第11話 片思い
「如さん、いる?」
そう言って秘書室を覗き込んだ是俊は、一番近くにいた女性社員に声をかけ、如を呼び出してもらった。
「どうしたの?」
女性陣の好奇の眼差しから逃れるように、如は是俊を廊下に追いやった。
「昼、まだなら一緒にどうかなと思って」
「まだだけど……」
如が是俊の部屋に泊まったのは先週末のことだった。それから偶然にも二人が直接顔を合わせる機会はなかった。如は、あるいは是俊はもう、自分に親しくは接してこないかもしれないと考えていたので突然の訪問には少なからず驚いた。
「なら、行こうぜ」
是俊は何を思うのか、如に背を向けてすぐに歩き始めた。
「如!」
是俊が角を曲がると、背後の廊下から女性の声がした。何事かと戻ってみると、如を一人の女子社員が呼び止めているところに出くわす。彼女は少し先を歩いていた是俊の存在に気付かなかったらしく、その姿を見つけるとはっとしたように如と是俊を見比べた。
如は一瞬だけ咎めるような視線を彼女に向けた。
「ごめん。後でも、いいかな」
あくまで同じ会社のメンバーに接するような、丁寧で柔らかい口調。すみません、と軽く会釈して如を呼び捨てにした女性はその場を去った。
エレベーターホールにつくと、さっきのは彼女かと是俊が如に小声で聞いた。
「そう、かな」
とぼけるわけでもなく、如はそう答えた。そして是俊に聞かれる前に
「マーケの
彼女の名を告げた。
「ああ」
社内でも美人として知られている彼女は、目鼻立ちのはっきりした気の強そうな女性だった。女性としては長身で、スタイルもよく目立つが、所詮化粧で作った顔と陰口を叩かれているのを是俊は耳にしたことがあった。
「意外だった?」
如はエレベーターに乗り込むと、横目で是俊を見ながら笑った。
「何が?」
「会社の子と付き合ってたこととか、彼女だったこととか」
そうだな、と是俊は階数を示すランプを見つめながら呟いた。
「いつから?」
「最近だよ」
「ああいうの好きなんだ」
是俊はゆっくりと如に目を向けた。皮肉に聞こえないように言葉を選んだつもりだったが、出てきたのはどこか突き放すようにも聞こえる声だった。
如は何も言い返さず、口元だけで笑った。
如には彼女がいる、という事実が自分にとってどれほどショックだったかを是俊は時間をかけて自覚した。如は確かに、好きな相手はいなかったが、恋人はいた、と言っていた。容姿といい性格といい、今現在恋人がいたとしても何の不思議もなかったのに、何故か如に恋人はいないと思い込んでいた。そんな話は、そう言えば一度もしたことがなかった。自分は如の何も知らなかったと是俊は打ちのめされたような気持ちになった。
(どうして)
何に対してかひどく動揺している自分にさらにうろたえて、是俊は如から顔を背けた。見るべき物のないエレベーターの中で不自然に視線をさ迷わせる。
「こないだは、ごめんね」
突然思い出したように如が言った。
何が、とも聞けず是俊が黙っていると
「六時過ぎに目が覚めたから、帰ろうと思ったんだ。リビングに、涼くんがいたから、中から鍵閉めてもらって……」
「ああ、言ってたな、そんなこと」
是俊は平常心を装ってそう応じたが、涼との情事の声が聞こえていたのではないかと、今さらながら不安になった。しかし、本当に六時過ぎまで眠っていたのか、あるいは知らない振りを続けようと決めているのか、如の様子はいつも通りだった。
意識しさえしなければいいのに、是俊は突然、沈黙のジレンマに陥った。軽口もたたけず、かと言って、何か告白めいたことを口にするわけにもいかない。先週の夜のことは、思い出してはいけない。それだけはわかっていた。わかっていたが、どうすることもできない。意識しすぎだと、頭ではわかっていても、心は甘く焦がれるような思い出の気配にどこまでも引きずられていく。
「是俊くん?」
案の定、如は是俊の不自然な態度をいぶかしんでいる。
「あー」
訳もなく呻いた是俊に、どうしたの?と、如。
「いや」
何でもないとは言いつつ、もはや自分がいつもの自分でないことは明らかだった。きっと、鋭い如のことだ。もう全て見透かされているのではないかと是俊は思った。
「……何、食おうか?」
「何でも……」
深刻な表情で、昼食のメニューを尋ねる是俊に、如はあっ気にとられたようだった。そして今はそっとしておこうと判断したように口を閉ざす。
(何なんだ?)
