第3話 コーヒー
来年度の予算編成についての打ち合わせは、設定された時間を大幅に過ぎてようやく終了した。安藤の後任である篠吹の提案は概ね了承され、クライアントの経営幹部からも非常に頼もしいというお墨付きをもらった。
「お疲れさまでした」
資料の整理を終え、篠吹がやれやれと思っていたところに現われたのは如だった。
「お疲れさま」
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
如の会社では専門店のような香り高いコーヒーが出てくることがあった。そのコーヒーは篠吹のささやかな楽しみでもあるのだが、毎回美味いかというとそうでもない。
「さっきのより美味いな」
「そうですか?」
同じ無地の白いカップで出されるにも関わらず、味も香りも全く違う。篠吹がそれを指摘すると、如は嬉しそうに微笑んだ。
「僕がいれたんですよ」
「如君が?」
ええ、と如は頷き
「僕、コーヒーとか紅茶とかっていれ方にこだわる方なんです」
「へえ……」
篠吹は確かめるようにコーヒーを再び香りをかいだ。
「本当に、店でも持てそうだね」
世辞でもないらしい。篠吹は頷いて如に微笑みかけた。
「ありがとうございます」
それから二人は黙ってコーヒーを飲んだ。ブラインドの隙間を縫って差し込む西からの日差しが、冬の夕暮れを温かく染め上げる。
「如君?」
じっと窓の方を見つめる如に、篠吹が呼びかけた。如は曖昧な微笑で篠吹を見、それから躊躇いがちに口を開いた。
「……涼君は、元気ですか?」
篠吹にとってそれは思わぬ問いだったらしい。一瞬如の目を見返し、篠吹はどこか照れくさそうに目を背けた。
「元気だよ。来年から、メイクの専門学校に行きたいと言ってる」
「そうですか」
自分から尋ねておいて、如は篠吹の答えにそれほどの関心も示さなかった。ぐずついた冬の空のように如の表情はどこかくすんでいた。元気がないな、と篠吹は思った。あるいは、三村是俊と上手くいっていないのかとも。単なる友情を超えて、共感や親近感を覚えている篠吹は
「今晩予定がなければ、少し飲みに行かないか?」
そう、気安く如を誘う。
「でも……」
はっとしたように目を見開いて、如はそう口ごもった。篠吹はどうしたのかと如を見守っていてが、
「涼君は、いいんですか?」
不意に問われて、わずかに首を傾げた。
「かまわないよ。一緒に暮らしてるわけでもないし、お互いの一日を何から何まで把握しようと思ってるわけでもない」
それに、と篠吹が真っ直ぐに如を見つめた。
「涼だって友人と食事にくらい行くよ」
蒼白な如の顔に、篠吹は何か思いつめたものを感じ取った。押し黙った如の、はじめて見るような悲しげな瞳。
「どうした?」
篠吹が心配そうに問うと、いいえと曖昧な笑みが返った。如は
「行きましょう」
そう、悲壮感さえ漂わせる眼差しでまた微笑んだ。
「大丈夫か?」
「何がです?」
何事もないかのように如は振舞う。あるいは、振舞おうとしている。篠吹はそれに気付き、いや、と首を横に振った。
「それじゃあ、30分後に、下でいいですか?」
「ああ、かまわない」
「それじゃぁ、後で」
「ああ。コーヒー、ごちそうさま」
篠吹が空になったカップを手渡すと、如は無言でにこりと笑った。
ノートパソコンの電源を落としながら、篠吹は如の悲しげな面影にとりつかれた自分に気付いた。どうして、あんな表情で笑うのか。どうして、笑おうとするのか。
今夜はゆっくり話ができればいいと篠吹は思った。
酒が入っても、如の口は重かった。篠吹は少しでも如の気を紛らわせようと苦心したが、如から引き出せるものは悲しげで社交的な微笑ばかりだった。
「すみません」
突然そう言った如を篠吹が凝視した。
「何だか……上手く笑えない……」
篠吹の視線から逃れ、半ば冗談のような口調で如は言った。しかしそれが今の如の本音だと、篠吹にはすぐに知れた。
「どうした?俺でよければ話ぐらい聞くよ」
「……」
うつむいた如の背を、篠吹はそっと撫でた。如は弾かれたように顔を上げ、何かを言いかけ唇を震わせた。
「三村君のことか?」
辺りを憚る低い声で、篠吹はきいた。如の瞳がふっと見開かれ、それから細くなった。
如は思いつめた眼差しで、完全に黙り込んでしまった。篠吹はこんなところでする話でもなかったかと反省し
「よければ、家で飲みなおさないか?ここからなら近いし、ゆっくり話も聞ける」
できる限り如を追い詰めないよう、優しく悲しげな瞳を覗き込んだ。如はうつむいたまま小さく頷いた。
二人が店を出ると、いつから降り出したのか冷たい霧雨が降っていた。
篠吹はタクシーをつかまえると如を先に乗せ、行き先を告げた。
薄暗い車内でも、如は沈黙を守った。
篠吹は如の横顔を見つめていたが、やがて流れる都会の夜に視線を移した。
雨が、先ほどよりも激しく降り始めていた。
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