第六十八頁 インソムニア 2

「降りて来い化け物!この妖刀の鯖にしてくれる!」

 桜野踊左衛門の表情は、普段ワクワクとらーめん屋めぐりをする無邪気なものとは違っていた。顔半分を血に覆われた鋭い目は、その先の下衆野郎を真っ直ぐ突き刺すように睨みつけていた。

「ゴーストォォ〜。死んでるくせに生意気な目付きだねえ。俺が正々堂々と戦うタマに見えるか?ククククク、いかにもって見てくれだろう?」

 カラカラと、本体の目玉の周りを浮遊する歯車が回る。挑発しているのだ。有機的で不気味な大目玉と無機質な歯車の組合せは確かに異様で醜く、これが正々堂々やってくると逆に戸惑う。

「ところでてめえーゴーストのくせに実体があるな?聞いた事があるぜ、この世に執着しすぎるゴーストは人間同様に実体化する!刺されればケガするし…」

 ふいに天井がガラガラと崩れ落ちた。蛍光灯が桜野目掛けて落下し、間一髪刀で跳ね除けた。身体は無意識に後ずさりし、椿木どると高木香奈を守ろうとしていた。

「押しつぶされれば死ぬ…いや、成仏、かな?ククククク!」

 悪魔ルアージュはまた姿を消した。

 ここは二階だ。病院は8階建てであり、上から崩れてくれば生き埋め必至。下手に暴れると崩壊を進める事になり、自分以上に2人の無事は保障されない。


(2人は…何としても守らねばならぬでござる)


 桜野は2人を抱え、安全な場所を探した。

「マ〜〜」

 赤ん坊のどるが言葉を発した。腹が減っているのか分からないが、反射的に桜野は「よしよし…」と彼女をあやした。こうやって見ると既に高校生のときの面影もある、とても愛らしい顔をしている。子供は嫌いではない。桜野は結婚もせず、子を持つ事もなく死んだのを少しだけ後悔した。

 ほんの少し。


 病院内には、今にも朽ち果てて崩壊が始まっている建物、その中を訳もわからず徘徊する老人と赤ん坊達という世にも恐ろしい光景が展開されている。

 悪魔ルアージュは姿を現さず、能力だけを駆使して自分達を始末しようとしている。恐らく、奴を倒せばこの"時間が奪われた現象"は解除されるだろう。

 "CATALOGUE"の暗号の秘密を持っているのは高木香奈、彼女の思考を読み取れる椿木どる。両者がこの状態では解読はままならないし、何より元々無関係な2人の命をここで消してはいけない。奴を倒せるのは桜野しかいないし、絶対に勝たなければならないという事を本人も自覚していた。


(急いで建物から脱出したい所でござるが…)

 桜野は窓の外を見た。病院の周りには区役所であるとか、雑居ビルや民家が建ち並んでいるのが見える。何の変哲もないいつもの星凛の町。

 この事から、この建物つまり病院だけがルアージュの能力の領域内にある。要するに、この建物だけが"時間を奪われた状態で"存在している事になる。だから、この建物から出られれば彼女らは元に戻る。

(しかし)

 桜野が敵ならどうするか。

 既に今桜野が考えた事を、敵も予測しているだろう。確実にエントランスで待ち構えている。ここから30メートル先にある階段を降りて、1階のエントランスから外に出る際に何らかの罠が待ち構えている。


