第百十一頁 二度目の哀悼 (six)

 両親の葬儀が終わり、シュニキスは誰にも言わず、ひっそりとイワンと結婚を約束した。

 イワンの両親は、話に聞いていたよりも気さくで優しい人達だった。二人の話を聞いたとたんに大喜びし、彼らにをした。湖から少し離れた場所に、ちょっとした屋敷を建ててくれたのだ。

 二人はそこで暮らしはじめ、庭に面した一室はイワンのアトリエにした。庭には、シュニキスが手がける、前ほどではないが鮮やかな花壇が広がっている。


 お嬢様のシュニキス、驚くほどに奥手なイワン、いくら互いに愛し合っているとは言え婚前交渉なんて夢のまた夢の話でしかなかったが、代わりにその絵描きの青年は彼女にある申し出をした。

「君の絵を描かせてくれないか」

 彼女は目をまるくした。

 これは彼にとって一大決心の現れだった。何故なら彼は静物画専門で、人間、いや、動物自体を描いた事が無かったからだ。

 もちろん快諾した。何より彼の初めての挑戦に一役買える事が、自分が特別な存在であるという事を確認させてくれるようだった。些細な事かもしれないが、それだけで、彼と一緒に前に進むには十分なきっかけだと思えた。


 ただ…


「ねぇ、イワン」

「何だい」

「私はどうしてのかしら。何だかおしおきを受けているみたいだわ」

 その通り、彼女の手は椅子の肘掛に、足は前足に紐で強く縛って固定されている。イワンが作業をする間、彼女は彼なりの拘りなのかと思い何も聞かなかったが、やはり気になる。これではまるで死刑囚の電気椅子だ。

「いや…動くものを描くのは初めてだから」

「動かないわよ。あなたが描き終わるまでじっとしているわ」

「時間がかかるかもしれないよ」

「疲れたら、休憩させてもらうわ。休んだら、また同じポーズをすればいいのよ」

 彼女は、おかしな人、という風に苦笑いしながら主張する。

「でも、やっぱり不安だ。僕はものしか描いた事がないから…」

 少女は仕方がないわ、と観念し、「ありがとう!」青年はパッと顔を輝かせた。

 物理的には彼女が動かなければ良い話だが、確かに気持ちの問題があるのかもしれない。子供が、うまくバランスさえ取れば乗れるはずの自転車に補助輪をつけるように、最初のうちは「絶対に転けない」「絶対に動かない」という確信がなければ、踏ん切りがつかない。

 確かに私も、お花の手入れをする時、最初は絶対にお母さんについていてもらったっけ…

 そこまで考えると、やはり何かじんわりしたものが込み上げてきた。

 考えてはいけない。

 今は、イワンとの未来を考えよう。


 チラリ、と視線を斜め下におろした。

『変なの。マジックショーに選ばれた観客みたいね』

 まあ、またそんな皮肉ばかり言って。と彼女はそこに座るフランス人形に向かって口を尖らせた。

 メルヴェイユがここに居る事は奇跡だった。

 あれだけ屋敷が焼け焦げたのに、シュニキスの部屋だって見るも無残に堕ちてしまったのに、屋敷から少し離れた茂みの中に彼女は少しの焦げもなく横たわっていた。まるでひとりでに動いて、炎から逃げ隠れたかのようだった。

 その理由を、イワンはこう推理した。

 シュニキスの両親はもちろん、シュニキスが外出している事を知っていた。火がまわり、まさに屋敷が焼け落ちる寸前に、彼女の部屋でメルヴェイユを見つけ、窓から外に放り投げた。娘の大切な友達だけは、せめて助けようと思っての事だったのではないか。

 それが本当なら、恐らく母親だ。厳格な父はそんな事はしない。母だけが、シュニキスが夜な夜なメルヴェイユに話しかけている事を知っていたのだ。ひっそりとやっていたのに…「親はなんだって知っているものさ。とくに母親はね」イワンは言った。「僕が将来ブドウ園を売るつもりでいる事だって、見透かされてるのかもしれないな」

 これはただの推理にすぎない。母親の焼死体が彼女の部屋から見つかったか否かは、知らない。そこからはもう考えたくなかった。

 でも、そんな事でもいいからイワンの言う事を信じたい。そして、メルヴェイユにだって家族の形見としてずっと側にいてほしい。少しなら生意気な事を言っても構わないわ。

 一度は全てを失ったと絶望しかけたが、同時に新しい事が始まるという希望に胸を震わせていた。

 メルヴェイユの表情は当然変わらない。ただ。シュニキスには嬉しそうな…でも悲しそうな、複雑な表情をしているように見えた。


 イワンが、いつもの難しそうな表情をしながらキャンパスに筆を走らせている。

 モデルになって、何かデメリットがあるとすれば…制作過程を見られない事だ。まさか被写体が立ち上がって回り込んで、「出来はどう」なんて確認できるはずもない。

 …最も、今は物理的にも不可能なのだが。

 でも、じっと、過程を見ずに完成を待つのも悪くは無いと思った。イワンの目線、筆を持つ手の位置で、今は髪を描いている、だとか、次は脚だ…など、頭の中で過程を想像するのもまた楽しかった。

 想像するたびに、身体のその部位を撫でられているような奇妙な感覚があった。

 イワンには頭を撫でられたりだとか、手を重ねたりだとか、そういったスキンシップを殆どされた事がない。

 でも、今はイワンの手が、自分の身体に触れるのを感じる事ができた。

 これが、彼なりの愛情表現だとしたら…こんな素敵なこと!


 ほどなくして、イワンは椅子に座った…厳密には縛られた、シュニキスを描き終えた。

「出来た」

「見せて頂戴」

 シュニキスは顔をパッと明るくして頼んだ。イワンの絵が完成した事も勿論だが、やっとこの椅子への束縛が解けるという安堵感もあった。座ったままとはいえ、少しキツい。

「恥ずかしいけど…どうかな」


「………」

 とても美しかった。静物画しか描いた事がないなんて、本当かしら。容姿に自信が無いわけではないが、これが自分だなんて恐れ多い…

 ただ、違和感があった。

 絵はいい。

 問題はそのだ。

 普通なら、ごめんね、など言いながらシュニキスの手足の紐をほどき、キャンパス側に彼女が回り込んで、完成品を拝見する。

 必ずしもそうとは決まっていないが、彼女はてっきりそういった流れになると想像していた。

 しかし、彼はキャンパスをその場で持ち上げ、裏返し…つまり、絵を彼女に見えるようにキャンパスをひっくり返して、披露した。

 違和感。

 ひょっとして、この縛り付けはまだ続くのかしら?


 ………


 湖のほとりにある、廃屋と化した小屋で、その少女は声すら出さずにいた。

 おそらく彼は静物画の専門家なのだろう。果物だとか、花瓶と花だとか、バスケットのパンだとか、何でもなく平凡な絵が散らばっている。美術の本で見た事があるような、特に面白みもないただの「物の絵」だ。

 そこまでは良かった。


(シュニキスが危ない)


 ブライズは一目散に、今は捨てられたアトリエを後にした。

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