第10話 明け方

 「是俊?」

 不在の間の侵入者が他ならな家主だと気付くまで、是俊にはしばらく時間がかかった。是俊が瞬きを繰り返すと、そこには黒いシルエットが佇んでいる。

 玄関に見慣れぬ靴があったから来客だろうという見当はついていたものの、何故家の主人が自分のベッドで寝ているのか、涼には理解できなかった。

 「あ……涼か?」

 「何してんの?俺のベッドで」

 涼はベッドに腰を下ろし、着ていたジャケットを脱ぎながら小声で尋ねた。是俊は、呻き声を上げながら体を起こした。

 「悪い……如さんが……冴島さんが来てるんだ」

 「そう」

 名前を言い直したな、と涼は思ったが、自分も朝帰りの身なので、それ以上何も言わなかった。冴島如といえば、一度だけ会ったことのある、あの美人だ。涼はジャケットを手に立ち上がると、是俊に背を向けハンガーに服をかけた。

 「今何時?」

 ベッドの中から是俊がきいた。涼はリビングの時計を思い出し

 「四時半くらい」

 と応じた。

 「四時半?タクシーで帰ったのか?」

 始発はまだ走っていないであろう時刻に、是俊は訝しげに涼を見る。

 「歩いて帰ってきた」

 「歩いて?」

 「そう、恵比寿から」

 涼はこともなげにそう言って、

 「ちょっと疲れた」

 小さく笑って見せた。久しぶりに見る涼の笑みに、是俊は何とも言えない愛しさを覚えた。それとともに、涼が帰ってきたのがこの時間でよかったと、心から思った。

 「一緒に寝るだろ」

 是俊が体を横にしながら声をかける。

 「……」

 涼は肩越しに是俊を見、少しだけ躊躇した。

 「嫌なのか?」

 「嫌じゃないけど……」

 涼は溜息をつき、Tシャツと下着だけを身に着けて、是俊の傍らに体を滑り込ませた。

 歩いて帰ってきたという涼の言葉に、是俊は何もきかなかった。そして、涼が横になるとすぐのしかかった。

 「是俊……」

 困惑しているようにも、迷惑そうにも見える涼の表情。是俊は昨夜の如とのことを思い返し、体の隅に追い払うことができずにいた欲望の、燃えカスのような熱を感じた。

 「酔ってる?」

 涼はどこか淀んだ是俊の目を仰ぎながらそう尋ねた。

 「いや」

 是俊の声は、低くかすれて、涼の鼓膜を刺激する。それは、是俊がベッドでだけ涼に聞かせる男の声だった。

 「となり」

 涼は、自分が不在の間に是俊が連れ込んだ、と呼べなくもない人物の存在を示唆した。別にそれに対して腹立たしい気持ちはなかった。それに自分も、是俊を責められるようなことはしていない。

 「かまうか」

 「……久しぶりだね」

 涼は観念したように囁き、片腕で是俊の頭を抱き寄せた。

 如に拒まれた腹いせだったか、恐らくそんな気持ちもどこかにあったのだと思う。確かに、隣の部屋で客が寝ているというのに、こんなに性急に、まるでがっつくように涼を求めるのは不自然だったかも知れないと、是俊は反省していた。

 如との戯れは、是俊に欲望を抱かせた。しかしそれを出し尽くすことを如は許さず、あるいは涼の部屋で寝ることを決めた時から、自分は帰ってきた涼を抱くつもりだったのではないかと、是俊は自身を疑った。

 「大丈夫か?」

 息を乱したまま、是俊の上からどかない涼は、疲れていたのか、目を閉じ、是俊の手を探した。

 是俊は涼のくせのないしなやかな髪に口付け、体を抱えなおすと軽く手を繋いでやった。

 いつから涼がこんな子供っぽいことをするようになったのか是俊にはわからなかったし、当の涼にもわからないだろう。しかし、ベッドでぐったりとなった涼は、いつも是俊の手を求めた。

 ようやく芽生えた罪悪感は、憔悴したような涼の横顔にその重さを増した。そう言えば、涼は、途中から声を殺さなくなった。それが涼の意思だったのか、あるいはそうせざるを得なかったのか是俊にはわからないが、隣りの如が起きていたとすれば、先ほどの声は聞こえていただろう。あるいは、浅い眠りであったならば、如を起こしてしまったかもしれない……。

