第百十二頁 二度目の哀悼 (sept)

「素敵な絵をありがとう、イワン。でも…」

 シュニキスはもう限界という具合に、身体をモゾモゾとよじりながら彼に告げた。

「そろそろ椅子から放してくれると、助かるわ…ちょっと身体が痛くて」

 イワンは無言で椅子から立ち上がり、シュニキスに近寄った。

 ああ良かった、きっと完成品に夢中で気が回らなかったのね。と彼女は考えたが、近付く彼の顔を見てゾッとした。

 彼の顔は真剣そのものだった。絵を描く時と全く同じ表情かおだ。

 いつもは絵を描き終われば、ずっと水中で息を止めていた人が、水面に顔を出した瞬間のように緊張がほどけ、ふわりといつもの優しい顔に戻っていた。

 今の表情からは、キャンパスからは立ち上がったに関わらず、まだ絵を描き続けているかのように険しい彼しか読み取れない。

(ポーズを変えて、また描くのかしら。それにしても、休憩がしたいけど)と思った瞬間、イワンはおもむろにひざまづき、シュニキスの左手、人差し指に触れた。

 彼は少し伸び気味な彼女の人差し指の爪をしばらく眺め、やがてシュニキスの目を見つめた。

「ど、どうしたの?イワン…」


 ミシッ。


 イワンの人差し指と親指が、シュニキスの爪、白い先端をギュッとつまみ、「い、痛い。何をするの!」驚いた彼女の抵抗をものともせず、


 メリメリメリ。


 ものすごい力をかけられた爪は先端から順に、徐々に本来あるべき場所から剥がれていった。

「ああギィィァァァア!!痛ァァァァァァァ!!!」

 全身を強張らせ、これまでの人生で一度も発した事のないような金切り声を上げた。

 剥がれた後の指には真っ赤な楕円形が残り、その輪郭からプツプツと血液が生まれ出て、落ちていった。無残に残った人差し指は、行き場もなくプルプルと痙攣していた。

「嫌、どうして、嫌!」

 目からは大粒の涙がボロボロ溢れ、顔をブンブンと左右に振って泣き叫んだ。

 イワンは立ち上がり、キャンパスに戻った。

 彼女は目を疑った。

 彼はそのまま、次の絵を描き始めたのだ。痛みに震える彼女の表情や、身体の強張り具合、手足の震えをじっくりその眼鏡の奥の瞳で観察し、キャンバスに転写していった。

「何を、何をしているのイワン。椅子から解いて。痛い、とても痛いの」

 なおもボロボロと涙をこぼしながら、彼に懇願した。彼女の訴えは聞こえていないのか、彼はそのまま同じ表情で、彼女の2枚目の絵を描き続けた。


 やがて完成すると、それをシュニキスに見せる事もなくまた立ち上がり、彼女に近寄った。

「ねえ、お願い。馬鹿な事はやめて。どうしてしまったの…」

 逃げようにも、完全に椅子に縛られているので逃げられない。椅子は思ったよりも重く、身体を揺らして倒す事すらできなかった。

 イワンは、次に真っ赤な人差し指の隣、中指に触れた。

 ボキリ。

「ッッッッッ!!!!」

 中指は、本来曲がってはいけない方向に綺麗に向いていた。イワンが思い切り握ったうえで、骨を折ったのだ。指と手の甲が、不自然に四十五度の鋭角を描いていた。

「ひぎいぃぃぃっ!!!」

 最初の、爪の痛みを搔き消す激痛が左手を襲った。涙に加えて、シュニキスの額から汗がダラダラと吹き出る。

 イワンの行動は同じだった。キャンバスに戻り、痛みにガチガチと震えるをスケッチした。

 何か、気に入らない事でもやってしまったのだろうか。

 紐を解いて欲しいと頼んだから?