 桜野は、2人を抱えて上に向かった。エレベーターは確実に使い物にならないから、階段だ。

 老婆と赤子とはいえ担いでいくには中々骨が折れるが、この程度でへこたれる鍛錬の仕方はしていない。


 桜野は屋上に出た。床にはそこかしこにひびが入り、足を踏みしめる度にミシミシと嫌な音が鳴った。

 老婆と赤ん坊を比較的ヒビの少ない場所に置き、刀を構えて敵に備える。

「出てくるがよい、悪魔よ!」

 ルアージュの気配は無い。

 桜野は2人に背を向けながら、刀を翳し少しずつ前進した。

 ふいに、屋上の端からキンッという金属音がした。

「そこか!」

 桜野は音のした方へ反射的に走ろうとしたが、そこは死んでも武士。走るより先に、"念の為"2人の方に向き直った。

 が、遅かった。

「ギャハハハハ!さすがだなあ、ゴースト!サムライというのか?弱者を守る本能は死んでも健在という事か!」

 ルアージュはまさに2人の至近距離に居た。彼の本体である巨大な目玉の周りを浮遊し回転する歯車が桜野の目に入った。

 回転は本来の歯車のようにゆっくりではない。車のモーターのように高速で回転していた。刃物でこそないが、これらが2人に少しでも接触すれば2人は粉々になり、最年少と最年長の人間の死体がミンチのように混ざり合うだろう。

 能力で殺す事はできないから、物理的にとどめを刺そうというのだ。

「さあどうするかなゴースト!"CATALOGUE"の解読から手を引いて今すぐ成仏しな!そうすればこいつらは生かしておいてやるよ。こいつらに解読が出来たとして無意味だろうからな」

 瞬間。

 ギィン、という鈍い金属音と共にひとつの小さな歯車が弾き飛ばされた。

「げっ!て、てめェ!」

「妖刀・朱蜻蛉(あかとんぼ)…鉄風鋭斬(てっぷうえいざん)」

 桜野の武器は刀であるが、何も接近戦のみが能ではない。彼女が目にも止まらぬスピードで振るう剣は空気の塊を作り出し、弾丸のような速度で相手を切り裂く。まさに"鉄風"が鋭くなって斬るといった所である。

「拙者を怒らせるなよ、低俗な悪魔が…言ったはずでござる。拙者が最も憎むのは…」

「何とでも抜かせ!てめぇらはまとめて極刑だッ!"冷たい太陽(フリーズサン)"ッ!」

 ルアージュの残る歯車の半分が桜野を、半分が椿木どると高木香奈を襲う。


 グチャッ、と肉を裂く嫌な音が鳴った。


「同志を守る、敵も斬る…両方やらなくてはならないのが武士の辛いところでござる…な」

「グギギ……ギ……」

 ルアージュの目玉には、綺麗な垂直のように妖刀"赤蜻蛉"が突き刺されていた。

「てめぇ…姿を……一瞬……」

 桜野は姿を一瞬だけ"透過"させることができる。結果的に桜野に向かって飛んだ歯車は桜野を傷つける事は無く、あさっての方向へ飛ぶ事となった。

「哀しいかな…所詮は幽霊なので…ござる…」

 2人を庇うように仁王立ちになり、桜野は全身に残りの歯車の猛攻を受けていた。広げた両腕や彼女を支える腹、肉、骨はグズグズに削がれ、真っ赤な血とともにその破片がボタボタとコンクリートの床に落ちた。

 思い切り食いしばった歯の間から、かすかに彼女の息がヒューヒューと漏れていた。


 桜野はその場にドサリと倒れ、動かなくなった。所詮は幽霊…しかし彼女が実体のある、ダメージも受ける普通の幽霊でない事は硬い床を染める血液が物語っていた。


「ギィ、イ………イイイイイヤアアアアアアアアアア!!!!!!!!」

 悪魔ルアージュは断末魔と共に自らをすっぽり囲む一際大きな歯車をゆっくりと回転させた。

 この世のものとは思えない叫びと共に、妖刀に突き刺された部分からブシュ、ブシュとどす黒い血液が吹き出る。

 桜野達の足場がミシミシ音を立て、いよいよ崩れんとする。

「お、俺は死ぬかもしれねえが…お前らも道連れだ……時間は…時間は加速する!"仕組まれた時間<インソムニア>"ッ!!死ね!この病院もろと…も…!」


 数カ所をミンチにされた身体を横たえ、うつ伏せになった桜野の意識は次第に遠のいていった。ただ、ガラガラと建物が崩れる音がかすかに聴こえた。

 ルアージュの最期の力で建物の老朽化が加速し、崩れていく音だった。


 桜野の身体は少しずつ薄くなっていた。

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