第12話 電話

 体が痛い。

 座っていても、立っていても体が痛かった。朝といっても昼近い時間に、いったん起きてシャワーを浴びたが、気だるさに勝てず涼は再びベッドに戻っていた。

 昨日は日曜であるのをいいことに、本当に一日中、是俊に抱かれていた。あんな無理をしたのは、一体何年ぶりだっただろう。二日前、朝方抱かれたのさえ久しぶりだったのに。

 是俊は、最近少し変わった。自分のベッドで寝返りをうちながら、涼は思った。どう変わったかときかれると説明するのは難しかったが、何かが変わったことだけはわかる。たぶん、是俊一人が、ということではなく、自分と是俊の、二人の関係が変化し始めているのだろう。

 今の是俊を怖いと思うことはなくなった。たまに意地悪くらいはするが、是俊は基本的に優しい人間だ。これまでたくさん助けてくれたし、たくさん愛してくれた。本人は何の気もないのだろう。けれどたくさんのことを教え、与えてもくれた。普段伝えることはなかったが、涼は是俊に心から感謝していた。

 真昼の暗がりで、スマホが震え、画面が光を放つ。LINEは、是俊からだった。

 『起きたか?』

 たった一言だったが、自分の体調を気にかけてくれたのだとわかる。二時過ぎにこんなLINEを送ってくることも、是俊が自分を理解してくれている一端だと涼は知っていた。

 『今起きた』

 それだけを返すと、涼はスマホを手放しうつ伏せになった。

 シャワーを浴びてもまだ、是俊の香りが体に染み付いている。香水も、肌の香りも、髪の香りも、是俊という存在の香りが染み付いている。昨日は一度もこちらのベッドは使わなかった。それなのに今も、涼は是俊の香りに抱かれている。

 今まで生きてきた中で、一番長い時間をともにした相手。一番、自分を理解してくれた相手。一番多く触れ合って、一番……好きだった。

 今も、その気持ちに変わりはないと思う。是俊より、大切だと思える存在は、涼にはいない。母親も、離婚したきり会っていない父も、新しい父親も異父母兄妹も……誰も、自分の魂には触れていない。是俊は、誰より家族だった。少なくとも、涼の中で家族と思える存在は、是俊だけだった。

 本当の家族であれ、恋人であれ、二つの存在がここまで親密になることは可能なのだろうか。他の誰とも違う、特別で、だからこそ、もう特別ではなくなった存在。恋愛感情ではなく、もっと深いところで、互いの存在を知っている。だから、なのか。是俊に抱かれても、何も感じなかった。体を重ねることに抵抗はない。しかし嬉しいわけでも、幸せを感じるわけでもない。かつてのように是俊に抱かれることを誇りに思うような感覚も、もうない。

 それは、どちらかが困っていたら何も考えずに手を貸す、その程度のことだった。そんなことは今さらで、あってもなくても何も変わらないと互いに気付いていた。

 改めてそう認めると、喪失感にも似た虚しさを覚える。

 慣れたのでも、飽きたのでもない。そんな簡単なことではなくて、もっとずっと根本的な問題なのだろう。涼は毛布の間でわずかに顔を顰め、それから再び着信を知らせたスマホを見た。

 『夕飯、どうする?』

 こんな時間から、と少しだけ笑ってしまった。是俊もさりげなさを装って、精一杯気を遣っている……。それが感じられると、また少し切なくなった。涼はすぐに返信せず、スマホを枕元に置いた。

 昨日のことをゆっくりと思い返す。どうして是俊がそんなことをする気になったのか、涼にはわからなかった。

 ただ、涼、と、是俊が確かめるように名前を呼ぶことが不思議だった。是俊は、何かにとりつかれた様な情熱で何度も涼を求めたが、どれだけ繰り返しても満たされた様子はなかった。

