第八頁 パンク作家と嘆きのカイン 4

 ドスッ!!

 不自然にワンテンポ遅れて振り下ろされた包丁は、先程まで妖怪の少女が寝ていた薄手の枕に突き立てられた。

 そこからすり抜けるかのように、寝室から玄関にかけてトトトッと走る黒猫が一匹。猫には流石にアパートの玄関のドアを開ける力は無いので、玄関手前で"変身"を解き、勢いよくドアを開けて外に飛び出した。階段を降り、エントラスを駆け抜け、真正面の美術館…今はビニールシートが貼り付けて情けない姿になっている…を横目に通りへ向かって走る。一瞬でも猫に変身した体力消耗もあって、いよいよ身体が重い。今にも倒れそうだが、とにかく逃げなければ。あの先生…街田という男、やはりおかしい。無愛想な世捨て人のような雰囲気があったが優しかったと思っていた。悲しかった。

 しかし同時に、あの時感じた違和感についてサシは考察をせずに居られなかった。彼が振り下ろす包丁はまるでサシがこうやって逃げ出すのを待っていたかのように、ワンテンポ遅れて振り下ろされた。偶然か、何か躊躇する事があったのか…どういうつもりで攻撃してきたのか読み取れない、奇妙な違和感があった。

 ふと曲がり角に目をやった時、何かが視界の隅に入った。角には何かの事務所になっている小さなビルがある。その上に何やら鳥のような黒い物体が動くのをサシの猫目は見逃さなかった。今朝、美術館の上にいた何か…間違いなかった。多分あれは鳥ではないし、おそらく人間でもない。妖怪としての直感がそう判断した。

 それと同時に、ただでさえ動きが鈍っていたサシの身体は今まで以上に重くなる。吐き気がこみあげるのを必死に堪え、涙目で、汗だくになりながら黒い物が去る方向を目指した。どうせ行き場所はもうない。よく分からないがその黒い物を追う事にした。


 街田康助は戸惑っていた。一体自分が何をしたのか、いや、何故あんな事をしたのか。「眠っているサシに包丁を振りかざし、起きると同時に振り下ろすとどうなるだろう」という好奇心のような感情があの時あった。無論、本当に刺すつもりは無かった。街田は好き好んで無駄な冗談を言ったり、やったりする男ではない。ましてやこのように物騒な事など以ての外。出て行ったサシを追わなければ。頭には昨日のバット男や今朝のガラス割り男が横切った。自分自身の行動もそうだ。町で何か不可解な事が起きている。


「はあ…はあ………うっ、うぅぅっ……」

 こみあげる吐き気、頭痛、疲労、重い身体。ショック。悲しみ。立っていられない。このまま死んでしまうのではないかと思えるほどだった。いつのまにかサシは例の黒い物を追って、街田の自宅から駅の間にある大通りまで来ていた。横断歩道を渡り少しすれば駅前に出るが…黒い物はどこにも見えなかった。見失ってしまった。

「あ……」

 誰かに肩を掴まれた。街田康助だ。自分を追ってここまで来たのだ。先程の包丁はもう持っていないが、サシは焦る。

「い、嫌っ…!」

 振り解こうとするが、街田は両肩をガシッと掴みサシの身体を向かい合わせに直らせた。

「落ち着け、サシ。先程は悪かった。"魔が差した"のだ。本当に刺すつもりは無かった」

「ハァ…ハァ……魔が差したって…先生まで、そんな……え…?」

 サシはぼんやり靄がかかりつつある頭で理解したようだ。

「気付いたか。昨日のバット男と、今朝のガラス割り、先程の小生の共通点が。何かがおかしい」

 街田はサシが自分に対して怯えきっている事は理解していた。超苦手な事だったが、なるだけ優しく冷静に、怖がらせないように話してみた。

「いいか。小生はお前を刺すつもりは最初から無かった。ただ、それをしたらどうなるだろうという妙な感覚だけがあったのだ。茶を顔に零したり、地図を被せたりもそうだ。スランプがどうとかではない。無意識というのか…その瞬間だけ、誰かに心を支配…いや、少しだけ動かされているような感覚があった」

 確かにあのワンテンポ遅れて振り下ろされた包丁。サシが避けたというよりは、サシが避けたから振り下ろされたと言った方が正しかった。街田は最初から刺すつもりは無かった。

 その時、街田はふと何かに気付いた。というよりは何かか視界に入った。

 横断歩道の向こう、交番と隣り合わせになった雑居ビルの上からこちらを見下ろす何か。よく見えないが、全身黒ずくめで、頭には箒を逆さにしたかのようなトゲトゲしたものが見える。こちらの方を見ているのかいないのか、マントのような衣服が風に靡いて異様な雰囲気を放っていた。

「おい、あれ」

 街田が指差した方向をサシは見た。瞬間、サシは地面に膝をつきその場に崩れ落ちた。

「あ……あぁぁあ……あぁ!」

 俯き、両腕で二の腕を抱く形でガタガタと震えている。地面と向き合う目からは涙がボロボロと零れ落ちていた。

「どうした…?何だお前、凄い熱で…」

 サシの身体は重病人のように熱くなっている。サシ自身もわかっていた。あの黒い何かを見てから、自分の体調はみるみると悪くなっていた。何か見てはいけない物を見てしまったかのように。

 そして同時にあれが何であるのかを理解した。しなければよかったし、本当は理解などしてはいけなかった。

「あ……あれは、だ………めです、見て……は……………」

「あれってのはあの上の…ん?」

 街田がもう一度空に目をやったその時、黒い何かはビルの上から姿を消していた。その時だ。


 ストンと勢いのよい音が街田達のすぐ側、数メートル先に響いた。一瞬で、ビルの上の何かがこちらに飛んで降りてきたという事がすぐに分かった。

 サシは疲労がピークに達したのか、荒い呼吸をしながら地面に這いつくばってしまっていた。

 ビルから飛び降り地面に着地したのは男。端正な顔立ちの青年だ。街田に匹敵する長身、更にその数値を伸ばすかのように、どこぞのメタルバンドのように真っ直ぐに逆立った髪。シルクハットのようなものを被っているが、その天井を突き破る形で生えている。体は真っ黒な衣装、所謂マントに覆われていた。あんな場所から飛び降りて無傷である事から、人間ではない事は容易に理解できた。

 やれやれ、またか。街田はなんとなく覚悟を決めた。

 男は街田達の方を見る事もなく、着地した地面を見つめていた。地面に膝をつき、倒れこんだサシを抱きかかえた街田はじっと様子を伺う。


「あ……ああ……あ………あ……くま………」

 街田は力なく呟くサシの言葉を逃さなかった。

 こいつ今、悪魔と言ったのか。

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