涼は是俊を間近に仰いだ。そんな縋りつくような眼差しを涼が見せたのは初めてだった。こんな表情もできたのかと、是俊は内心驚いた。そして涼をこんな風に変えた人物に、軽い嫉妬を覚えもする。
「俺の部屋でいいだろ?お前の部屋、殺風景で寂しいから……」
そっとベッドに下ろされながら、涼は是俊の声を聞いた。是俊は、いつの間にこんなに優しくなったのだろうと、不思議な気さえした。そして……如のことを思い出した。
……ずっと、好きだった……
悲しい声で、如は言った。その相手は、是俊ではなく篠吹だった……。どんな思いで、と、涼は是俊を見上げる。
「どうした?」
涼に毛布をかけながら是俊はきいた。
「……如さん……」
それ以上、何を言いたかったのか、涼自身にもわからなかった。疲れていて、寒くて、眠くて……意識が次第に薄れていくのを涼は感じていた。
「気にするな。お前を泊めたくらいで怒るような奴じゃない……」
こんなお前を、と是俊は言いかけてやめた。
「もういい。寝ろ」
大きな手が、涼の髪を、額を撫でた。
懐かしい体温を感じながら、涼にはまた胸の締め付けられる思いがした。そして、それでも是俊は如が好きなのだと思うと、誰の為にかまた新たな涙が出てきた。
「涼?」
「あ……」
涙を堪えようと目を閉じると、さらに胸が苦しくなった。慟哭が突き上げ、自分で自分を制御できなくなる。
「涼……」
痛々しそうに是俊は目を細め、ぎゅっと涼を抱きしめた。
涼は泣いた。生まれて初めて他人の前で、声を上げて泣いた。是俊は涼の激情に戸惑い、しかし今までに感じたことのない愛しさを涼に覚えた。
子供のように泣きじゃくって、涼は是俊に縋った。広い背中に、溺れる人間のような激しさでしがみついた。
理由は、わからない。ただ、涼がひどく怯えていることだけは、是俊にも伝わった。親に見離された子供のように、このまま壊れていくのではないかと不安になるほど、涼は泣いた。
嗚咽の下で、涼が訴えた。
一人に、なりたくない、と……。
慰めの言葉はなかった。言葉を探せないもどかしさで、是俊は涼を抱いた。
嗚咽を殺せない唇をキスで塞ぎ、記憶にあるよりも体温の高い素肌に触れる。涼は、痛いほどのキスを全身に降らす是俊の頭を抱いた。独りでにもれるのが、泣き声なのかあえぎ声なのか、涼にはわからなかった。ただ是俊に体を開かれる瞬間だけ、嫌がるように激しく首を左右に振った。
如とはたどり着いていない、体の繋がり。お互いの一番弱い部分を晒し合うことで、人はたぶん、誰かを心から信頼する。それはもう、恋愛という感情を超えて、一人ではいられない人間の寂しさが呼び合う行為だと是俊には思えた。
今涼が抱えていることと、自分が如に対し抱いている不満や焦燥は比べ物にならないだろう。それでも、寂しさが呼び合っていた。求められていることを、感じたかった。求められているのだと、信じたかった。こんなにも余裕なく誰かを抱いたことはなかったと、是俊は、眠りに落ちた涼の顔を見ながら不意に思った。
涙の跡の乾かない涼の寝顔。
是俊は、涼を抱いたことを後悔した。それは如や篠吹に対する罪悪感からでも、ましてや涼に対する罪悪感からでもなかった。涼とは、これで完全に終わったと、是俊は感じた。これからは……もう、同情しかない。是俊にとってそれは優しい関係などではなく、ひどく惨めで、不毛な関係だった。
一人に、なりたくない……涼の泣き声が、いつまでも是俊の耳に残った。
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