第七頁 パンク作家と嘆きのカイン 3

 吐き気がする。頭もちょっと痛い。妖怪の少女は朝の喧騒で一度目を覚まし、二度寝してから昼過ぎまで起き上がれなかった。熱はないようだが、身体全体がだるくとても動く気にならなかった。重いものをずしんと身体に乗せられている気分だった。

「妖怪も体調を崩すんだな」

 街田が適当な感想を述べながら枕元に水を置く。

「妖怪も生き物ですからね…基本的には未確認生物みたいなもので…」

 何ともキレのない返しだが勉強になった。使い道は皆無だが。

 街田は妖怪がくたばっている間に執筆を続ける事とした。書斎のデスクの正面には窓がある。朝の美術館が見えた窓がそれだ。美術館のウィンドウには、無残にもどこから調達したのかビニールシートが貼られていた。作業服のあの犯人が弁償してくれるまでの辛抱なのであろう。しかし、何だったのだろうか。


 小説家に限らず創作を行う、特に生業とする物にとってスランプは付き物である。正直なところを述べると街田は軽いスランプだった。ある程度まで書いたストーリーの続きが中々思い浮かばないのである。

 街田は推敲はほどほどに殆ど呼吸をするように小説を書く。スランプは数日前にサシと出会い、部屋に住み着いた辺りから続いているが、これは定期的にある事なのでサシが原因という訳ではないと街田も認識していた。特に不幸らしい不幸も起こらず、仕事に影響するには至らないと思っていた。

 とりあえずは息抜きに限る。街田は執筆をパソコンで行っているがインターネットは見ない(つなげていない)ので、息抜きといえば茶を飲みながら床にあぐらをかいて日本地図を広げる事だった。地図は観るたびに印象が違い、ここはこうなっていたのか、この町の面積は意外と大きかった、南側にあると思っていたら思ったより東側だった。など毎度様々な違った発見がある。適当な場所を決めて物語の舞台にする事もあった。その際は決まってコンビニが見世物小屋になったり、線路が反発勢力の縄張りの境界線になったりなど勝手な脚色が多かったが、街田の書くストーリーの舞台はこのようにして決められた事が結構多い。

 ふと思い立って街田は広げた地図の両端を持ち立ち上がった。ダイニングを抜けて、サシが這いつくばっている寝室に入る。猫は落ち着いたのか、目を閉じて居眠りでもしているようだった。彼女の猫目は、こうやって閉じていると二本の並んだ線になり、顔の上半分を横切る形になる。異形ながらも寝顔は可愛らしいものがあった。

 街田はいたずら心に両手に持った地図をファサッとサシの顔面めがけて落下させた。

「わっぷ!ちょ!?何するんですか!?」

 完全には眠っていなかったらしく、サシは飛び起きて抗議する。

「む、すまん」

 街田は一言詫びを入れると書斎へ戻った。普段冗談など言ったりやったりする男ではないだけにサシは訳が分からなかったが、ああ、偏屈な人だから執筆に困ると変な行動に出る事もありますよね…と鋭い猫の感性で理解していた。


 冷たい茶を飲みながら街田は考える。ここから主人公をどう動かすか。読者の理解など二の次で、街田自身が納得できるか否か。それが大前提だった。それでもこの置いてけぼりにされる感じを絶賛する読者が一定数おり、飛ぶようにとは行かないが生活に困らない程度には売れる。マゾな奴もいるんだな、と街田は考えていた。

 冷たい茶が無くなったので冷蔵庫に立つ。ボトルを取り出して、冷やしていた茶を湯飲みに注ぐ。

「うーん、どうするかな…」

 呟きつつおもむろに湯飲みに汲んだ茶を持ってダイニングをうろうろする。気づけばサシの寝ている寝室に再度入り込んだ。今度こそ眠っているのだろうか。なんとなく、手に持った湯飲みをちょうどサシの顔の真上1メートルほどの位置に持ってくる。ゆっくりと湯飲みを傾けると…

「ひゃっっ!!!!つ、冷たぁぁぁ!!!!!!!」

 当然、中の冷たいものはサシの顔にトトトッと落下しその寝顔を濡らす。なるほど当然ながら予想通り飛び起きる猫娘。

「ちょ、せ、先生!?何なんですか!!何のつもりなんですか!?」

「や、すまん。ちょっと出来心だ」

「出来心って…」

 だめだ、気分が悪化してきた。出来心?小説の内容について考え込んでる時の先生ってこんななのか。ううっと呻いて身体を横に向ける。

「もう絶対の絶対にやめてくださいね。私…しんどいんですから…ホントに……」

「わかった。すまない。もうしないと誓う」

 素直に謝罪して部屋へ戻る街田。謝るなら最初っからやらなければいいのに。子供じゃあるまいし…。ふてくされながら、今度こそちゃんと眠ろうと心に決めるサシ。

 身体の調子が悪いと色々と悪い方向に考えてしまうものであり、サシとて例外では無かった。このままずっとこの人のこの家に居られるものなのか。自分では自分の事をただの無力な猫娘だと思っているが、もしかすると本当は魑魅魍魎も震え上がるような危険な存在なのでは。そんな少年漫画みたいな展開は無いとは思うが、一刻も早く記憶を取り戻すべきなのは事実。先生の憑き物…あの犬の謎も解かなくては。私は何をするべきなのか。何を優先して…ああそういえば、先生は本当にひどい。何が出来心なんだろう。出来心で体調が悪くて眠ってる私に紙をかぶせたり、お茶をこぼしたりして遊ぶなんて…出来心……昨日のバットの人とか、今朝のガラス割った人みたいなこと…言……たな………………

 そこまで考えてサシはうとうとと眠りに落ちた。外はすでに日が傾いており少し薄暗い。しばしの静寂が街田家を包んだ。サシは夢の中で…特に鮮明な夢では無かったが…なんとなく身体が重いなと感じていた。せめて夢の中でだけは元気にお花畑を駆け抜けていたかったのだが、そうはさせてくれないようだ。特に肩。何かがのし掛かっているような、上から押さえつけられているような…

 瞬間。目を覚ましたサシは誰かに上から片方の肩を押さえつけられている事に気づいた。誰かとは誰か。

 この家には自分と、街田しかいない。

 左手で肩を抑えられ、もう片方の右手には…台所から持ってきたのか、逆さに、小指側に刃先が来るように持った包丁がまさにサシに向かって振り下ろされようとしていた。眼鏡の奥の目は血走っており…と思いきや意外にもいつも通り冷静な眼差しで、命中させんとするサシの首元を見下ろしていた。

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