第六十九頁 インソムニア 3

 身体が動かない。

 動かない、というと語弊がある。

 思うように動かない、と言った方が正しい。

 重いわけではなく、むしろ軽いのだが、軽すぎて思うように動かないと言った具合だ。説明がしづらい。

 説明できたところで、上手く話す事も出来ないので多分伝わらない。

 ただ、この感覚は妙に懐かしい感じがする。

 でも、いつの事だったっけ?覚えていない。ただ漠然と懐かしいと思う。


 視界はかすんでいてあまり良くない。ただ、目の前に誰かが立っているという感覚がある。

 見上げてみた。

 でもすぐに視界から消えてしまった。

 …そうじゃなくて。

 その人は倒れたんだ。

 なんで?


 好きなものが目の前にあったら、嫌いと言ってみたくなる。

 右に動くものがあったら、左に動かしてみたくなる。

 これは自分が、お父さんや、お母さんがそばに来た時にいつも変な感覚を覚えるのと関係があるのだろうか。

 それとも、"私くらいの人は"みんなそうなのだろうか。


 クルクル回るものが好きだ。


 どうやら"それ"が右にクルクル回ると、良くないらしい。

 左にクルクル回ると、良くない事と反対の事が起こるらしい。

 でも、それは右にクルクル回っているから…

 左にクルクル回してみたい。


 ちょっとやってみていい?

 クルクル。

 あっ。これ、けっこう軽い。私でも動かせる。

 クルクルクルクル。

 面白いと思う。

 クルクルクルクルクルクル。

 "彼"は嫌がってる。

 クルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクル。


「きゃっきゃっ!きゃはははは!」


 ……


「て、てめェいつのまに…!このガキ!"歯車"を逆に回すだとッ!?何故!何故それを……」

 悪魔ルアージュのメインの歯車が、彼の思惑とは真逆の方向にカラカラと回った。

 それも結構なスピードだ。この歯車は今まで何回転したのだろうか。これまでの回転数を取り戻すかのように、カラカラカラカラと逆に回った。

「きゃはははは!」

 今にも崩れようとする屋上の床。こんな場所に似つかわしくない人間。小さな人間、赤ん坊だ。まだ産まれて数ヶ月しか経っていないように見える赤ん坊が、ルアー樹の歯車を勢いよく回していた。

「その手を離せ!歯車を…歯車を逆に回すんじゃない!」

 大きな目玉しかないので表情こそ読めないが、ルアージュは確実に焦り、慌てふためいている。


 椿木どるの能力"サーチライト"は、彼女が中学生の時に命名された。しかし、能力自体は彼女が産まれた時から備わっていた。

 また言葉も理解しないうちに、側にいる人間の思っている事が分かった。


 椿木どるの幼い手によって、凄い勢いでルアージュの歯車が逆方向に回転すると同時に、床のひびがみるみるうちに消えていった。

 辺りを覆っていた、まるで何百年も先のディストピアのような、スモッグがかかっていたような霧が晴れた。


 老朽化し、崩壊寸前の廃ビルと化した病院は綺麗に元どおりになった。

「きゃっ!きゃっ!」

 椿木どるは無邪気に笑いながら、回転を止めた。

 この辺でいいかな、という具合に。

「ガキの姿のくせに…歯車を逆に回せば時間が戻ると何故知っていた…?誤算だったが…依然優勢に変わりなし!時間が戻ったおかげで俺の傷は回復したぞ!礼を言うぜクソガキ!」

 ルアージュに突き刺さっていた妖刀"朱蜻蛉"は抜け、傷が綺麗に塞がっていた。

 妖刀が床にカラン、と…

 落ちなかった。


「椿木殿…初めて会った時はつかみどころのない娘だと思っていたが…素晴らしく美しい、武士の精神の持ち主でござるな。こやつの後で癪だが、拙者からも礼を言おう」


 いつの間にか朱蜻蛉を拾い上げた桜野踊左衛門が、ルアージュの背後にいた。

 ルアージュ同様時間が戻ったおかげで、歯車の攻撃を受けグチャグチャに抉れていたはずの傷は消えていた。頭に矢が刺さっており、顔には血が流れていたが、ご存知これはデフォルトで、彼女の服装のようなものである。

「て、てめえいつの間に!クソッ!時間が戻ったから、てめえも…」

 ルアージュは無数の小型の歯車でまた全身を守ろうとした。

「死ねッ!もう一度ミンチに…」

 しかし、歯車の数は彼の本体を隠すにはあまりにも少なかった。ざっと最初の半分。

「貴様の歯車の半分は、先程拙者を通り抜けて遠くへぶっ飛んで行ったと記憶しているが…?おそらく病院の外でござる。貴様の能力はそんなに領域が広いのか?」

 大きな目玉の化け物は青ざめた……分からないが、おそらく。

「畜生ッ!数なんざ関係ねえ!死ねッ!」

「ハァッ!!」

 歯車の猛攻が始まるより先に、桜野の刀が素早く動いた。


「"南無重金斬撃<ナム・ヘヴィメタリック>"!!!」


 実際には無数の一振りの連続。しかし、化け物には彼女の剣が何本にも増えて見えた。時間を遅くする、などという技を彼が持っていれば良かったが…いや、時間を操作する悪魔の事だから、持っていたのかもしれない。

 しかし判断及ばず。既に遅かった。


「ッッッッギャアアアアアアーーーーーッッッッッッッッ!!!」

 無数に細かく切り刻まれ、どす黒い血が思い切り吹き出し…消滅した。

「武士は…"死ね"などとは言わぬ。何も言わぬ。残すのは"斬った"という結果だけでござる…」

 桜野は捨て台詞を吐き、刀を鞘に収めた。


 椿木どるも、老婆と化していた高木香奈も元に戻った。

「やー、なんか懐かしいというか、変な感じだったなあ。赤ちゃんの格好だけど、意識は今のまま、あって…というか悪魔の心も読めるんだ、結局。まだまだ謎だなあ私の"サーチライト"は…」

 意識が朦朧としているが、確実に目を覚ましていた高木香奈を支えながら呑気に感想を述べるどる。

「改めて礼を言うでござる、椿木殿。高木殿も…助かって良かった」

 先ほどの鬼のような形相とは真逆の、優しい笑顔の桜野がそこにいた。

「い、いえいえそんな…帰ろっか、桜野さん!高木さん……あれ?」

 椿木どるは気付いた。大変な事に。

 ある意味、悪魔に襲われるに匹敵する、いや、それよりも恐ろしい事実かもしれない。

「椿木殿…その…なんと言うか…でござるな」

 柄にもなく桜野が顔を赤くして目を背けながら、言った。

「あ……あの…これ……………」

 桜野はコホン、と照れ隠しに咳払いをした。

「中々いい身体つきをしているでござるな、というか…」

 どるが赤ん坊になった際の服は、高木香奈の病室だ。

 屋上、まさに人の居ない場所であるのが不幸中の幸い。

 椿木どるは一糸纏わず、白い肌を晒して立っていた。

「わあああああああーーーーーーッッッッッッッッ!!!!!!」

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