 三枚目の絵を完成させたイワンはまた立ち上がり、次は側の戸棚にしゃがみ込んだ。大きな工具箱を取り出し、シュニキスの前にズシリと置いた。見ただけでも重量感があり、一体いつ使ったのか、年季の入った箱だった。

 シュニキスは嫌な予感がした。

 イワンは工具箱から大きなプライヤーを取り出した。少し分厚い金属でも簡単に捻じ曲げられそうな大型のものだ。

 彼女は次に自分に降りかかる悲劇を、すぐに理解した。

「お、お願い、やめて。何か悪い事をしたかしら…謝る、謝るから……や…」

 プライヤーで薬指を軽く挟み、

「やめて、嫌、嫌だ!やめて!!!」

 思い切り力を入れて先端を閉じた。

 人間が発する声と言っても疑われそうな悲鳴が鳴り響いた。

 シュニキスの薬指の第一関節から先は、てこの原理で骨が粉々にくだけ、平べったく黒ずんだ肉片に変わり果てた。

 彼女の口からはもはや言葉らしい言葉は出なかった。痛みによって悲鳴と嗚咽が入り混じった声の中に、かすかに「たすけて」「どうして」といった言葉が聞き取れる程度だった。

 イワンはやがて、また新たなを描き終えた。

 椅子から立ち上がり、工具箱から小型のノコギリを取り出し、彼女に近づいた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 涎でぐちゃぐちゃになった口で許しを請うが、何が悪いのか分からない。どうすればいいのか分からなかった。何が彼をこうさせたのだろう。何が間違ったのだろう。とにかく、この恐怖から解放される為にどうするか、を考える思考もほぼ掻き消され、訳もわからず謝る事しか出来ない。

 ノコギリの冷たい刃が彼女の小指に触れた。


「シュニキス!シュニキス!!」


 部屋のドアを蹴破って、少女が飛び込んできた。涙で滲んでよく見えなかったが、声だけで分かった。活発で勝気な声色のこの少女をシュニキスはよく知っていた。

 イワンは驚くでもなく、チラリと彼女の方に目をやるとまたキャンバスに視線を戻した。

 少女は両手で小さなナイフを構え、叫んだ。

「あなたがイワンね…すぐにシュニキスを離して。医者と警察を呼ぶわ。あなたのおぞましい趣味に友達を巻き込まないで!」

 その声こそ勢いがあったが、手は震えていた。ナイフがあるとは言え、相手は成人の男だ。思わぬ返り討ちに遭う可能性は高い。

「ぶ、ブラ、イズ……」

 震える声で友達の名前を呼んだ。

 どうやって突き止めたのか分からないが、ブライズが彼女を助けに来てくれた。

「逃げて。この人は危険よ」なんて、映画のヒロインのように気の利いた事を言う精神力は残っていなかった。助けて欲しい。殆ど痺れてしまっているに等しい、左手の激痛に顔を歪めながら祈った。


「あなたのアトリエ跡を見たわ。静物の絵がたくさんあった…けど、あれはあなたが本当に、最終的に…描きたいものではないわよね」

 イワンは表情を変える事なくブライズを見つめる。

「戸棚の中に隠してある、絵の"続き"を見たわ。フルーツも、食器も、花瓶も、あらゆる物があなたの手で破壊された残骸の絵よ」

 ピクリとイワンの表情が動く。

「それも1枚じゃあない。少しずつ少しずつ、ヒビを入れたり、割ったり、粉々にしたり段階を踏んで、その状態を1枚ずつ絵にしていたのよ」


 シュニキスは理解した。この男の趣味…いや、性癖と言っていいのか。

 何かの小説で読んだ事がある。何かが壊れていく姿に美しさや興奮を覚える、異常とも言える性癖を持つ人間が存在する。

 彼がそうだったのだ。彼はその興奮を絵で表現する。

 これまでは動かないもの、つまりは静物が対象だったが、人間が対象になった瞬間、それが目覚めるのだ。

 おそらく今までは彼とてシュニキスをひとりの女性としてしか観ていなかっただろう。だが、今こうして"被写体"になる事で、彼女も対象になったのだった。

 ブライズの足は震えている。

 イワンがゆっくり立ち上がった。

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