ようやくエレベーターをおり、密室から開放された是俊は自らに毒づいた。ガキみたいだと、自身を罵って、なおさらその通りであることを認める。悔しいが……少し先を歩くその背中を見ているだけで切ない。
是俊は再び、如に気付かれないよう、低く呻いた。
「いい天気だねえ」
心からそう思っているらしい。如は、広場の階段に腰を下ろすと空を見上げた。
どこか適当な店に入ろうと是俊は思っていたのだが、如は天気もいいから外で食事を取ろうと言った。二人は、パリに本店のあるパン屋でそれぞれ昼食を買い、ホテルや劇場、レストランなどが集まったビルの敷地内にある広場に出た。
夏の激しさを忘れた日差しの中で、如の色素の薄い髪が輝いて見える。あの夜腕に抱いて間近に見つめた瞳は、こんなに太陽が似合う明るい色をしていただろうか。如には驚くほどいろいろな顔がある。そして、その多くを自分は知らないと是俊は不意に思った。
「どうしたの?」
「いや……いい天気だな」
子供のような仕草で顔を背け、是俊はそんな愚にもつかないことを言う。
如は、くすりと笑い、ペーパーバッグからバゲットのサンドイッチを取り出した。
「ホントは、さ」
是俊は缶コーヒーのプルタブをあけ、如を見ずにため息をついた。
「いや……こないだ、悪かったなと思って」
如はバゲットに噛り付きながら不思議そうに是俊を見た。是俊はそんな如をちらりと見て、
「何ていうか……嫌われたかな」
叱られた子どものように俯いた。こんなに自信のない、弱気な是俊を見たことのある人間は、きっと社内にはいないだろう。如は、硬いパンをようやく飲み込むと
「別に、何とも思ってないよ」
そう是俊に告げた。
「何とも?」
是俊が如を見る。是俊はどことなくショックを受けたような、神妙な面持ちだった。
「何とも、っていうか……」
如はペットボトルから水を一口飲み、口元を指先で拭った。
「別に、あれで嫌いになったとか、そういうのはないよ。是俊くんが無理強いしたわけじゃないし」
平然と言ってのけた如。是俊は眉間を寄せ、如さんて、とたまらず口を開いた。
「ああいうこと、誰とでもする人?」
慣れていると、あの時是俊は確かに感じた。しかし、それをはっきり肯定されるのは、嫌だった。
如は驚いたように何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。
「……悪い」
そっぽを向くように視線を外し、低い声で告げた是俊。あまりに露骨で、礼を欠いた質問だったと如の表情から理解した。自分がそこまで如のプライベートに立ち入る権利はなかったし、恋人がいるのは自分も同じだった。
「誰とでも、って、わけじゃないよ」
傍らの如の、静かな声。是俊が如を見、今度は如が目をそらした。
いろんな意味で、と如。
「いけなかったなとは、思ってるけど。朝、涼くんにも会っちゃったしね。悪いことしたなって、やっぱり思ったし、後味、悪いでしょ、お互い。僕は……ちょっと、顔、合せ辛かったよ」
俯きがちに、如は小さく笑う。悲しそうな微笑みだと是俊は思った。どうしようもなくてだからそんな顔をしているのだと理解した時、是俊の胸が痛んだ。
「ごめん」
その言葉に、如がゆっくりと顔を向ける。
「是俊くんだけが悪いんじゃないよ。あんなことするつもり、全然なかったのに……僕も、ちょっと、酔ってた……」
言い訳じみた言葉は如には似合わなかった。それほど後悔しているということなのだろうか。自分が、あの時本気で如が欲しいと思った気持ちを、如はきっと理解していない。そうじゃないと、叫び出しそうな心を是俊は必死で抑え込み、あの時に感じた如との絶対的な距離感を思い出した。
ごめん、と唐突に如が言った。
「あの時、思い出してた。昔、好きだった人のこと。でも、もう忘れるから。是俊くんも忘れて」
