第9話 キス
ソファに腰かけていた如が、眠いと呟きながらあくびをした。是俊が如を仰ぐと、壁にかかっている時計も、自然と目に入った。
そういえば、涼はまだ帰ってきていない。もしかすると、今夜は帰らないのかもしれない。是俊にはそんな気がした。涼が無断で外泊したことなど、今まで一度もなかったが、終電もなくなったこんな時間に、タクシーを使ってまで帰ろうとする涼ではないだろう。
思えば、涼は外泊したことさえなかった。そんなことに今更ながら気付いた是俊は、何に対してだったのか、口元だけで微笑した。
「どうしたの?」
是俊の笑みを目ざとく認め、如はグラスを口元に運びながら目を細める。
「今夜は……帰らないかもしれないなと思って」
「涼くん?」
如は自分の腕時計に目をやり、もう二時だねと、呟いた。
「心配?」
悪戯な微笑で、如はじっと是俊を見つめた。是俊は、まんざら強がりでもなさそうに、いやと応じた。
「ただ……」
「ただ?」
是俊が言いかけた言葉を、如は聞きたがった。
「あいつ、友達とかあんまりいないから。親しい奴とか、泊めてくれるようなツレ、いないんじゃないかと思って」
「へぇ」
如は、氷を鳴らしながらグラスを回し、
「でも、あのくらいの年なら……」
そう呟いて、グラスの中を見つめる。
「親しくない人間でも、家に泊めたりしない?学生の時とか……よくあったよ」
「如さん?」
「ん?」
是俊には、俯きがちな如の横顔が、ひどく悲しそうに見えた。それに気付いた是俊に、如は気付いたらしく、わざと明るい顔で是俊を見返した。
「……いや」
何でもない、と是俊は笑って首を振った。今夜は既に三本の空き瓶が転がっている。いくら強いとは言え、二人の眼差しはどこか酔いの回った不安定なものになりつつあった。
曖昧に笑い返した如は、一気にグラスを開けると、床に置かれていたジンの瓶に手を伸ばした。
是俊には、不意に視界に飛び込んできた如の細い指が、何故かひどく痛々しく感じられた。是俊が顔を上げると、思わぬほど近くに、如の潤んだ、まるで今にも泣き出しそうな瞳があった。
「是俊くん?」
如は、ソファに座ったまま床の酒瓶を取ろうとして上体を曲げただけだった。吸い寄せられそうな美貌が、そっと離れると、是俊は何を言うべきか、言葉に詰まった。飲みすぎて思考が鈍っているのか、それにしても是俊が言葉に詰まるなど、そうそうあることではなかった。
「大丈夫?」
如が目を細めて尋ねると、ああ、と是俊は上の空で応じた。
今、自分が感じたものは……間違いなく欲望だった。それも漠然としたものではなく、ある方向性を持った、はっきりと形を有する欲望だった。是俊はそう思い至った瞬間、愕然とした。
(俺が?この人を……?)
是俊は思わず如を横目で見たが、如は何かを考え込むようにどこか遠くを見ていた。
「僕ね」
「え?」
唐突に如が是俊に顔を向けた。何を言い出すのかと是俊は真っ直ぐに如を見つめる。
「僕……是俊くんに、嘘ついてたことがあるんだ」
「嘘?」
そんな思いも寄らない告白は、突如として始まった。如は、低い声でそう、と呟き
「前に……ずいぶん前に、エレベーターで偶然会ったの覚えてる?」
「エレベーターで?」
戸惑う是俊に気付かぬ様子で話始めた。
「エレベーターで、僕に話してくれたじゃない?涼くんとのこと。あの時、僕は……人を好きになったことがないって、そう言ったんだけど、覚えてないかな?」
覚えていてもいなくても、それはどちらでも構わないのだと、如の眼差しはそう言っている。是俊はそれでもその時のことを思い出したらしく、黙って頷いた。
「それで、僕には、好きな人がいたんだ。今まで生きてて、たった一人だったけど」
是俊の胸はわけもなく高鳴ったが、さすがにそれを如に悟られるようなことはしない。是俊はじっと如の言葉を待った。
「僕がまだ学生の頃の話なんだけど……僕はある人に一目惚れした。違う大学主催の飲み会で、けっこう人がたくさん集まってて……僕も友達に誘われていったんだけど、その人は……確か、僕より二つ上だったと思う」
微かな失望などおくびにも出さず、是俊は、それで、と先を促した。
