第百十四頁 二度目の哀悼 (neuf)
グリグリグリ、という感触のあとに、ブチ、という衝撃を感じた。意外にスプーンでは力が要るし難易度が高い。
「ふぅ」
コロリと彼の手の中に、小ぶりの球体が転がり落ちた。案の定軽いものだが、彼はしばしそのフォルムに見惚れた。
赤と白が混じった表面の真ん中に、透き通った青い円が描かれている。円の中は透明のガラスのようで、さらにその中には何とも言えない幾何学模様の連続だった。
「宝石」
思わず口から言葉が零れた。そう、まるで宝石だ。
他の人のものもそうなのだろうか?それとも、シュニキスのものだからこそなのだろうか。
これは特別だ…
そう感じたイワンは、シュニキスそのものの絵とはまた別のキャンバスに、別途その宝石を描き残した。
イワンは深呼吸をした。
お別れの時だ。
シュニキスの顔はとても好きだった。まだ幼いし大人の色気を感じさせるような美女ではないが、可愛らしくて愛嬌があった。
ホクロひとつない白い肌や、笑ったときに少し垂れ下がる目尻などは芸術品と言っても良かった。
まずは彼女の顔をアップでスケッチした。左眼は空洞になっているが、薄暗くてよく見えず、奥の方まで描ききれない事が悔やまれた。既に顔の半分は眼孔からの血で真っ赤に濡れていたが、敢えて拭き取る事はしなかった。この血だって、彼女の一部なのだ。
真っ赤な口は、分かりづらいがすこし空いているのだろう。ヒューヒューとかすかな呼吸が聞こえる。
彼女はまだ生きている。こんなになっても、自分の為に生きてくれている。イワンの胸はまた、愛しい気持ちで一杯になった。
前髪を搔きあげ、小さな額、髪の生え際にナイフを当てた。
グッと力を入れ、切れ目を入れ、一気に裂いた。
「ヒギ、ギ、ギギ………ウ、ウェェェ」
歯が全て抜けた口から血液がピュッピュッと飛ぶと同時に、もはや生物ですらなく、無機質に壊れた機械のような声が漏れた。
「もう少しの辛抱だよ」
優しく励まし、顔の皮膚をミリミリと剥がしてゆく。
既に重なる苦痛に歪み、くしゃくしゃになっ顔が少しずつ、少しずつ本体から離れていく。
「醜い、まるで化け物だ」
この世の生物とは思えない悲鳴を上げながら、上から順に少しずつ真っ赤な血と筋肉だけになっていく彼女の顔を見て、思わず出た言葉にイワンは自分でも驚いた。
「ごめんよ。これは本心だ。これが本当の君の顔なんだ」
ベトベトになった手に持った顔の皮膚を、ギュッと握りしめた。
「きっと僕だってこんな顔をしているに違いないんだ。そして君とは見分けが付かないだろうね。誰もが笑顔の下に、見分けられないほどに似た醜い素顔を持っているんだ」
メリ、と最後の切れ端を顔から引きちぎる。
なんてこった、とボロボロ涙を流しながら、筆を走らせた。
「だけど!だけど僕は後悔しない。これが人間だったんだ。君も間違いなく人間だった。嬉しいよ、とても嬉しい。君と出会えて良かった…独りぼっちだったらこんな素晴らしい絵は描けなかった。ありがとう、ありがとうシュニキス…僕の愛しい人。こんな醜い姿になっても、僕はちゃんと君を愛せる。良かった。僕は間違っていなかった」
外が騒がしくなってきた。人が複数いる。おそらく全員男性…
警官隊だ。近所の誰かが異変に気付き、通報したのだ。
イワンは、良かった、と思った。顔の皮膚は剥がれ、片目を失い、歯は全て抜け落ち、手足はグズグズになって完全に壊れた彼女を描いた作品は、たった今この瞬間に完成した。間に合ったのだ。
シュニキスは既に絶命していた。
重なる破壊のどれが原因でもなく、脳が生きる事をやめるよう身体に命令したのだ。まるで眠りに落ちるように、いつのまにか静かにその呼吸は止まっていた。
「行こう」
イワンはシュニキスの肩に刺さったナイフを抜き取ると、何の躊躇もなく自身の喉を掻っ切った。
バシュッと飛び散る鮮血は、既に持ち主の血液で真っ赤に染まったメルヴェイユに、さらに追い討ちをかけるように降りかかった。
イワンはシュニキスに覆い被さり、愛しいものに抱きつくような体勢でその命を終えた。
間も無くして、警官隊がドアを突き破って進入し、その悲惨な現場に絶句した。
彼女の大切な友達…メルヴェイユだけが、真っ赤に染まった身体で全てを見届けた。
………
……………
……………………
全く身動きが取れず、瞬きをする事も目を逸らす事も一切出来ない状態で、シュニキスという少女の最期を彼女は見ていた。
最も、物理的にそういう状態だったのではなく、実際はソファに軽く座り込んでいたに過ぎない。
ただ、彼女の体質上そうとしか形容できない状況に、椿木どるは陥っていた。
彼女のサーチライトという能力は、使い方ひとつで悪用も自在だし、少し上手く利用すれば人生の成功も容易である。
しかし、椿木どるという少女にとってそれは苦しみ以外の何でも無かった。この能力が無ければ、どれくらい沢山友達が出来て、楽しい人生を送っていただろう。家族が自分を愛してくれただろう。
そして今ほど、「人の心が読める」という自分のこの能力を後悔した事はなかった。
魔王スリル直属四天王が一人(一体?)、呪いのフランス人形・メルヴェイユは、元々シュニキスというお金持ちのお嬢さんのお気に入りだった。
シュニキスは恋に落ちた家庭教師の特殊な性癖の被害を受け、世にも非人道的で凄惨な殺傷行為の果てに命を落とした。
いつも彼女と一緒だった人形はその全てを見ており、人間の歪んだ愛と憎悪、悲しみを目の当たりにした彼女にはやがて魂が宿った。
椿木どるの「サーチライト」は、半径2メートル以内の人間の思考や情報を読み取る事ができる。
ではその対象を触るとどうなるのか。
言葉だけの情報ではなく、その記憶が映像として頭に流れ込んでくる、というのが答えだ。
椿木どるは、不運にもメルヴェイユに触れてしまったのだ。
流れ込んでくる情報を十分にコントロールする力はまだ彼女には無く、いや、あったとしてもその強力な憎悪の津波には抗えなかっただろう。
幸せな日々を過ごしていたはずのひとりの可愛らしい少女が、何も抵抗できないまま真っ赤な肉塊の怪物に少しずつ少しずつ変えられていく様は、椿木どるの精神をグサグサと抉り崩壊させるには充分なショーだった。
彼女はバリバリと顔を掻き毟り、いつか好奇心で聴いたノイズミュージックの如く金切り声をあげ、やがてその人格は消滅してしまった。
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