第百十三頁 二度目の哀悼 (huit)

「君の見たものはその通りだし、言った事も事実だよ」

 イワンはゆっくり立ち上がり、横目でブライズを見た。

 彼女の手にはイワンの部屋で見つけた小ぶりの果物ナイフが握られているが、これは気休めでしかない。こんなものに、華奢とはいえ大の男一人を怯ませる力があるのかどうかは分からない。ただ、何も無いよりは幾分もましだった。現に彼は丸腰だ。

「君はシュニキスがよく話しているお友達だね」

「どうでもいいわ。今すぐシュニキスを解放してあげて。そして電話の場所を教えて。警察と医者を呼ぶわ」

 精一杯の大声を出したつもりだが、思っている以上に力が出ない。怖い。おそらくは向こうにも悟られているだろう。

「絵を描く時にひとつだけ、どうしても許せない事があるんだ」

 イワンは少しずつ、ブライズの方へ近づいた。ナイフを持つ手に力が入る。

「あなたが来るのはこっちじゃない!彼女を解放しなさい!」

「簡単な事だよ。邪魔をされる事だ。例えば素敵なオーケストラのコンサートや映画は、途中で退席してしまったり誰かに話しかけられたら台無しになるだろう。開始から終了まで、それに集中して初めてしっかり楽しんだと言えるんだ。絵を描く事だって、同じ事なんだよ」

 無表情で淡々と語りながら、自分の顔をブライズの顔に近付けた。シュニキスと手を繋ぐ事さえ躊躇うような男の立ち振る舞いとは思えなかった。

「こ、来ないで!本当に刺すわよ!」

「僕はきっちり、納得いくまで楽しみたいんだよ」


 イワンが一歩引いた瞬間、ブライズの目には一本の鉈が映った。

 一瞬だ。今の一瞬で、顔を近づけて気をそらしておいてから、戸棚から取り出したのだ。

「あっ」

 声を上げた時には遅かった。

 振り下ろされた鉈がサクッと彼女の片手首の半分程に入り込んでいた。

「あ、ああっ!あああああー!!」

 果物ナイフが床に落ち、ビチャビチャと滝のように血液が降り注いだ。

 ブライズの手首の直径半分以上に切れ目が入り、かろうじて肉と皮だけで繋がった手首から先がブラリと下がっている。膝をついて悲鳴を上げた。

 シュニキスは声にならない声で叫んだ。一瞬でも、助けてほしいと思った自分が馬鹿だと思った。彼女を巻き込んではいけない。

「逃げて、ブライズ、逃げて」

 かすれたような声で叫んだが、すでに遅かった。

「しかし、何が起こるかなんて分からないものだ。中断してしまう事は仕方ないよ」

 大きくイワンの手が振り上げられた。

「それなら、せめて中断の時間は短い方がいい」


 ドン、という音だった。

 本当に人間が壊される時の音は、グチャ、だとか、バキ、などではない。何か金属のような、硬い木材のようなものを思い切り刻んだ時と同じ音が出るのだった。

 イワンにはさほど腕力がないが、振り下ろす速度と力にブーストをかけるにはその鉈の重さは充分だった。

 ブライズの頭半分、髪を切り、皮膚を裂いて頭蓋骨に一瞬でめり込み、斜め上あたりから丁度眼球を真っ二つに割るように、重々しい鉈が食い込んだ。耳と鼻、口から勢いよく血液と泡が飛び出し、砂でできた城がガラガラと倒壊するように膝をつき、倒れた。

 彼女の顔立ちは美しく、鉈によって縦に分断されたアンバランスさが、無造作に破られたポスターを思わせた。事実、ブライズの顔は苦痛に歪むでもなく、キッとイワンを睨む勇ましくも美しい表情のまま、壊れた。


「ブライズ、ブライズ!ああ!何て事……」

 殆ど原形を留めない手の筋肉にほんの少し力が加わっただけで、激痛が襲った。

 痛みと恐怖と後悔と、友達が目の前で惨たらしく壊れてしまった悲しみで脳がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。

「続けるよ。僕は良い絵を描きたいんだ。君もそれを願ってくれるはずだよ」


 ゴリッ、ゴリッと小指の骨を少しずつ削る音が部屋に響く。ノコギリが引かれる度に、鈍い音と痛みがシュニキスを襲い、やがてそれは嘔吐になって小さな口から勢いよく外に飛び出した。

「だ、大丈夫かい。予想外だ。でも…」

 コトリと床に小さな小指が落ちた。

「これも大切な過程だ。受け入れよう。僕は良い絵を描くんだ」

 シュニキスの、ブルーの可愛らしい洋服の真ん中は嘔吐物で薄気味悪い黄土色に光っていたので、イワンは新しい色をパレットに混ぜてみた。

「上手く行かないな。当たり前だと笑われそうだけど、嘔吐を描くのは初めてなんだ…塗ると言った方が正しいかな」


 外は薄暗くなり、部屋の明かりをつけたくない気持ちと、じっくり作品を仕上げたい気持ちとの間にイワンは少々の葛藤を覚えていた。ブライズの死体は目障りだし、やがて腐ってしまうと思うとどうも気が散る。

 彼女は、シュニキスは大切な被写体だ。リンゴやワイングラス、パンなんかはいくらでも手に入るが、彼女は世界にひとりなのだ。少しでも間違えれば取り返しはきかない。

 イワンは少しずつ少しずつ、大事な被写体に手を加え、その度に絵を描いた。


 もう片方の手は思い切って手首から切り落としてみた。想像以上に血が出てきたので、「ごめん!ごめんよ」と慌てながらハンカチで切り口をきつく縛った。これなら出血を抑えられる。医学には明るくないが、間違いではないはずだ。


 足の指は全てプライヤーでぺしゃんこに潰した。芸がないと思ったが、短いし、爪の面積が小さいのでこれで良しとした。


 問題は身体、胴体だった。何度か鎖骨や胸の辺りをハンマーで殴ってみた。なんとも言えない感触と鈍い音は、おそらく肋骨が折れたのだ。ただ、服を着ているのでいまいち変化が分からない。この洋服はイワンも気に入っていたから、脱がせる事は趣向に反した。

 このくらいでいいかな…胴体に関しては諦めたが、代わりに肩と脇腹にナイフを突き立てておいた。血液が洋服に滲み、鮮やかな紫色になったので、これで良しとした。


 シュニキスの手足はひとつひとつの飾り付けに反応して、ビク、ビクと跳ねた。まだ生命が強く生きようとしている証拠だ、とイワンは溢れそうな涙を堪えた。


「次は顔かな。仕上げだ」

 耳に長い針を入れて、鼓膜を破った。脳まで達してはいけないので、ある程度の加減が必要だった。

 ギッ、ギッと口から漏れる声はもはや悲鳴というよりは、瀕死の鳥か猫の唸り声に聞こえたが、イワンにはそれでも良かった。彼女は人間だ。物と違って、加工されれば声が出る。それを感じ取りながら筆を走らせる事にも重要な意味がある。


 歯を全て引き抜く作業は大変だった。彼は歯医者にかかった事は無いが、父親が親不知を抜いた話をしたときは、歯は簡単に抜けるのだなというイメージがあったが、実際はそうではない。頭を固定する物がないので、片手での作業は腕力のない彼には中々骨が折れた。

 ともあれ、全ての歯を抜いた彼女の口からは、ジュエルのように真っ赤に光った汁がドボドボと垂れていてとても綺麗だ。描きがいがある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る