 腕の中の涼は、早くも寝息を立て始めた。歩いて帰ってきたと言ったが、どうしてそんなことをする気になったのだろう。物言わぬ寝顔は、愛らしく、是俊は切ないような焦燥感を持て余す。

 セックスは、好きな人としたほうがいい……そう言った如の声を、是俊は思い出していた。

 (好きな人、か……)

 如のように恋愛経験が豊富な男が使うにはいささか幼稚な言葉だとは思ったが、幼いとともにとても真摯な言葉だと、是俊には思えてきた。

 如は、眠っているのだろうか。あるいは、自分たちの痴態を壁の向こうで聞いていただろうか。そんなことを考えているうちに、是俊もいつの間にか眠りに落ちていった。



 薄闇の中に伸べられた白い手に、篠吹は鮮烈なデジャブを覚えた。

 青白いまぶたを閉ざして眠るのは、記憶の中に生きる彼の再来だろうか。

 「涼くん……」

 体温の低い手をそっと握ったまま、篠吹は息のような声でその名を呼んだ。ベッドに腰かけて見下ろす寝顔は、初めて見た瞬間と同じ、これ以上ないほど透明で繊細な感じがした。もう会うこともないだろうと思ったあの日から、どれくらい経っただろう。夏という季節を経て、彼は再び自分の前に現われた。篠吹は目を細め、寝顔に見入る。

 困惑と、そして恐怖まで滲ませていた涼の瞳を忘れることはないだろうと思う。篠吹は、いつもの写真のあるバーで、涼の姿を見つけた。涼は、篠吹が定位置としているカウンターの隅の席で、助けを求めるような眼差しを店内に泳がせていた。傍らには、スーツ姿の男が立っていた。店に入るとすぐ、涼と目が合った。それがあまりに痛々しい眼差しに思え、篠吹は二人の元へ向かった。

