第百八頁 二度目の哀悼 (trois)
イワンのアトリエは、シュニキスの家や学校がある町の少し郊外にある湖の傍にあった。
意外にも近所なのに、彼女の家の周りとは全然雰囲気が違った。湖が近いからか、少し湿った空気となんとも言えない解放感に襲われそうになった。
「いい所」
「近くにお店もないし、不便だけど…」
イワンはボロボロの自転車を壁に立てかけると、
「結構気に入ってるよ」
湖に目をやり、少し微笑んで見せた。
こういったちょっとした微笑みなんかも、これ見よがしさが全くない。年下の少女の前で思うままに格好つける事もせず…いや、出来ないのだろう。背伸びもしない平凡な青年の姿は、当たり前のように、風と太陽のままにキラキラ光る小さな湖にピッタリだった。
イワンのアトリエは狭かった。アトリエといえばもうちょっとだだっ広い部屋の真ん中にキャンパスがあって…とシュニキスは想像していたが、ここは彼のほかにひとり、頑張ってもあともう一人入るのが精一杯だ。
「狭いだろう。それに、変な臭いもする」
イワンは小さく腕を広げて申し訳なさそうに笑う。
たしかに、ツンと鼻をつく絵の具の臭いは、慣れない人間が長時間いたら体調を崩しそうな程に強烈な存在感を放っていた。
ただ、シュニキスはこの狭っ苦しいアトリエに何やら言い知れぬ魅力を感じていた。
無駄が無いのである。部屋の中央を見つめる形で隅に置かれたキャンパスを中心に、パレットや絵筆、コーヒーカップを置くための小型テーブル、ありとあらゆるものが描き手の手の届く場所にあった。
それは決して無造作にそこに置かれているのではなく、しっかり計算し、隅々まで、時には角度まで拘って配置を決めているようであった。汽車を操縦する運転士のように、必要な物を必要な場所ね、すぐに手の届く場所へきっちり納めている。
キャンパスから手の届かない場所には、所狭しと完成した…いや、ほとんどが描きかけの絵が沢山立て掛けられている。
どうやら静物画の専門らしく、リンゴや皿、花などの絵が多かった。中にはほんの少しだけ絵の具を落として、何かを見限ったようにグチャグチャと塗り潰しただけのものもある。おそらく、最初の一手からして気に入らなかったのだ。
狭い部屋と計算された小物のコントラスト、何度も描き直され生まれては死んでいった絵達からは、不器用ながらも、その制限の中で、飾らずに精一杯足掻こうとするイワンの性格そのものを表していた。
このアトリエは、イワンだ。
「特に楽しいものでもないだろう」
「何を言うの、先生。とても素敵」
アトリエの中が珍しいという事も勿論だが、何よりもイワンという青年を体現するようなこの部屋に招いてくれた事が嬉しかった。
シュニキスは心から笑顔で部屋を隅々まで見渡したし、イワンもそれを見て安心できた。
「親からはね。反対されてるんだ」
「え?」
「人並みだけど、これでもいつか立派な絵描きになりたい。だけど、親は家のブドウ園を継いで欲しいんだってさ」
彼は絵筆をひとつ持つと、空中に聳え立てながら人事のように語った。
「ブドウ園も素敵。だけど…」
シュニキスは絵筆などには目もくれず、イワンの淋しそうな目を見つめて「私はね、ごめんなさい。絵の事は分からない」唐突に言った。
「でも、このアトリエは好き。先生そのものだもの…」
そこまで言って、シュニキスはしまったと思った。思った事をそのまま口に出したつもりだが、何だかとんでもない事をを告白してしまったという事に気付いてしまった。
「……ありがとう」
イワンはまた情けない顔で微笑んでみせた。気付いたのか気付いていないのか、軽い「ありがとう」だったので、シュニキスも少し安心した。
「親とは何度もケンカしたなぁ。感謝はしているし、両親のブドウ園は立派だ。でも、僕の人生なんだ。息子のやりたい事くらいやらせてほしい。だから決めたんだ」
「決めた?」
真剣な顔つきのイワンに、シュニキスは好奇心と共に聞いてみた。
「リンゴも描く。その辺の椅子やテーブルも描く」
「ええ、先生は静物画が得意なのね」
「でも…ブドウは絶対に描かない!僕が一人前になったら、両親に見せつけてやるんだ。本物よりも美味しそうな、最高のブドウの絵をね」
………
だめだ。
我慢ができない。
シュニキスは申し訳なく感じた。彼が真剣なのはわかっているのだ。
しかし。
「あ、あは、あははははははは!!!」
やってしまった。狭いアトリエの外を誰かが歩いていたら、狂人でも飼っているのではないかと怪しまれるほど、思いっきり笑ってしまった。
「ひどいな。何がおかしいんだい?真面目な話だよ」
「ご、ごめんなさい!ごめんなさいッッ!」
こういう所だ。普段は頼りなさそうにナヨナヨしているのに、美術とか、歴史とか、そしてこの自分の夢とか…ゆずれない、得意な場面になるとプライドをむき出して真剣になる。
でも、そうやって真面目になる様もどことなく不器用で…
ああ、私はきっと。
「あはは、や、やっぱり…好き。私、イワン先生が好き」
言ってしまった。
..........................
母の前や、ブライズなどの友人に話すときだけは、彼を先生と呼んだ。
それは二人の秘密だった。
家庭教師と生徒という間柄ながら、二人は恋に落ちた。
彼は彼女に教養を深めて素敵な女性になってほしかったし、彼女もまた、「いつか最高のブドウの絵を描く」という彼の夢を応援したかった。
悲しいかな、二人とも経験が全くない。イワンは時折、勉強中も難問を解けたシュニキスの長い金髪をさらりと撫でた。シュニキスは、ちょくちょくイワンのアトリエに行って、何をするでもなく隣にちょこんと座り、彼が絵筆をぎこちなくさばくのを見ていた。
二人はそれだけで十分だった。男女というにはあまりにもうぶで、はたから見れば何の面白みもない、極めて清純な付き合いだった。
ある日、シュニキスはいつかブライズに勧められた恋愛小説の真似事のように、イワンにキスをしてみようと言ったが、彼はそれを拒否した。嫌なのではなく、どうすれば良いか分からなかったのだ。
彼女はそれでも良かった。成人のくせに、顔を真っ赤にしてうつむくイワンが可愛くて、愛しくて仕方がなかった。
...................................................
「メルヴェイユ。私は幸せよ」
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