第百九頁 二度目の哀悼 (quatre)
「メルヴェイユ。私は幸せよ」
『最近のシュニキスは嬉しそうね。嬉しそうなシュニキスを見ていると、私も嬉しい。でも』
「でも?」
『シュニキスが、遠くへ行ってしまいそう』
「ふふふ、何を言うの。メルヴェイユは、私が生まれた時からずっと一緒じゃない。好きな人が出来たからって、遠くへなんか行かない」
『安心した』
「ねえ、聞いて。今日、ブライズったらね」
シュニキスの母は16年前、彼女が生まれたお祝いにフランス人形を買い与えた。ひらひらとかわいらしいブルーを基調としたドレス、金髪の巻髪、ぱっちりと大きな目に、唇はまた美しいブルーに塗られていた。
街の古い人形屋でそれを見つけ、目が合った瞬間にお腹の赤ちゃんが動いた。母には、我が子がまだ産まれる前に関わらず、生意気におねだりをしているように思えて、思い切って買って帰ってしまった。
まだ新生児にフランス人形など早いだろう、と父は呆れたが、「これがシュニキスの最初の友達。辛い事も悲しい事も、この子の傍で聞いてあげるの」と母は微笑んだ。
「うむ…しかしそういう事は、親である私達がだな」
「あら、女には親には話せないけど、誰かに話したい…そういう話のひとつやふたつ、出来るものよ」
父はばつがわるそうに頭を掻いたが、頑固な私には女の世界は分からない。お前の好きにするといいよ、と苦笑いした。
母は、「素敵なこと」だとか「おどろき」という意味を込めて、人形にメルヴェイユと名前をつけた。
以来、彼女はずっとメルヴェイユと一緒だった。物心がついた頃には、フランス人形が喋るはずなどないという事は理解した。でも、何かを彼女に話しかけると、何かをちゃんと返してくれている、そんな気がしていた。そしてそれはいつだって気の利いた言葉で、シュニキスを助けてくれたり、決断をさせてくれた。
ブライズと喧嘩して、学校の先生にウソをついて、それをきっかけに友達になった事も話した。友達が出来た事は母に話せても、先生を困らせた話なんて出来るわけがない。母には、隠し事はしてもウソはつきたくない。だから、メルヴェイユにだけ本当の事を話した。
『また大胆に出たわね。フフフ、いいじゃない。学校の先生なんて、少しくらい困らせてあげればいいのよ』
と言ってくれた気がして、シュニキスはまた勇気づけられた。
青く、美しいフランス人形は16年間ずっとシュニキスを見守ってきたのだ。
シュニキスは本当に幸せだった。尊敬する母と、少し頑固だが頼れる父親、そして何よりイワンの存在が、彼女の毎日を潤わせた。無論、そうそう毎日会えるわけではないが、週に一度ずつ、家庭教師として家に来る日と、彼のアトリエに遊びにいく日が楽しみだった。
ブライズはじめ友達との仲も順調だったし、退屈だったはずの学校の授業も不思議と興味深く、これまで何気なく見ていたものがひとつずつ、輝きを帯びて彼女の目に映った。
「ねぇシュニキス」
帰り支度をするシュニキスにブライズが近寄った。シュニキスは、これは何かを誘ってくる雰囲気だなと悟った。
「ごめんなさい、今日は…」
「分かってるわ。イワン先生のアトリエに行く日、でしょ」ブライズは分かってますよという風にニヤリとしながらシュニキスに被せた。
「ねぇ、イワン先生ってどんな人なの。一度会ってみたい」
わざと顔を寄せて、シュニキスに訊いてみる。頼むというよりは、おねだりという雰囲気だ。
「う、うーん…どうかな。ちょっと、人見知りする人だから」
「そんなの大丈夫よ」
「それはブライズが、でしょう。先生は大人しくて、絵を描くのが好きで、優しくて…」
やれやれ、とブライズは両手をひろげた。途中からただの惚気になってるじゃない。
「それにね。もしブライズを連れていって…先生があなたの方に惚れたらどうするの」
「まあ!あんたって人はまたそんな」
シュニキスが言う事は度々、本気なのか冗談なのか分からない。ブライズは顔を赤くして、「まあいいわ。いつか紹介してね。私の美貌で奪い去ってあげるんだから」皮肉と共に観念し、二人は笑いあって別れた。
イワンとの仲は好調だ。
しかしひとつ問題があった。
イワンがあまりにも
無論、シュニキスだって育ちが良い。特別何か大人な事をしたいなどは思わないのだが、もう数か月だ。キスくらいはいいんじゃないか、と思う事もあるのだが、それ以前の問題だった。
アトリエの近くの湖のほとりを歩いても、イワンは手すら繋ごうとしない。少し触れただけでも、条件反射のように引っ込めてしまう。
最初は絵描きだから手を傷つけたくないのだろうか、と思ったが、手を触れる事さえ拒否されるのは、自分自身を拒まれているようにも感じて辛くもある。
「手も繋いでくれないのね」と不貞腐れてみたが、「…ごめん」しおらしく俯く姿がまた愛おしく、つい許してしまう。気の強いブライズが彼女だったら、しっかりしろと背中をどついているんじゃないか。
無論こんな事で彼を嫌いになる訳などなかったが、いつか小説で読んだような甘い恋人同士のような関係に憧れがないかと言えば嘘になる。今はただ距離が近いようで遠い、それ以上の関係にはなり得ない、兄妹のような感覚でしかなかった。
(ブライズに相談しようかな…でも、ひやかされるからやめておこう)
なんとなくライバルでもある彼女には、羨むほどの素敵なカップルになってから彼を紹介したかった。今のままだと、「貴女に女としての魅力が無いんじゃない?」などと厭味を言われてしまいそうだ。
経験がないから、否定が出来ないのが更に良くない。
………
『思い切ってみたらどう。年上だからかしら。シュニキスもきっと遠慮しているわ』
「流石ね、メルヴェイユ…産まれたときから私を知っているだけあるわ」
『そりゃ、何でも解ってるわ…もちろん、私だって男性と付き合った事はないわよ。でもね、分かるの。イワンは分かりやすすぎるほど、引っ込み思案で…だけど情熱的よ』
表情こそ変えないが、メルヴェイユは何かを悟るかのようにフフ、と笑って見せた。
「どうして分かるの」
『あなたは彼の絵を見た事があるでしょう』
「あるわ、何度も」
『情熱のない人が、あんな絵を描けるものかしら。写実的とは程遠いけど、そうね…』
透き通った目でシュニキスを見る。気がする。
『彼の絵は、愛そのものなのよ』
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