 「待たせてすまない。私の連れに、何か?」

 涼は驚いたように目を見開いたが、篠吹の言葉に対して何も言わなかった。傍らに立っていた男は、ゆっくりと振り向き篠吹の瞳を正面から見つめた。

 年は、涼よりいくつか上のように思われた。すっと、細められた目だけが、穏やかそうな表情の中で冷たく冴え、異質だった。それでも男は

 「お連れの方でしたか」

 柔和な笑みを崩さずに、篠吹に確かめた。

 「ええ」

 「それは、失礼しました。僕の人違いのようです」

 悪びれず会釈し、男は篠吹と、それから涼にも微笑みかけた。涼は強張ったような表情のまま、出ようか、という篠吹の言葉に黙って従った。

 男は、カウンターの反対側に腰を落ち着けると、二人にはもう一瞥もくれなかった。

 篠吹は、マスターに軽く目配せし、涼を伴い店を出た。マスターは頷いて二人を見送った。

 「あの……」

 店を出るとすぐ、涼は篠吹の顔を見た。何を言うべきか、何と言うべきか、戸惑っているのだということが篠吹にはわかった。

 「出すぎたことをしたかも知れない。謝るよ……。君が何だか困っていたように見えたから」

 「あの、そうじゃなくて……ありがとうございました」

 涼は、小さな声で礼を述べ、頭を下げた。そして

 「俺、会計とかまだだったんですけど」

 困ったような顔で篠吹に言った。大人びた雰囲気をしていると思っていたが、こうしてみるとやはりまだ若い。篠吹は微笑ましいような気がして

 「気にしなくていいよ。俺が勝手に連れ出したんだ。マスターとは、長い付き合いだし、大丈夫だよ」

 「そんな」

 涼はとんでもないと言いたげな顔で篠吹を見たが、篠吹はいいから、とその話題を打ち切った。それから腕時計に目をやり

 「君さえよければ、今から飲み直さないか?」

 そう、柔らかく涼を誘う。涼は一瞬だけ躊躇したようだったが、篠吹の瞳を見つめ、ええと言って頷いた。

 二人は互いに自己紹介し、いつか同じ店で会ったことがあるという話をした。

 「あの写真を見てたね」

 篠吹が言うと、涼はすぐにそれを理解して

 「すごく、いい写真だと思って……。初めて行った時からずっと気になってたから、今日行ってみたんです」

 「話しかけてきたのは知らない人?」

 篠吹には、あの男性が涼と何か関連のある人物のように思われた。涼の表情は、困惑というよりむしろ驚愕に近いような気がしていたから。

 「あ、俺……たまに、雑誌とか出てるんで、知らない人に声かけらることあるんです。前に絡まれたりしたから、そういうの、ちょっと怖くて……」

 涼は口ごもりながらそう言った。消え入りそうな声をしていた。篠吹はそれ以上詮索されたくないのだろうと察し、そうか、と短く応じた。

 二時間ほど軽い食事を取りながら二人で飲んだが、その間に涼は篠吹が驚くようなハイペースで杯を重ねていった。最初は初対面の相手と二人きりという状況に緊張しているのかとも思った。もっとも涼と食事をするのも酒を飲むのも初めてのことだったので、普段の彼がどんな飲み方をするのかは定かではなかったが、まるで早く酔いたいかのように、涼は飲み続け、一人では歩けないほど泥酔した。

 自宅に連れ帰ってから、三時間近くが経とうとしているが、涼の眠りは深く容易に目覚める気配はなかった。ただ一度、寝ぼけたのか、何かを求めるように片手を宙に述べたので、篠吹はその手をとった。それは、あの写真の光景につながり、さらには何年も前の、明け方の光景にも繋がっていった。

 ベッドの中で、彼は何を囁いたのだろう。情けないような気がしていたのは確かだが、それ以上に眠気が勝っていた。顔のない追憶の麗人は……白い手を伸べ、細い指先で、自分の髪に触れた。薄い闇と薄い明かりの間で、幻の蝶のようだったあの手は……何を求めていたのだろう。

 「涼くん」

 あの手の主と、涼とは全くの別人だった。当時の彼は、恐らく涼と同じくらいの年齢だった。今はもう、三十近いはず。そもそも似ているのかいないのかさえわからない。それでも、まだどこかで、奇跡を信じそうな自分がいる。

 (彼を、好きなのか?)

 篠吹は自問自答し、それから苦く微笑した。

 「ばかばかしい」

 呟いて、乱れた涼の前髪を撫でてやる。触れた額はひんやりとした磁器のような手触りだった。そっと手の甲で頬を撫でると涼が小さな声を上げた。

 「ん……」

 震えて、一瞬の後に開かれた瞳。二人の目は、驚くほど間近にあった。気まずさと驚きを涼に気取られることなく、篠吹は笑いながら体を起こした。

 「おはよう」

 「……おはよう、ございます……」

 涼は瞬きし、自分が置かれた状況を思案した。

 「記憶はある?」

 篠吹はさりげなく涼の手を離しながら声をかける。

 「……ええ。すみません……」

 涼は決まり悪そうに上体を起こし、呻くように篠吹に謝った。篠吹は明るい声で笑った。

 「俺が誘ったんだから、俺にも責任があるよ。頭は痛くない?気分は?」

 「いえ……むしろすっきりしてます。俺、どのくらい寝てたんですか?ここ……篠吹さんの家ですよね?」

 篠吹はベッドから立ち上がり、

 「もうすぐ四時だから……三時間くらいかな。俺一人だし、気にしなくていいよ。今、水持ってくるね」

 そのまま涼の元を離れた。

 「すみません……」

 篠吹の広い背を見送りながら、涼はため息をついた。自分でも無茶な飲み方をしているという自覚はあった。しかし篠吹と二人で緊張していたということもあったが、それ以上に当時の記憶が気を動転させた。

 (どうして……)

 忘れられない面影に追い立てられたような気がして、涼は口元を手で覆った。

 「大丈夫?気分悪い?」

 「あ……いえ、大丈夫です。本当にすみません」

 「全然。どうぞ」

 篠吹は再びベッドに腰を下ろしながら、涼にミネラルウォーターを手渡した。涼は急にのどの渇きを覚え、水を一気に飲んだ。

 篠吹は終始穏やかな表情で涼の様子を見つめていたが、涼が唇からペットボトルを離すと、不意に身を乗り出した。

 何がそうさせたのか、痛いほどわかっていた。記憶を再現したかのような空間で、篠吹は自ら手放した過去を手探りで求めていた。

 涼の濡れた唇は、柔らかく冷えていた。唇を重ね合わせるだけのキスは、それでも長かった。

 篠吹の突然の行為に涼は驚いたようだったが、それでも嫌がる気配は見せず、静かに目を閉じた。篠吹にとってその反応は予想外だったが、状況が状況だけに無理強いしているような気がして、むしろ気が引けた。