「その人は、たくさんの人間の中でもすごく特別な感じがした。周りにはいっぱい人が集まってて、皆すごく楽しそうで……その人はみんなの中心で、優しそうに笑ってた。何て言うか……皆に慕われてる王様、みたいな感じで」
そう言うと、如は自分の言葉に笑い出した。
「王様って、男?」
うん、と如は頷いた。
「そう。男だよ。是俊くんには、あの時話してもよかったんだけど、何だか上手く説明できそうもなかったから……。ごめんね、嘘ついて」
如は本当にすまないと思っていたようで、少しだけ悲しそうに微笑した。
「別に、謝るほどのことでもないだろ」
是俊はできるだけ軽薄な感じを装った。
「それだけ?」
如の本当に言いたいことは何なのか。是俊がそう促すと、如は悪戯な笑みを口元に漂わせ
「その夜は、その人の家に泊まった」
そんな大胆な告白をした。
「彼には、別にそういう気持ちはなかったと思う。その人ね、すごくもてて、可愛い女の子たちが隣の席を奪い合うような人だったんだ。その日も、そうだったし。でも、さっき言ったみたいに、学生って、知り合ったばっかりでも、けっこう泊めてあげたりするでしょ?特に同性なら」
「まあ、そう、かな」
是俊は自分の学生時代を振り返ったが、飲み会で会ったばかりの人間を家に泊めるとしたら、それは女性だった気がする。しかし、如の言うことも確かに一理あった。
如はジンで唇を湿らせながら、是俊から視線を外した。どこともなくさ迷う如の眼差しは、何かを探しているようにも見える。
「その時までに、自分は、男でも女でもいいんだなってわかってたし、どっちとも付き合ったことがあったんだけど、自分から誰かを欲しいと思ったのは、本当に初めてだった」
暗闇に咲く花のような如の白い横顔に、是俊はいつの間にか見惚れていた。涼の美しさは、冷たく冴え冴えとしていたが、如の美しさには、雨に打たれた後の花のような、気怠げな魅力がある。
如は、ふっと現実に引き戻されたかのように是俊を見た。
「綺麗な顔だって、よく言われたんだよ」
何の前置きもなく、如は言った。そんな直截な表現は、如には似つかわしくなかったが
「今でも、言われてんじゃん」
是俊はからかうような声音で如を見つめた。
「嫌だったくせに……そう言われることがすごく嫌だったのに……どこかでそれを、自負してたんだと思う。きっと、皆そう思うだろうって、たぶんどこかで、そう信じてた」
「綺麗だろ。どう見ても。俺はそう思うし、俺は多数派だって自信もある」
如は何を言おうとしているのだろう……是俊は、下心のない言葉をようやく探し出し、如に伝えた。
「だけど、何の意味もなかった」
「それって」
「その人は、僕を抱こうとした」
言いかけた是俊を如は遮って、当時を思い出すように、印象的な目を微かに細める。
「だけど、無理だった。彼は女の子が好きで……」
俯いて笑い、如は是俊を正面から見つめた。
「ごめん、って……初めてだった。人にふられたの」
過去に向ける慰めの言葉は皆無だった。それには何の力もないことを、是俊は知っている。安い慰めは、治りかけた傷さえ抉りかねない。是俊は、黙ってグラスのジンをあおった。
「僕には、性別なんて、意味のないものだったし、そう思ってた。付き合って欲しいって言われて、断る理由がなければ、誰とでも付き合った。だから、自分が望んだことじゃないから、楽しくなくてもいいと思ってたんだ。欲しいものなんて、何もなくて。人が決めてくれた自分の価値、みたいなものだけが現実で、後は何て言うか、自分を好きな人間に囲まれてれば、何となく生きていける、そういう変な安心感みたいなのがあって」
それだけだった、と最後はため息のような声で如は続けた。
「今も、そんな感じ?」
いつになく饒舌な如を驚きとともに見守っていると、是俊の胸にはざわつくような不思議な感覚が宿った。
「今?」
そうだね、と呟いて如はグラスの中を覗き込んだ。何があるわけでもないのに、何かをじっと探すように如はしばらくその姿勢のまま動かなかった。
