第4話 ずっと……

 雨を逃れてたどり着いた篠吹の部屋。貴方は、と呟いて視線を上げた如の顔は蒼白で、それでも篠吹が初めて見るような強い光を宿していた。

 「僕を、何だと思ってるんですか?」

 篠吹は瞠目した。ここ数時間落ち込んでいるように見えた人物とは、別人のように、如の口調ははっきりとしていた。

 「僕は、いいお友達ですか?」

 こんな激しさを、如はその体のどこに隠していたのだろう。不意に立ち上がった如が、凍える炎のように、篠吹には感じられた。

 「如くん?」

 驚くべき力強さで如は篠吹を押し倒し、篠吹と比べれば華奢にさえ見える体でのしかかると、

 「貴方が欲しい」

 情熱を顰めた声で囁く。あるいは、訴えた、というべきか。

 一体何が起きたというのか……篠吹は想像さえしていなかった如の激情に戸惑い、そして惹きつけられもしていた。それでも、篠吹には愛する人間がいた。

 「俺には、涼がいる……」

 如の美貌が、苦しげに歪む。篠吹はそれ以上如を刺激しないよう細心の注意を払いながら、優しく如の腕を撫でた。

 「君には、俺よりもっと似合いの相手がいるだろ」

 暗に是俊の存在を仄めかすと、如は全ての感情を押し殺したような、無表情になった。

 「涼君を、愛しているんですか?」

 「ああ」

 眉一つ動かさない如は、静かに篠吹の頬に手をかけた。篠吹は臆することなく如の問いに答え、身体的な抵抗はしなかった。

 「涼君を好きなのは……誰かに似ているからでしょ?」

 「似ているかどうかは……わからないよ。彼のことを、涼が思い出させたのは本当だけど」

 「貴方は……彼の幻を愛しているんじゃないですか?」

 「幻?」

 如はゆっくりと体を倒しながら、そう、と呟いた。

 「実体は、記憶の向こうにいますよ……」

 篠吹が耳を疑ったのは、如が吐息のような声でこう囁いたからだ。

 「思い出させてあげる……」

 「いく……」

 乾いた如の唇が、篠吹のそれに重なった。如は、思い出させてあげると、確かにそう言った……。その言葉は、一体何を指しているのだろう。

 如の繊細な指が、篠吹の髪を撫で、目蓋に触れ、輪郭を撫でる。涼のことは片時も頭を離れなかったが、篠吹は、しばらくの間、如の気の済むようにさせようと思った。

 キスが上手いな、と篠吹は、まるで他人事のように感じていた。如の舌は、細く、厚く、硬いような気がした。きっと、涼のことがなければ、こんな状況を楽しむこともできただろう。

 「篠吹さん」

 長いキスの後で、如の声は痺れるほど美しく、艶やかだった。

 篠吹は間近に、瞬く美しい瞳を見上げた。一瞬、全てを投げ出したいような、そんな誘惑に駆られるほど、今の如は魅力的だった。

 「……ここに、ホクロがありましたね」

 如の指先が、篠吹の脇腹に触れた。

 「どうして、そんなことを?」

 何とも名状しがたい不安が、篠吹を襲う。如の細い指の下、そこには確かに小さなホクロがあった。

 「まだ、思い出しませんか?」

 如の声は普段の穏やかな余韻を保ち、部屋の片隅の暗がりへと消えた。

 雨音は途絶えることなく、しかしこの部屋に満ちていく濃密な気配とは交わることのない距離を保っていた。

 「篠吹さん」

 如は、上体を起こすと、シャツのボタンを外した。微かな衣擦れの音とともに、如の白い胸が晒された。

 「綺麗だって、言ってくれましたね……」

 篠吹は、眉根を寄せた。如の体は、確かに美しかった。無駄なものを全て削ぎ落としたような、静かに張り詰めた体。篠吹の手は、大輪の花に誘われる蝶のように、如の肌に吸い寄せられた。それでも篠吹には……如の言葉の真意は理解できない。