 「……すまない」

 かすれた声で篠吹が囁き、片腕で涼の頭を抱くと、涼は小さく頭を左右に振った。抱き合うことも離れることもできない空気と距離に二人は隔てられ、同時に縛られてもいた。篠吹はもう一度すまない、と囁いた。

 「初めて君を見た時から、ずっと、気になってた……」

 互いの表情は見えなかったが、好意の中に漂う緊張感は感じ取ることができた。涼は何も言わず、じっと篠吹の言葉を聞いた。

 「もう、会うこともないだろうって、そう思ってたんだ。俺には、そういう人間が多いから……。だから、君とも、もう二度と会えないだろうと思ってた」

 「どうして……俺なんかを?」

 謙遜でもないらしい。涼は不思議そうにそう尋ねた。顔を見ることなく、篠吹は小さく笑い、そっと涼の髪を撫でる。

 「俺なんか、なんて言っちゃだめだよ。どうして、と説明するのは難しいけど。……一目惚れだと言えば、わかってくれるかな」

 「俺は……」

 同時に顔を上げ、二人は見詰め合った。しかし涼が何かを言うより一瞬早く、篠吹は再び涼の唇を奪った。

 柔らかく腰を抱き、篠吹は啄ばむようにそっと涼に口付けた。涼は目を細め、それから引き締まった篠吹の二の腕に手をかけた。受け入れるつもりだったのか、涼がゆっくりと目を閉じると、篠吹の手が頬にかかり、不意に唇が離れた。

 「こんなことを言っても、信じてもらえないかも知れない。でも」

 戸惑う涼を見つめ、篠吹は静かな声で切り出した。

 「君が、好きなんだ……。初めて会った日から、ずっと忘れられなかった」

 くっきりとした美しい瞳が今度こそ大きく見開かれた。篠吹は涼を刺激しないよう優しく抱きしめ

 「だけど、君の帰りを待ってる人がいるなら、もう帰った方がいい……」

 子供に諭すように囁いた。

 「どうして」

 とかすれた声で涼は呟き、篠吹の瞳を間近に見上げる。

 「そんな寂しそうな顔したら、勘違いされるよ」

 篠吹は苦笑し、涼の頭を撫でるとゆっくり立ち上がった。

 「渋谷、だったね。近くまで送ろう」

 涼は呆然と篠吹を見上げ、何に対してか首を横に振った。

 「タクシーの方がよければ、大通りでつかまえられるから」

 さあ、と篠吹は涼を促す。涼は篠吹の手を借り、ベッドを下りた。

 涼はようやく部屋の中を見回した。ワンルームの室内は、黒と濃い青の家具で統一され、広々として見えた。整然とした部屋には篠吹以外誰の気配もない。

 気まずさと、名残惜しさと、しかしどこにも行き着くことのない、互いへの好意。音のない室内の気温は、わずかずつだが下がっていくように感じられた。

 言葉もなく、二人は大通りに出、篠吹がタクシーをつかまえた。

「気が向いたらでいい、連絡して欲しい」

 「あの……」

 なおも戸惑う涼を車に押し込みながら、篠吹はその手に小さな紙切れとタクシー代を握らせた。

 「出してください」

 ドライバーに告げ、篠吹は車から一歩離れる。

 「……」

 物言いたげな涼の表情に、苦い笑みを見せ軽く片手を上げる篠吹。走り出した車の窓から、涼はずっと篠吹を見ていた。

 こぼれる笑いは、自嘲だったか。ばかだな、と篠吹は小さく呟いた。明け方に薄められていく闇の中で、車のテールランプが尾を引いて遠ざかっていった。

 また、二度と会えない人間が増えてしまったのだろうかと、そんなことを思う。涼ははっきりとは断言しなかったが、恋人と一緒に暮らしているらしかった。言葉を交わしたのは昨日がほぼ初めてだった。それなのに、部屋に連れ帰り、キスまでした。バーで声をかけた時、そんなことをするつもりは毛頭なかったのに。

 それとも本当は初めから確信していたのか。篠吹は涼が眠っていたベッドを見下ろし、自分に問いかける。ぐるぐると回って、答えはやはり、否だった。そして、少しだけ安心する。何に対してだったのか、篠吹自身にもわからなかったけれど。