そこまで言うと、これからも、と如は明るい声を出した。
「今まで通りで。僕、是俊くん好きだし。これからも友達」
ね?そう言って微笑む如に、ああと、是俊は顔の筋肉をわずかに動かすだけの微笑で応じた。
そうじゃない、と言いかけて止めてしまったのは、もっと大きなものをなくすのが怖かったからだ。如に出会い、次第に興味を持ち、急速に親しくなって……それから、惹かれ始めるまで時間はかからなかった。好奇心や友人としての好意を超えて、今は、如を、好きだと思う。
如の気持ちは、嫌じゃない、というだけで、決して好きではないのだろう。何事もなかったかのような顔で中断していた食事を再開した如に、是俊は小さな苦笑を漏らした。
片思い。
そんな言葉がふと浮かんだ。今まで、誰かに振られたことはほとんどなかった。あったとしても、それで傷ついたり引きずったりするようなことは一度もなかった。何かきっかけさえあれば、気に入った相手と寝るのは難しくなかった。一度だけで終わった相手も何人かいる。そして、付き合い始めてしまえば、相手の心は思い通りになるようなそんな気がしていた。どんな女と付き合っても、涼のような男と付き合っても。涼でさえ、最後は自分のものになった。奢りだな、と思う反面、それだけではないと反論する自分がいる。
(本気で?)
本気で、好きになったのかも知れない。これまでの誰に対するのとも違う。今、如を好きだと思う気持ちは、初めて覚えた恋のような胸苦しさと切なさを是俊に与える。
その気持ちを認めないように、ただの興味本位だと自分に言い聞かせてきた。如は、自分のものにならないような、そんな気がしていたから。
如が、笑いながら何かをしゃべっている。それに一々相槌はうつが、声なんて、聞こえてはいない。話の内容は、もっとわかるはずもなかった。
昨日は、一日中涼を抱いていた。初めて抱きあった頃のように、ずっとベッドで過ごした。シャワーを浴びたり、軽い食事を取る以外、本当にずっと。涼は、始めこそいぶかしんでいたが、結局は一日付き合ってくれた。涼は、気付いただろうか。そこにはもう、恋愛感情が残されていないことに。
体より、もっとずっと深い部分が結ばれていた。家族のように血肉を分け合うことはなくても、二人は、もう他人ではなかった。繋がりが深すぎて、強すぎて、今さら、求め合うのはよそよそしい。昨日は、どんなに激しく抱いても、何も感じなかった。そして今日、如に会っただけで、全ての思考も理性も戦略も吹き飛んでしまいそうな自分に出会い、是俊は狼狽した。逃げ回ってきた自分の感情に軽々と捕まってしまいそうで怖くなる。ただの同僚ではなく、如は自分を友人だと思ってくれている。それならばこれからもプライベートで一緒に時間を過ごせる日はあるだろう。会社の人間には見せることのない横顔や本音にも、たまには触れさせてくれるかも知れない。時間をかければきっと今よりもっと近くに、たとえば親友として、近づくこともできるはずだと、そう考える自分もいる。しかしそれでは足りない。貪欲な自分が求めているのはもっと多くだ。そして全部を手に入れるまで満足できないだろう。
(それで、どうする?)
如にその気がないとして、自分は彼をどうしようもなく好きだとして、それでどこに行き着くのだろう。是俊にとって、それは、初恋に限りなく近い経験だった。いつものように頭が回らない。どうすれば如は喜ぶか。どうすれば自分を見てくれるようになるのか。どうすれば何の躊躇いもなく、この手の中に落ちてきてくれるのか……。
「聞いてる?」
「うん」
如がじっと瞳を覗き込んできた。少しだけ困惑したような表情をしている。是俊は、苦く笑ってコーヒーを飲んだ。真っ直ぐに見つめていることさえ、息苦しかった。
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