 「今なら、できますか?」

 如は再び、上体を倒しながら篠吹に尋ねた。

 「遠くから、初めて貴方を見た時、僕は貴方に恋をしました。貴方に再会した時は……心臓が止まるかと思いました」

 「さっきから何を……」

 わからないわけではない。ただ、そんなことが起こりえるのかと、信じられなかった。篠吹は、如の頬に手を添え、じっとその目をのぞきこんだ。

 「君は……」

 如は目元を染め、すっと視線を逸らした。その顔は……紛れもない。記憶の中の、彼のものだった。

 「如君、だったっていうのか?……彼が?あの人が?」

 篠吹は絶句した。どうして今まで気付かずにいたのだろう。目の前の如には、確かに彼の面影がある。そうだ……彼もこうして、目元を染めて俯いた。その印象だけが、やけに鮮やかに焼き付いている。

 「酷いですよ」

 一転して壊れそうに悲しげな声で如は呟いた。

 如は篠吹の肩口に顔を埋めた。如の細い髪が、篠吹の頬にかかった。

 「忘れようとしたのに、貴方はまた僕の前に現われた……僕のことを、覚えてもいなくて……なのに、僕に似た人を、好きになって……黙っているつもりでした」

 だけど、と如の声は消え入りそうに細かった。

  「耐えられなかった……」

 「如くん……」

 篠吹は、そっと如の背に腕を回した。何もできることがないという事実は、何にもまして動かしがたかった。しかし自分は、どれだけ彼を苦しめ、傷つけてきたのだろう。知らず知らずの内に、どれほど。自分が曖昧な記憶などにとらわれていた一方で、如は、深く傷ついていたに違いない。篠吹は一時、涼のことを忘れそうになった。

 「篠吹、さん?」

 突然何の前触れもなく自分をきつく抱きしめてきた篠吹に、如は驚いたようだった。自らが押さえ込んでいる人間の腕の中で身じろぎし、わずかに顔をあげる。

 「俺は、何もしてあげられない」

 篠吹は真摯な眼差しで如に告げ、細い髪を優しく撫でた。如は、篠吹が言わんとするところを悟り、それでも、と囁いた。

 「僕は、貴方が欲しい」

 「涼がいても?」

 篠吹は如にそう尋ねた。それは、確かにずるい問いではあった。しかし、如は篠吹の肩口に顔を埋めながら、

 「あの夜の続きを……それだけで、いいから……今、だけで……」

 悲しげにも聞こえる声で言った。

 篠吹はしばらくの間沈黙を守ったが、やがて如の裸の背を撫でながら、ベッドに行こうと囁いた。

 二人はもつれ合うようにしてベッドに倒れこみ、篠吹はそのまま如を押さえ込んだ。

 如は篠吹のシャツのボタンを外し、続けてベルトを引き抜いた。篠吹はじっと如を見下ろし、遠くに霞む、いつか、を思い出そうとしていた。

 篠吹は目を細め、わずかに体を起こしてやった。如は体の向きを変え、ベッドの上で四つん這いになり、篠吹を愛撫する。濡れた音を響かせて、息を乱しているのは如の方だった。

 「如くん」

 如の愛撫は巧みで、篠吹はすぐにさらに上の快楽を求めたくなった。如の肩を掴んで仰向けに押し倒し、濡れて光る唇にキスをする。如は、篠吹の背に腕を回した。

 まだ後ろにはほとんど触れていなかったが、慣れてもいるだろうと、篠吹はいきり立った自身を、如の後ろに押し付けた。如は一瞬だけ震えたが、さらに深いキスを篠吹に求めた。篠吹はそれを了解の合図と受け取り、閉じたままの入り口を硬い欲望で押し開こうと腰を進めた。