 言葉は不思議だと篠吹は不意に思った。涼と出会い、それを如に話してから、自分の中の色のない感情が、確かな方向性を持ち始めた。そして、ゆっくりと、けれど確かに色づき始めた。言葉は、自身の感情に名前を与えてしまう。感情を言葉に置き換えれば置き換えるほど、自分自身の言葉にとらわれていく。

 涼に好きだと告げたこと、初めて会った日から忘れられなかったと打ち明けたこと、どれも本音で、どこにも嘘はないのに。何故だろう。自分の言葉を受け入れられないのは、誰より自分自身のような気がした。

 それは、本当の自分ではない。後悔と失意の朝、そう思った。そしてそう思うことで、秘密は記憶の底に沈んでいった筈だった。涼が引き揚げて、如が開いたのだろうか。いや、引き揚げたのも、開いたのも、そして大切に沈めていたのさえ、本当は全て自分だったのかも知れない。

 ばかだな、篠吹はまた呟いて、カーテンをわずかに開けた。どこからともなく訪れる光は霧のように、まだ目覚めない街の上を力なく漂っている。

 何だか夢を見ているようだと篠吹は思った。


 明け方、涼は是俊の腕の中で目を覚ました。枕もとの時計は、もうすぐ六時になるところだった。

 また、手を繋いでいる。動きづらさに違和感を覚えれば、いつものようにしっかりと手を握り合っている。いつの間にか習慣になった。理由は、わからなくもないが、あえて考えないようにしている。是俊は、知らない。だから、それでよかった。

 久しぶりに見た是俊の寝顔。普段の鋭さを手放した、少年のような顔で是俊は眠っている。涼はそっと温かな頬に口付け、是俊を起こさないようベッドからおりた。

 体が泥のように重く、どこか気分が冴えない。

 涼は何も身に着けていない格好で伸びをし、それから床に落ちていた是俊のシャツを拾って肩からかけた。とりあえずシャワーを浴びたいと思ったのだが、隣に冴島如がいることを思い出し、下着をつけてシャツを着た。

 リビングは静かだった。外から鳥の鳴く声が聞こえてくる。カーテンの隙間からのぞく光が、いつもより散らかった室内を浮かび上げる。酒臭いな、と涼は思い、少しだけ顔をしかめた。

 電気はつけず、バスルームの窓から差し込む朝日だけで涼はシャワーを浴びた。

 髪を洗っていると、是俊でも、自分のものでもない香りがした。あるいは、したような気がした。

 あの人は……と、涼は動きを止める。

 「君が、好きなんだ……。初めて会った日から、ずっと忘れられなかった」

 耳に残る告白。片岡篠吹といった。篠吹は、自分の中に、何か得体の知れない感情を残した。

 彫の深い端正な顔立ちは知的で、哲学者のようなストイックさと、求道者のような深遠さがあった。謎めいている、というよりは、奥の深い人物に思われた。それなのに、眼差しは優しく、包み込むように温かい。唐突なキスは彼らしくなかったけれど、理性の中にだけ燃える情熱を垣間見られたようで、嫌な気はしなかった。それどころか、篠吹に口付けられた時、自分でも驚くほど気持ちが揺れた。その瞬間は理解できなかったが、自分は、間違いなく、篠吹を……欲しいと思っていた。抱かれたくて……壊されてもいいと思った。こんな気持ちになったことは今までない。

 涼は、篠吹の吐息を思い出そうとするかのように、指先で唇に触れた。是俊以外の人間が触れた唇。ずっと、是俊のものであることに安らぎを覚えていたのに。

 安定から抜け出すことを、怖いとは思わないだろうか。あるいはここから抜け出すことが、ここから離れることが、本当の望みなのか。

 是俊に対する感情を、何と呼べばいいだろう。今の二人の関係は、何と名付けられるべきものなのか。

 愛情、親愛、同情、友情、惰性……。

 繋がれているのは、是俊か、自分か。わからないことが増えた。もう、大人だと、自分は大人だと信じていた。全て自分で選択した結果の上に現実があると、そう思っていたのに。

 きっと、篠吹は本当の意味で大人なのだろう。理性的で、自分の感情と欲望とを完璧に飼いならしている。持て余すほどの衝動さえ、自身の中を自在に泳がせ、意のままに捕らえることができる。計算しているのとも違う。篠吹は迷いさえ肯定して、その本質を言葉に置き換えられる。

 「帰った方がいい」

 そう囁いた篠吹の瞳を、涼は思い出し、目を閉じる。強がりではない。篠吹は慈しみとも呼べそうな、優しい眼差しをしていた。

 (好き、なのか……?)

