第百十頁 二度目の哀悼 (cinq)

 3日前から、シュニキスは学校に来ていない。

 先生が理由を伝えたので、ブライズももちろん、皆が彼女が何故来ないのかを知っていた。


「シュニキス、可哀想」

「凄い勢いで火が広がったんだって」

「ご両親は助からなかったのね。なんて残酷なの」

「でも、シュニキスは…見つかっていないんでしょう」


 皆が口々に噂するのを、ブライズは気に入らないという表情で聞こえないふりをし、窓の外を見つめていた。


 シュニキスの両親は見るも無残な姿で発見された。警察が発見したそれらはかろうじて人の形をした赤黒い何かでしかなく、どちらがどちらなのかの区別をするのにも時間がかかった。

 ただ、シュニキスの死体だけはどこにも見当たらなかった。

 簡単な事で、彼女は外出中だったのだ。

 しかし、肝心の行方が分からない。もしかすると行き先を告げる書き置きでもあったかもしれないが、あの状況でそのような物が残っているはずも無かった。


(おかしい…)

 ブライズは友達の誰ともその事について話をする気にならない。シュニキスが生きているかもしれないという希望はあったが、何故彼女の行方が分からないのかという不安と疑問がそれ以上に頭を支配し、様々な思いが頭を巡らせた。

 その結果、ひとつの可能性に辿り着いてしまった。


 シュニキスは誰かと一緒に居るかもしれない。

 では誰なのか?

 イワンという、あの家庭教師だ。面識はまだないが、彼女はしょっちゅう彼について話をしている。

 イワンとシュニキスは仲が良い。恋仲と言っても良い。

 シュニキスは学校でも有名な大金持ちの令嬢だ。

 そうでなければ、シュニキスと私もあんな出会い方をしていなかった。

 あの雨の日、大金持ちの気に入らない箱入り娘を、思うがままに蹴っ飛ばしたのが始まりだ。我ながら、よくこうやって安否を気遣う程の仲になったものだと不思議に思う。

 さておき、そんな由緒正しい家の両親が、一人娘と、勉強を教えているに過ぎない家庭教師との男女の仲を許すものだろうか。

 私には話さないが、もしかしたら両親と激しく衝突していたかもしれない。


 火事。両親の死。行方不明の娘。厳格な大金持ちの家。家庭教師との恋…。


「駆け落ち……」


 思わず口に出た。

「なになに?」仲間内の一人が聞き返す。「何でもない」吐き捨てて、席を立った。


 本当なら、とんでもない事だ。確かにシュニキスがどこかで生きていたとしても、火事があったというのに戻らない、顔すら出さないのは明らかにおかしい。

 恋愛は自由だ。しかしやっていい事と悪い事がある。

(本の読みすぎかしら)

 一瞬考えたが、どう考えてもこの考えに辿り着いてしまいもどかしい。

 シュニキスを蹴飛ばした時もそうだった。こうだと思ったら、実行せずにいられない。

 ブライズは何かに押されるように、彼女の足は何かに導かれるように…湖へと向かった。


 ……………


「…………」

「ごめん……」

 少女は顔を上げた。

 何故この人が謝るのか、自分には理解出来なかったのだ。

「本当に……ごめん」

「わからないわ。どうしてあなたが」

「僕には…」

 男はぎゅっと眼鏡の奥の目をつむり、強く言い放った。

「分からないんだ!何て言えばいいのか…今の…本当に辛い君の気持ちを、上手にすくい上げる言葉が…僕は、絵を描くしか取り柄のない奴だから…」

 少女は、なんだ、そんな事。という風に、力なく笑ってみせた。

「ありがとう、イワン。いいの、いいのよ。これは運命なの」

 シュニキスの目からは、本来流れるはずの涙は一切流れなかった。厳密には、まだ流れていないといった方がいい。唐突な悲しみは、後から涙を引き連れてくる。


 彼女の大きな家が丸ごと焼け落ちるような大火事に遭ったのは、偶然としか言えなかった。両親や、使用人は全員焼け死んでしまったが、シュニキスはたまたま、イワンのいるアトリエにその日も外出していた。なので、助かった。

 アトリエからはシュニキスの家は見えないが、そこから煙がわんわんと上がっていれば雑木林ごしに確認する事ができる。

 戻った時には、もう遅かったのだ。

 彼女とて、落ち着いて見えるかもしれないがまだ頭がパニックになっていた。気持ちをどちらに持っていけば良いのか分からなかった。

 何故、自分だけのうのうと恋人のアトリエに遊びにきて、生きているのか。

 否、これは神様が自分だけを守ってくださったのだ…。

 どちらにも着地できないでいた。ただ、大好きな家族が死んだのに、まだ涙すら流れない事が彼女には不思議で、不安な事だった。


 数日の間、彼女は親戚や、学校の大人達とこれからの事について一方的に話をされた。

 何しろ、遺産も何もかも燃えてしまって残っていない。親戚だって、そうとわかれば冷たいものだった。あまり会った事は無い人ばかりだったが、彼女にはそれだってショックな出来事だった。

 少しの間親戚の家に住んでいたが、金すら無い娘をずっと置いておくほどに余裕のある人たちでは無かった。


「シュニキス。考えたんだけど」

 イワンが何やら難しい本を読みながら、決意したかのように「僕は、働こうと思う」そう告げた。

 大学は中退し、ちゃんとした職につく。親ではなく、自分一人ではない誰かもう一人を養える程度には。そういった内容の事を、普段の彼からは意外なくらい大きな声で語った。

「シュニキス。一緒に住もう」

 彼女の手を取ろうとして、いつものように躊躇してしまったが、その眼差しはまっすぐにシュニキスの目を見つめていた。それが、ぎゅっと手を握る事の代わりであるように思えた。

「イワン、どういう事。働くって…一緒に?住む?」

 唐突すぎて、理解が追いつかなかった。

「そうさ。君はまだ働くには若すぎる。ちゃんと学校に行って、勉強して。僕が働いて、お金を稼ぐ。きみのご両親の足元には及ばないけど…し…」

 ゴクリと唾を飲み込み、「幸せにしてみせる」はっきりと発音した。

「絵は、別にいいのさ。もともと僕の腕前で、絵で稼ぐなんて夢物語かなって思うところもあった。まずは両親のブドウ園を継ぐよ。その間に勉強して、もっといい仕事を見つける。ブドウ園は売って、子供の養育費に当てる。どうだい?」


 ここにきて、シュニキスの瞳からは大粒の涙がこぼれ出た。

 両親と家を失った悲しみだったのか、彼のあまりに頼もしい提案にだったのか、それは本人にすら分からなかった。

 シュニキスはイワンの胸に顔を埋め、いつまでも泣いた。

 アトリエのほとりの湖は、悲惨な火事も少女の悲しみも、青年の立派な決意も、何事も無いかのように、いつも通りゆらめいていた。

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