「今も、そうなんだと思うよ。こんなこと、ずっと続くわけないってわかってるけど、今さら、自分をどういう風に変えていけばいいとか、よくわかんないし。周りが思ってるよりずっと、自分は
最後は是俊に向けて微笑んで、如はアルコールで唇を湿らせた。
「如さんが、一目惚れしたって人に、また、会ったりとか、ないの?」
お節介だという認識はあった。けれど、是俊の中でざわめきのようだった胸騒ぎは、次第に如を救いたいとでもいうような思いに変わりつつあった。
「また会って、また拒絶されて?僕、性質は悪いけど、ハートは弱いよ。それに、相手は僕のことなんか忘れてるよ」
如は笑った。初めて見るような弱々しい如の微笑み。儚げな容姿を裏切って常に毅然としている如の、消えない小さな傷。その出来事が如にとってどれほど重大なことだったのか、是俊は初めて理解した気がした。
「意外とすごい覚えてたりして」
癒せないのだとしても、何かを伝えたくて。如の負担にならないよう、是俊は冗談のように言ったけれど、まさかと呟いた如は少しだけ微笑みを引きつらせるようにして俯いてしまった。
「もう、いいんだ。ずっと前に終わったことだし」
自らに言い聞かせるように、余韻のない如の声が是俊の胸を痛くする。
「如さんて、けっこう01で物考えるタイプ?」
そういうわけじゃないと思うけど、と如は首を傾げながら応じた。そういうのじゃなくて、と躊躇ながら言葉を探す。
「何だろう。何でか、自分は、誰のことも好きにならないんじゃないかって勝手に思い込んでて……それで、一目惚れして、世界観はちょっと変わったんだけど、でも、結局そこは、僕が行くべき場所じゃないっていうか、僕には立ち入れない場所だったっていうか。どこかで、冷めてるんだろうね。やっと欲しいものが見つかったのに、それは絶対手に入らなくて。それがわかって、僕にはたった一つの願いしかなかったのに、それさえ叶わないんだって、そう気付いた。だったら何も望まない方がいいのかな、とか、そんなこと思ってた」
今はそういうこと考えないけどね、まるで是俊を労わるように微笑んで、如は座ったまま軽く伸びをした。
そう、と如は思い出したように是俊に顔を向けた。
「あの時は、自分っていうものの価値のなさに、うんざりしたんだ。綺麗な顔、だから、人はちやほやしてくれた。僕には、それしかないのに、やっぱりそこって、大して重要じゃなかったんだって」
「……」
沈黙は、如の望んでいたものだったらしい。如もまた、グラスを空け、杯を重ねた。
「つまらない話したね。ごめん……」
少し酔ってる、と如は呟いて、空のグラスをテーブルに置き、ソファの背もたれに頭をのせた。
アルコールの熱のように徐々に、けれど確実に広がる沈黙。是俊の耳には、夜を走り続ける秒針の音が初めて聞こえた。
何を考えているのか、如は空ろに瞬きを繰り返している。口元は微かに笑っているようで、潤んだような眼差しは、寂しげにも悲しげにも見える。先ほどまで饒舌に話をしていた時とはまるで別人のような、静まり返った如の気配。あるいはその顔は、これまで人に語ることのなかった秘密を打ち明けて安堵した表情なのだろうか。
秘密?是俊はその言葉を思いついた時、何かに躓いたような気がした。どうして如は、そんな打ち明け話をする気になったのだろう。
「何か、あった?」
是俊の問いに如は不思議そうな顔をした。何も言わず是俊を見つめるその様子は、どことなく苛立っているようにも見えた。
「今まで、秘密にしてたんじゃないの?」
自惚れなのだろうか。冷静な如の瞳を見返しながら、是俊は確かめるように続ける。
「何も、ないよ」
是俊の予想通り如は目を伏せて微笑む。如の微笑みは、本人が表現することのできない感情の代替なのだと、是俊は不意に気がついた。そして、如は秘密を話したくなった理由はまだ、秘密にしておきたいらしい。打ち明けられた秘密と、それを取り囲むもう一つの秘密。如との距離は以前よりずっと近くなった筈だった。けれど、全てを見せるつもりはないと、如は言外に囁く。これが、二人にとっての絶対的な距離なのだと、踏み込めない距離なのだと、是俊は如にそう言われた気がした。
