第百十五頁 マリス・ミゼル 1

「椿木!大丈夫か、椿木」

 思っていたよりも階段は細長く、椿木どるはこれを転げ落ちたのか…?と街田康助は驚愕すると共に最悪のパターンを想像した。

 返事はない。ますます嫌な予感がしてきた。自分の作品のファンらしいというだけで友達でも何でもないが、こんな所で死なれるとさすがに夢見が悪い。


 地下何メートルだろうか。長い階段が終わり、何らかの部屋にたどり着いた。

 レコーディングの時に使用する無音室のように、不気味なほどに何の音もしない。少し懐かしい気もしたが、それどころではない。

「椿木、いるのか」

 暗くて何も見えないが、椿木どるはここに倒れている可能性が高い。気を失っているのか、あるいは…

 無闇に歩けば彼女を踏んでしまう恐れもあるので、摺り足でさぐりながら移動するうちにだんだん目が慣れてきた。

「………」

 そこまで広い部屋ではない様子だが、椿木どるの姿はない。

 違和感。

 だいいち、何故こんなに、階段の上からの光も届かないほど暗い場所で目が慣れるのか疑問だった。

 しかし、違和感の正体に気付くにはさほど時間はかからなかった。部屋の奥には更に細い廊下が続いており、そこに面する別の部屋から明かりが漏れているのだ。

 椿木どるはあそこにいるのだろうか。それとも何かの罠で、彼女は既に何らかの形で…

「椿木!そこにいるのか」

 返事はない。

「おい、犬。偉そうに言う事ではないが小生は丸腰だ。何かあれば頼むぞ」

 偉そうに独り言を呟き、思い切って部屋に足を踏み入れた。

「何だ……」殺風景な階段や最初の部屋、そもそも魔界というこの場所には似つかわしくない、どこぞのお金持ちのお嬢様の部屋だ。

 お洒落なクローゼットやテーブル、手入れされた花瓶の花、無数の可愛らしいぬいぐるみに囲まれて、部屋のどんつきにある小さなソファに、椿木どるは座っていた。

 街田に気付いていないのか、ずっとうつむいていてその表情は見えない。

「椿木、何をやっている。いるなら返事を…」

 文句を言いかけて、街田は彼女が手に抱えたフランス人形に気付いた。

 人形は身体をどるの方に向けたまま、頭だけをブリッジのような姿勢でギギギギと街田の方に向けた。

 醜い。髪が全て逆さに下がって露わになったその顔は、皮が全て剥がれ、片目が潰れ、大きく裂けた真っ赤な口には歯が一本もなく、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていた。


「ようこそ…"マリス・ミゼル"へ」


 人形が喋ったとたんに、街田の身体を凍りつくような悪寒が襲った。足腰からは力が抜け、その場だけに大きな重力が働いているようだった。

「何…なんだこれは。うっ…」

 口の中が水分が奪われたようにカラカラになり、視界がぼやけてきた。頭が締め付けられるように痛く、どうにかなりそうだった。熱が出て寝込んでいる時の数倍の苦痛と気怠さが襲ってくる。四肢に全く力が入らない状態でその場に崩れながら叫んだ。

「椿木!」

 覗き込んだ彼女の顔は、何日も眠っていないかのようなクマの出来た目で薄ら笑いを浮かべ、口からはツーと涎が直線を描いていた。

 おそらく敵はあの人形だ。

 彼女もこの空間にやられたのだろうか。

 何故、彼女が人形を持っているのだろうか。

 分からないが、とにかく意識が朦朧としてきた。指一本動かせない。

「い………ぬ………この………野郎……」


 椿木どるが立ち上がり、街田に近付いてきた。相変わらず涎を垂らし、首を傾け、焦点の合わない目でフラフラとこちらへ歩いてきた。

 精神が崩壊している。

 少なくとも街田にはそう見えた。


 瞬間、どるの脚は急にその態勢を崩した。先程階段から落ちた際の足の負傷が祟ったのだ。

 バランスを失った彼女は頭から倒れこみ、「ツッーーーー!」

 うずくまる街田の頭に思い切りヘッドバットが炸裂した。


 街田は若い時はよく悪さをしていた。ヤンキーだとか不良だとかいった人種とは違ったが、他人とのいざこざ、特に殴る蹴るの喧嘩沙汰のような事は少なくはなかった。

 もはや死語だが、喧嘩が好きな若者の用語で「チョーパン」というものがあり、これは頭突き、ヘッドバットを意味する。

 頭突きは双方がダメージを受ける特殊な戦法なので、勝敗は頭の硬さで決まると思われがちだがそうではない。筋肉と違い、頭の硬度などというものは鍛えようとして鍛えられるものではないので、結局は覚悟を持って仕掛けたものが勝つ。今から俺はこいつに頭突きを食らわせるので、少々の頭部へのダメージは我慢してこます。この覚悟が重要なのだ。

 だから、喧嘩でいきなり頭突きをかまされた相手はダメージも大きく、怯む。覚悟も用意もないからで、例え相手よりも少々頭が硬いとしてもたまらない。

 今の街田は、急に身体中の力が抜けてへたり込んだ所に予期せぬ少女の頭突きが襲いかかった形になるから、やはりたまらない。そのまま気絶する以外の選択肢はそこには無かった。

 結局、"犬"が街田を助ける事は無かった。

 どるはそのまま俯いて歩く屍のように、メルヴェイユの片手を掴んだまま部屋から出て行った。


 ………


「お姉ちゃん、マリス・ミゼルだ!」

「あ?エアロスミスがなんだって」

「そうじゃなくて、マリス・ミゼル。一字も合ってないじゃないか。四天王最後の一人、メルヴェイユの能力だよ」

 勇んで階段を降りようとする松戸ガガを必死に食い止めるべく、ラサは彼女の脚にしがみついた。

「どうでもいいから離れろッガキ!いいか、アタシが今、脚からブーストかましたらお前はステーキになるんだぞ」

 鬱陶しそうに振りほどきながら少年を脅しにかけるが、「駄目なんだ!お姉ちゃんはあいつに敵わないッ!」ラサは頑として言う事を聞かない。

「ガガ殿…その少年が誰かは存じぬが…」相変わらず両肩を抱きかかえ、震えながら桜野踊左衛門は顔をあげ、告げた。「これは超能力であるとか高度なカラクリであるとか、そういうものではござらん。ガガ殿。拙者の読みが正しければ、お主はこの敵とはとてつもなく相性が悪い…」

 震えながら、長い髪の奥の目がガガを見上げた。だくだくと流れる血液も相まって非常に迫力がある。

「幽霊ちゃんまで何言ってんだよ。科学の結晶たるアタシが何に負けるってんだ?」

「良いでござるか。拙者は元々、怨念と共に生を受けた…という言い回しは奇妙でござるが、この世に降りたった幽霊でござる」

「知ってるよ。その割にはジャージだけどな!」

 茶化すように笑ってみたが、桜野にはそれどころではないようで、ガガはしまったと思った。

「その拙者にはよく分かる。信じる主の仇、それすらも小さなものに成り果てる強い怨念を、この先から感じるのでござる」

「怨念?」

「そうだよ、お姉ちゃん!」


 途端、桜野がパタリと倒れた。幽霊が気絶するなど不思議な図だが、それと同時に階段からコツ、コツという音が聴こえてきた。

「おい幽霊ちゃん?どした?こらガキ!何か下から来てるのか」

「そ、そんな!どうやって…」

 ラサの顔がみるみる青くなった。


「メルヴェイユが…来る!」

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