 どうして、と問いかけて涼は何度思いとどまったか。

 交わし慣れたキスと愛撫の合間には、是俊ではない男の顔が浮かんだ。

 涼がもう、指一本動かせない、というほど疲れきった頃には、夕方近い時刻になっていた。

 「疲れたか?」

 是俊は涼の髪を撫でながら囁いた。声を出すことも億劫で、涼は本のわずか、頷いただけだった。

 ちゅっと、小さな音をたて、是俊が涼の額にキスをした。母親が子供にするような、慈愛さえ感じさせるような、そんな行為。髪を撫でて抱き寄せ、優しく手を繋ぐ。

 そんなことは、決してしない是俊だったのに……どうして、と心の中で問いかけながら、涼は意識を手放した。

 「……」

 何度目になるのか、涼はまた寝返りを打った。そしてふと何かを決意したようにベッドをおり、クローゼットを開ける。もちろん動くたびに体はきしんだが、麻痺したような時間はかえって、涼に衝動という力を与えた。

 あった……デニムのポケットから見つけ出したのは、小さな紙切れ。広げると、090から始まる電話番号だけが記されている。

 涼の胸が高鳴る。それだけでは何の意味も価値もない数字が、自分と、誰かを結んでいるのだと思うと、端正な数字が魔法の呪文のようにさえ思えた。

 ベッドに腰を下ろし、涼はじっと紙切れに並ぶ数字を見つめた。

 「気が向いたらでいい。連絡して欲しい」

 そう言った篠吹の声。真摯で穏やかな眼差し。

 自分を、好きだと囁いた声が蘇る。

 涼は意を決して、枕元のスマホを手にした。そして、初めてのナンバーを順に押す。つながらなければいい、どこかでそう思っていた。そして、つながれば……運命なんて、自分には大それた言葉を信じたくなるだろう。

 紙に書かれていた全ての番号を押し、涼はゆっくりと通話ボタンに触れた。二時半。普通の会社員ならば、こんな時間の私用電話には応じないかもしれない。

 それもいい……涼は、目を閉じた。耳元で、電子音が響いた。

 「もしもし?」

 スリーコールで電子音は深みのある男の声に変わった。思いもよらない相手の素早い反応に、涼は言葉を探せなかった。心の準備が出来ていなかった、というべきか。相手は、見知らぬ番号からの電話に戸惑っているかもしれない。何か、言わなければ、涼は必要以上に焦っては言葉を逃した。

 電話越し

 「涼くん、かな?」

 篠吹は沈黙の相手を言い当てた。

 「あ……この前の、お礼、言いたくて……」

 やっとのことで涼が捕まえた言葉に、篠吹が笑う気配がした。出先なのか、車のクラクションが遠くに聞こえる。

 「そんなこと、別によかったのに……」

 篠吹は、彼の穏やかな微笑を連想させる優しげな声でそう言った。そして

 「連絡、ありがとう」

 「いえ……」

 訳もなく頬が熱くなるのを感じ、涼はスマホを握る指に力を込めた。

 「今、どこに?」

 篠吹はきいた。

 「家、です」

 そう、と遠い声が返る。篠吹は一瞬沈黙し、

 「今、外なんだ」

 と、早口に言った。あるいは迷惑だったのかも知れないと、涼は不意に思った。全ては、遊びなれていそうな篠吹の気まぐれで、舞い上がっていたのは自分一人だったのではないかと思い至る。しかし

 「すみません。もう」

 切りますね、そう言いかけた涼を篠吹は遮った。

 「今夜、会えるかな?無理にとは言わない。もし、君さえよければ」

 「あ、はい」

 飛びつくような反応は、涼の意思とは別の場所から。それでも、恥ずかしさも、後悔もなかった。篠吹が、電話越しに微笑むのが気配でわかる。

 「それじゃ、七時に……リュニオンの前でいい?」

 「はい……あの、初めて会ったバーですよね?」

 そうだよ、心なしか嬉しそうな声で篠吹は応じ、ゆっくりと、それじゃあ、またと告げた。

 「はい」

 電話はそれで終わりだった。

 ぐったりと背中からベッドに倒れ込み、涼は目を閉じた。ほんの短い電話に、ひどく疲れた。それでも、いつにない、胸の高まりと幸福感が余韻として残った。

 『夕飯いらない 後で出かける』

 そう綴った涼のLINEに、是俊からの返事はなかった。

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