 「ああっ!」

 如が突然絶叫した。

 「如君?」

 驚いた篠吹は体を引こうとしたが、如は苦悶の表情を浮かべながらも、篠吹にしがみついた。

 「や……はなさない、で」

 切れ切れに訴えた如の頬を、涙が伝う。生理的な嫌悪感や苦痛は、感情で宥められない。如の苦しみは尋常のものではなく、篠吹はある違和感を覚えた。

 「大丈夫か?」

 細かに汗の浮き出した額に張り付いた前髪をはがしてやりながら、篠吹は囁くように聞いた。

 「痛いならやめよう」

 「や……おねがい、だから……はなさない……」

 如は篠吹の背に腕を回し、必死にそう訴えた。篠吹はそれ以上中に押し入ることも、体を引き戻すこともできずと惑ったが、このままでは痛みを長引かせるだけだと、強引に如の体を割り、深く繋がった。

 「ああっ!あ!あ、あ」

 声にならない悲鳴が篠吹の耳を突く。如は耐え切れないのか涙を流し、痛みを散らそうとシーツをきつく掴んだ。如のそこは、痛みに萎縮し、篠吹が触れても反応を示さなかった。

 あまり慣らさずにしたのがいけなかったのか、それとも、如の体がなれていないのか……。篠吹は、下肢をなるべく動かさないよう気を遣いながら、如に問いかけた。

 「いつも、こんなに痛がるの?それとも……俺がいけなかったかな?」

 できるだけ優しく如の髪を撫で、静かに篠吹は尋ねたが、如は何に対してか首を激しく左右に振った。

 「……て」

 「何?」

 如は、痛みにまみれた眼差しを、それでも何とか篠吹に向けた。わななく唇は色をなくし、殺せない悲鳴に苛立っているように見える。

 「はじめて……」

 「初めて?」

 「しの……さんが、はじめ……こんな、こと……誰にも……ああっ!」

 「俺が、初めて?」

 まさか、という思いで篠吹が如を見つめた。如は、悲劇的な痛みの中でも、わずかに微笑んで見せた。

 「しのぶさん……だけが、欲しいとおもって、た」

 篠吹は絶句した。

 如は篠吹の首を抱き寄せ、噛み付くように首筋に口付けた。ちりちりとした痛みが首から背中へ広がっていくのにも構わず、篠吹は如の腰を抱き、ゆっくりと体を揺らした。

 痛がって、耐え切れない悲鳴を上げる如は、それでも嫌がらなかった。篠吹を受け入れ、痛みだけを与えられても、それでも離れようとはしない。

 ここまで一途で、そして純粋な人間を篠吹は知らなかった。如がいじらしく、同時に愛しくも感じながら、篠吹は如に何度もキスを繰り返した。如は震えながら、それでもはっきりと告げた。

 「好き……」

 恋の駆け引きになれているであろう彼のその言葉は、篠吹の心をひどく打った。如は泣き濡れ、苦しみながら

 「ずっと……ずっと好き、だった……」

 それだけを明瞭な声で告げた。

 雨音の合間を縫って響いた声は凛として、諦めという潔さも、どうすることもできない焦燥感も、誰かに対する罪悪感も、全てを打ち消す、まっさらな愛情を滲ませる。

 やがて、もう……と低い声で呻いた篠吹に、如は何度も頷いた。


 乱れたベッドには、如が流した鮮血が乾かずに赤く濡れていた。篠吹はベッドをおり、タオルと消毒薬を取りに行こうとしたが、如のか細い声に止められた。

 「いかないで……」

 「如くん……」

 篠吹はベッドに腰掛けると、血の気を失った如の美貌に目を奪われた。如はぐったりと、これ以上指一本動かせないのではないかと、見ている人間が不安に思うほど、憔悴して見えた。