是俊が感じたのは、もどかしさであり、悲しみでもあった。何故、こんな気持ちになるのか。ぼんやりとした如の横顔を是俊は見上げた。テーブルにグラスを置くと、氷がからりとなった。
如が、緩慢な仕草で是俊に顔を向ける。
是俊は迷わず立ち上がり、如の体を両膝で挟むようにして、おおい被さった。如は驚きはしなかった。ただ、透明とも空ろとも名状しかねる如の目は、是俊が知る何より、その瞬間美しかった。
「……」
如の指が、震えるように動いた。
自分らしくない余裕のないキスに、是俊は戸惑った。激しいキスは濡れた音を立て、是俊をいっそう刺激した。如は、始めは身を引いていたが、次第に自ら唇を押し付けるようにして是俊のキスを受け入れた。如が苦しげに短い息を漏らすと、是俊は如の体を抱きしめた。
こんなふうに、と是俊は不意に思った。こんなふうに、互いを求め合うようなキスをしたのは、一体いつが最後だったか。涼とは、もう長いこと関係を持っていない。そんなことを、突然思い出した。
「や……」
是俊の指先が首筋に触れると、如はキスの合間に小さな声を上げた。しかし、それさえ是俊を煽る結果となった。
シャツのボタンを器用に片手で外し、是俊の手が、如の素肌に触れる。体が火照っているのか、如の体を、是俊は温かいと感じた。涼は体温が低くて……触れるたびに、いつもひんやりとしていた。
また、何故か、涼のことが頭を掠める。涼は……こんな光景を目にしたら、怒るだろうか、それとも泣くだろうか?いや、どちらも違う……是俊には、そんな気がした。涼の怒った顔を、涼の泣き顔を、是俊は思い出せなくなっていた。
(思い出せない?)
是俊は、はっとして我に返った。気付くと、是俊と如の瞳は、わずかに離れたところに存在していた。
「……」
気まずい沈黙。半ば肌蹴られた如の胸元には、それでも逃げそびれたような是俊の手があった。如は、是俊の瞳から目をそらさず
「涼くんのこと、思い出した?」
そうきいた。
「いいんだ」
是俊は言いながら、如の首筋に唇を落とした。如はそれには抵抗せず、そっと吐息をつき、
「よくないくせに……」
囁くように呟いた。投げやりな如の声は、艶やかに、しかしひどく乾いていた。
倦んだ熱情と終わりを見いだせない沈黙が、行き場なく漂っていた。いっそ、涼が今、帰ってくればいいと是俊は不意に思った。
他愛もない戯れが、静かに、それでもずいぶん続いたようだった。
「如」
是俊は、何の気もなくその名を呼んでみた。しかしそれは思わぬ力強さで、二人を再び引き付けた。
ずるい、と言いかけた如の唇を塞ぎ、是俊は先ほどよりは穏やかな、しかし深いキスを求めた。如の手が、是俊のシャツにかかり、ボタンを順に外していく。露になった胸が重なると、互いの鼓動が高まるのを二人は感じた。
「如」
唇を離し、是俊は如のこめかみにキスをした。
互いに、理知的な表情しか知らない相手が欲望に身を投げ出す様を見るのは、未知のヴェールを剥ぐような、不思議な興奮を伴っていた。
床に膝をついた是俊は、如の片方の膝を自分の肩にのせ、ファスナーを口でおろした。如の押し殺した声が、音のない室内に響いた。やがて、濡れた音が次第にはっきりと聞こえ始めた。それとともに、如の歓喜の声も漏れ始める。
如の男のものとは思えない細い指が、是俊のセットされた髪を乱すように撫で付ける。片手をソファについて上体を支えてはいたが、腰が揺れるたびに、如の体は不安定に前後した。
是俊の愛撫は、本当は誰の為のものだったのだろう。一度だけ会ったことのある部屋の住人の顔を、如は束の間思い出した。
「だめ……放して」
苦しそうに、如はいよいよそう訴えた。耐えられない、というように首を小さく左右に振る。是俊は上目遣いにそんな如を見たが、如が逃れられないように、肩に乗せていた如の大腿に腕を回して脚を固定した。
「ことしく……お願い……もう」
細い体が、小さく痙攣した。是俊は口内に放たれた熱い液体をのどを鳴らして飲み干した。是俊が肩にのせていた如の脚を床に下ろすと、わずかに震えている。是俊はそっと如の腿を撫でてやりながら、如の脚の間に片膝をついた。
