第百七頁 二度目の哀悼 (deux)

「お前から最初に仕掛けたのか」

「そうですわ。着ている服が気に入らなかったの。昔、苦手だった近所の犬と同じ色をしていて…その、つい思い出してしまいました。そうしたら、沸々と怒りが…」

「あのなぁ」

 整った髭とフランクな態度が特徴的だが、30代前半と思わしき男の教師は彼女の言葉に呆れながら天井を仰いだ。

 こんなもの明らかにでっち上げだ。理由にならない。

「先生、誰にだってトラウマはありますわ」

 だいいち、"彼女"の服はパステルの薄いパープルだ。そんな妙な色の犬がいてたまるか。

「もういい。これ以上騒ぎを起こすんじゃない。ブライズに謝って、今日はもう帰れ」


「ブライズさん…ごめんなさい!!」


 ……


「バカじゃないの…」

 まだ小雨が降る中、ブライズは傘も差さずに濡れながらシュニキスを睨みつけた。

「何がですか」

 高そうな、お洒落な傘をひとり差したシュニキスは素っ頓狂な顔をして訊き返す。

「いいえ、私が先にやりました!シュニキスさんは、私を庇ってくれているのです!…なんて馬鹿正直に言うとでも思っていたの」

 わざと上品に大袈裟にセリフを並べ、憎たらしく問いただす。

「全然」

 即答。

「意味がわかんないわ。何故そんな嘘をつくの。バカみたいに深々と謝りまでして!私に借りでも作りたいわけ!」

 立ち止まり、怒鳴った。

「ううん。早く帰りたかったから…」

「はぁっ…?」

 目を丸くしながらもブライズは考えた。

 シュニキスがあんなでっち上げをせず、ブライズがやりました、と話した場合彼女はどう出たか。

 きっと、モゴモゴと言葉につまり、くだらない言い訳を述べていたに違いない。ブライズだって不良というわけではない。自分の進学は大切だ。

 シュニキスはちょっと変な娘だ、と先生に認識されるだけで、すんなりと事が終わったのは、彼女の機転のお陰なのかもしれない。

「礼は言わないし、反省もしない。ただ…」

「?」

「あなたにちょっかいをかけるのは、もうやめるわ」

 ばつが悪そうに俯いて、ブライズは小声で伝えた。

「ありがとう!」

 シュニキスは満面の笑みで彼女に感謝を伝えた。


 それからというもの、ブライズとシュニキスはちょくちょく学校内で接触した。

 接触と言っても以前のような悪態ではなく、宿題を見せなさいよだとか、帰り道に気になるケーキ屋があるので一緒に行ってあげてもいいわとか、他愛もない女学生の会話だ。

 ブライズの性格上、物言いには少々トゲがあるがシュニキスはそんな事気にしなかった。

 元々ブライズはグループだけでなく、クラスのリーダー格であったので、最初は戸惑ったクラスメイト達も次第にシュニキスの周りに集まるようになっていた。まだ大人にもならない少女達の習性とは悲しいもので、リーダー格たるブライズが毛嫌いしているというなんとなくの雰囲気によって、自分達もシュニキスという少女が気に入らないのだ。と錯覚する。

 元々、シュニキスには不思議と自然に人を寄せ付ける魅力があった。育ちの良さからくる上品さと、それに抗う気持ちから生み出されたのか時折見せる大胆さ。砂糖とスパイスを混ぜたような個性は、クラスメイトにとって疎ましいものから憧れに変わりつつあった。

 もちろんそれはブライズとて例外では無かった。

 また、シュニキス本人はそういった環境の変化からも奢りを見せる事は無かった。謙虚になさい…大好きな母の言葉は、身体の一部のように彼女と共にあった。


 ………


「ごめんなさい、ブライズ。今日はすぐに帰らなきゃ」

 そそくさと、忙しなくも何かを楽しみにする子供のようにそわそわした態度でシュニキスは告げた。

「あら、帰りに一緒に本屋に寄ろうと思ったのに。箱入りのあんたはちょっと世間知らずな所があるから、教養のために本を選んであげよっかなと、ね」

「そんな事を言って、今日はあなたの好きな作家の新作の発売日ですわ。私にはお見通しですのよ」

 もう!と悔しがるブライズを尻目に、フフフと笑みを浮かべてシュニキスは教室を出た。


………


「この子ったら、先生が来るのが楽しみで一目散に学校から帰ってきたみたいよ」

「お、お母様ったら。私はそんな」

「息が上がっているわ、それに寄り道せずに帰る時間よりも更に少し早いもの」

 母の探偵のように意地悪な考察に顔を赤くしながらも、そんな事より挨拶しなければ、と彼女の頭はすぐに切り替わった。

「ごきげんよう、イワン先生。そ、その、私は決して」

 テーブルで、彼女の母に出された紅茶を啜っていたイワンという青年は慌ててカップを置き、立ち上がる。

「こ、こんにちはシュニキス。いや、その、転んで怪我しなくて良かった…」

 ひょろりと背が高いが華奢なイワン青年は、整っているくせに三枚目な表情によく似合う丸眼鏡をかけ直してかしこまった。なんとも素っ頓狂なコメントだ。


 彼はイワンといい、先週からシュニキスの家庭教師を務めている。歳は21になったばかりの、まだ若い学生だ。

 シュニキスは最初、家庭教師なんて!と拒否反応を示したが、イワンに一度会うとそのガチガチに固まった感情はみるみるうちに消し飛んだ。

 男としては少し正直すぎて頼りないその性格。彼女は面食いというわけではないが、ハの字に下がった眉毛や、細い鼻筋に象徴される、ちょっと平凡な顔も素敵だなと思った。

 しかし何より、教師としてはそのプライドをやんわりと表に出し、真剣にシュニキスと向き合った。分からないところは何度だって教えたし、同じミスをすればしっかり注意した。

 運動が苦手で、絵を描くのが好きなイワンの得意分野は美術と歴史で、数学などは少し不得手なようだった。イワンに教えられているかと思ったら、少し難問になると気付けば二人で頭を捻っていた。シュニキスにとってはそれが二人で協力しながら謎解きに挑戦しているようで、また楽しかった。


 シュニキスとイワンは、友達でも恋人でもない独特の雰囲気の中、親密さを深めていった。イワンは少し意地っ張りだが素直なシュニキスに勉強を教えるのが楽しかったし、シュニキスも少し頼りないイワンを時折からかいながら、時々美術史、世界史の豆知識に耳を傾けながら勉強する事が週に一度の楽しみになっていた。学校では教わらない、マニアックな蘊蓄を語るときのイワンの目はどんな時よりもキラキラと輝いていた。


「ねぇ、私先生の絵が見たい」

 彼が来るようになって2カ月ほど経ったが、そういえばシュニキスはイワンの絵をまだ見た事が無かった。

「そんな、先生だなんて。イワンでいいよ」

 頭を掻きながら照れ隠しに抗議するが、話を逸らさないでくださいねと彼女に釘を刺され、しぶしぶ彼のアトリエに彼女を招待する事にした。

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