 自問し、涼はぎょっとした。

 一目惚れ?

 まさか。

 篠吹は、ヒーローのように現れた。そうだ……自分がそれまで逃れられなかったものから、簡単に自分を救ってくれた。不意に現われ、それでもそうすることが当然であるかのように泰然と。是俊が知らないこと。篠吹は、何も聞かず、気付かないふりで、容易く、自分をそこから連れ出した。

 簡単なことだった。危うい感情を見誤ってはいけない。そんな風に、何度も自分を失くしたから。何度も、大切だった人を失くしたから。

 (そんなに、単純なものじゃない……)

 足元に流れる泡が消えると、涼はシャワーを止めバスルームを出た。

 かけてあったバスタオルで乱暴に髪の水気をとり、体を拭く。重たさと清涼感は朝の光に似ている。昨日の夜の再会と明け方のキスと朝の情事。繋がりようのない輪の中で、どこにも寄る辺のない自分。

 どうすればいいのかわからず、何ができるのかも、わからない。何も考えずに過ごせるのは、幸せなことだと信じていた。今までのように、例えば是俊に望まれるままに生きていくのは、悪くないと思っていた。知らない方がいいことは、意外に多い。

 涼は小さく息をつき、新しい下着とシャツを身につけキッチンへ向かった。リビングは相変わらず酒臭い。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口をつける。手にしたボトルは、どこにでも売っている量販品だ。篠吹の家にもあった。

 そこから思考を引き離せず、そして、それを甘受する自分もわかっている。篠吹に抱かれたいという欲求を、是俊で満たしたこともわかっていた。是俊の方でも何かあったのかも知れないが、それを詮索する気はない。今さら……そう、今さら、嫉妬なんてしない。是俊も、きっとしないだろう。信じあっているからではなくて、それは、二人の関係の前提だった。

 ぐったりとソファに身を沈め、冷たいペットボトルを目蓋の上にのせる。涼は、是俊と自分のことを考え、篠吹のことを思った。

 (俺は……)

 纏まらない思考は、しかし心地よく涼を弄ぶ。眠気を堪えている時にも似た、柔らかな浮遊感。とらえどころのない感情が、涼を包み、翻弄していた。

 (好きなのか?)

 俺が?

 誰を?

 まさか……。

 「涼くん?」

 「!」

 そんなことを考えていた時、何の前触れもなく、突然背後からかけられた声。涼は大きく肩を揺らした。

 「おはよう」

 「おはようございます」

 涼が振り向くと、すぐ側に如が立っていた。いささか、疲れているのか、どことなく眠そうな様子だったが、そこに涼がいたことを驚いている様子はなかった。

 「ごめんね、昨日、少し飲みすぎちゃって……泊めてもらったよ」

 「あ……いえ」

 自分が不在の間に、というニュアンスだったのだろう。涼は、曖昧に笑い首を左右に振った。先ほどの是俊との行為の声が聞こえたのではないかという不安も過ぎったが、如は以前会った時同様、ただ穏やかな微笑を湛えていた。

 「朝帰り?」

 「いいですよ、そのままで」

 如はにこりと笑い、床に並んでいたからのボトルを集め始めた。

 「いいよ、散らかしたの僕だから」

 手伝おうとした涼を柔らかく制して、如は手早くリビングを片付けてしまった。

 涼は所在無げに如を見る。朝帰りかと聞かれたが、何となく答えそびれてしまった。けれど、如もそれほど答えを知りたがっているようには思えなかったので、あえて何も言わないことにした。

 如はキッチンへ行き、空ボトルを置いて戻ってくると

 「僕、そろそろ帰るね。是俊くん、まだ寝てると思うけど、よろしく伝えておいて」

 そう言って、帰り支度を始めた。

 「コーヒーでもどうですか?」

 このまま帰すのも、何だか追い出してしまうようで悪いと、涼はキッチンに向かおうとした。

 「あ、いいよ。気、遣わないで」

 やんわりと涼の申し出を辞退し、如は早々に部屋を出ていった。玄関まで見送った涼に、ごめんねと告げたのは、どんな心境からだったか。

 客人を見送り、玄関に鍵をかけた涼は伸びをし、少し眠ろうと是俊の部屋へ向かった。

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