 「本当に……」

 と言いかけ、篠吹は口をつぐんだ。聞くまでもないことだ。如が、初めてだったのは、抱いた自分が一番よくわかる。篠吹は、ため息をつき、乱れた如の髪を撫でながら

 「俺みたいな男で……本当によかったのか?」

 そう、問いかけた。如は悲しげに、それでも頷いて見せた。

 「貴方が、よかったんです」

 呟きは、雨の音より小さくて……篠吹は、如に寄り添うように横になった。

 「君が、こんな人だとは思わなかった……」

 「……あきれましたか?」

 いや、と篠吹は如の額に口付けた。

 「そうじゃない……ただ、驚いたんだ」

 如は鼻先を篠吹の頬にこすり付けるように顔を寄せ、苦しそうな息をついた。

 「大丈夫か?」

 篠吹は顔を上げ、如の横顔を見下ろした。如は、わずかに顔を上げ、口元だけで微笑した。

 「……やっぱり女性とは違いますか?」

 戯れか、そんな問いを発した如の体をそっと抱き寄せ篠吹は、ああと応じる。

 「違うよ……。慣れていれば、こんなに痛がらせずにすんだかもしれない」

 そう言ってから、自分がひどく無神経なことを口にしたような気がして、篠吹は気まずさに押し黙った。

 「涼くんなら……」

 「え?」

 「貴方をもっと……喜ばせられるのかな……」

 何を言うべきだったか、篠吹は益々沈黙の罠に陥った。

 「涼君は、上手ですか?慣れてて、僕より気持ちいいですか?」

 「如君?」

 「だって彼は……他の人のものだったんでしょ?是俊君がキスして抱いて、教え込んだ体でしょ?だから……」

 「如くん」

 如はシーツに顔を埋め呻くように告げた。

 「ごめんなさい……」

 篠吹はただ自分を責めた。やはり自分に好意を寄せてくれる人間と、一晩だけと割り切って関係を持つのは絶対にいけない。気持ちが強ければ強いほど、お互いが負う傷は深くなる。そう、わかっていて今まで絶対にしないと決めていた誓いを、今夜破ってしまった。

 如を追いつめ、彼らしくない言葉ばかりを吐かせているのも自分だと篠吹は知っていた。そう思えばなおさら、如が愛しく思える。

 言ってはいけない、そう思いながら篠吹は如の頭を胸に押し付けた。

 「すまない」

 如が振るえるように首を左右に振った。

 「僕の、勝手な片思いです。何年も……ただ意地になってただけなのに」

 如の髪にキスして、篠吹は乱れたシーツの間に体を滑り込ませた。これ以上、如を慰める言葉はないと悟っていた。何を言っても如を苛むか、さらに追い詰めるか……あるいはもっと惨めにさせるかだ。

 衣擦れの音さえ途絶えた静寂。

 「雨、止んだみたいですね……」

 篠吹の腕の中で、如がぽつりと呟く。

 「ああ。そうだな」

 シャワーを浴びたばかりでもないのに、如からは石鹸の香りがする。そういう類の香水かとも思ったが、それは如の香りなのだろうと篠吹は不意に思った。

 「朝まで」

 ゆっくりと顔を上げて、まだ潤んだままの眼差しを如が篠吹に向けた。

 「朝まで……ここにいて、いいですか?」

 「いいよ。少し、眠った方がいい」

 篠吹が労しげに目を細めると、如は初めて見せるような幸福そうな微笑を浮かべた。それはまるで、月のない夜にしか咲くことのできない花。幸薄い、哀れな美しさだった。

 如はそっと篠吹の頬に指先で触れ

 「眠ったら、朝が来る……」

 この刹那を留め置きたいと、瞳は囁いていた。そんな方法があるなら、何を投げ出してでも知りたいと如は思っただろう。

 あまりに無垢で、一途な、残酷な情熱。

 自分の身も、相手も焼き尽くすような、如の秘めていた情熱はそういう種類のものだった。

 自分には縁がないものと、篠吹が決め付けていたその熱。篠吹は、心のどこかで如に羨望の眼差しを向ける自分がいることに気がついた。

 真っ直ぐに、真っ直ぐに……そんな風に何かを守り続けることが自分にはできるだろうか。

 「……」

 篠吹が気付いた時には如は既に眠りに落ちた後だった。青白い頬に残る乾いた涙の跡。如をほんの一瞬でも愛しいと思ったのは、事実だった。それに自分が、涼以外の男性を抱けるとも思っていなかった。例え如が、自分にとって何かの始まりに立つ存在だったとしても。

 投げ出されたままの如の手を、篠吹は静かにとった。

 遠い日、始まりの日に見た、その白い手を。

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