是俊の濡れた唇を、如はぼんやりと見つめていたが、その唇が自分のそれに重なり、口内を蹂躙し始めると、片手で、ゆっくりと是俊の下肢に触れる。
是俊は目を細めて如を見つめた。如の手が、忍ぶようにそっと是俊の下着の中に滑り込んでいく。
名残惜しげな唇を離し、是俊は如の耳元でその名を呼んだ。如、と呼んだ声は、是俊自身が驚くほど切なげに聞こえた。如は是俊の肩に顔を埋め、小さく息を吐いた。
「上手いな」
揶揄するように是俊は囁き、如は、少しだけ笑ったようだった。
如の繊細な指の動きは官能的で、いつにない快感を是俊にもたらした。それはまさしく、外からやってくる快楽だった。自分が教えたものではない、想像のつかない他人の動き。是俊は如の頬に手をかけ、視線を通わせると、口でして欲しいと告げた。
如は微苦笑のような顔で、体を下に滑らせた。是俊は逆に、背もたれに脚をかけるようにして、体の位置を上げる。
まもなく、指よりもまだ柔らかく、温かく濡れた器官に、是俊は包まれた。視線を下げると、世にも美しい麗人と、彼の行う背徳的で卑猥な行為が同時に目に入る。
「もう、いきそう……」
是俊は、絹糸のような如の髪に指先を遊ばせながら囁いた。如は是俊を咥えたまま、視線だけを上げた。
「飲まなくていい」
優しいような表情で囁かれた如は、微かに目を見開いた。何故か、如を汚したくないと是俊は突然思ったのだ。そして自分の手で受けようと腰を引いたが、
「如?」
如に腰を抱かれ身動きが取れなくなる。その直後、是俊は如の口の中に今夜芽生えたばかりの欲望を吐き出した。如はあごを突き上げるようにして、是俊の放った液体を全て飲んだ。
ちょっとした動揺をさとられないよう、是俊はソファに腰掛け、如の体を抱き上げるようにして腕におさめた。二人はまた、どちらからともなく顔を寄せ、今までで一番静かなキスをした。しかし、是俊が背中のほうから如の下着に手を入れると、如は初めて拒絶の意思を示した。
「後ろはだめだよ」
そう婀娜っぽく囁くと、如は是俊の首筋に顔を寄せた。
「どうして?」
是俊は仕方なく如の腰に腕を回しながらそう尋ねた。
「どうしても」
如は短く答え、それ以上何も言わなかった。
形のよい汗ばんだ額には、乱れた絹糸のような髪が張り付いていた。是俊は、如の額をそっと撫で、柔らかな髪をかきあげてやる。
ここまでして、その上こんな体勢で、如は何を考えているのだろう。今さら涼に義理立てしているとは思えなかった。そして、だとすれば……是俊には他に思いつかなかった。
「誰のこと、考えてる?」
是俊は、如の髪を撫でながらそう尋ねた。
「誰のことも」
如は顔を上げ、うっすらと微笑を浮かべていた。そして、したくないのは、と続けた。
「流されたくないから」
「流される?」
そう、と呟いた如は、両手で是俊の顔を挟み
「セックスは、好きな人としたほうがいい」
口元だけで笑みを作った。
「……」
どうしてそんな表情をするのか、如の目は全く笑っていなかった。それ以上、聞いてはいけないのだろう。是俊は疲れたように溜息をつき、
「もう、寝る?俺、あいつの部屋で寝るから……如さん俺のベッド使っていいよ」
何気なくそう言った。如はくすりと笑い、
「如でいいよ」
言いながら、是俊の上からおりる。
「細いな」
パンツの前を直し、シャツを拾い上げる如をしげしげと見つめながら、是俊は思わずそう呟く。闇の中でもはっとするほど、如の体は白く、しなやかに見えた。
「これでも、体重はけっこうあるんだけどね」
是俊の視線を気に留める風もなく、如はシャツに袖を通しながら応じる。
「是俊くんの部屋、どっちだっけ?」
同じ作りのドアが、リビングの向こうに二つ並んでいる。是俊は自分もシャツを羽織ると、
「右が俺の」
と言いながら立ち上がった。
「片付け、起きてからでもいいかな?」
小さく欠伸をもらし、如は転がっていた空き瓶をテーブルにのせた。使ったものと言えばグラスが二つきりだったし、つまみも作ったわけではなかったから、リビングはそれほど汚れてもいなかった。
是俊は、ああと気のない返事をした。
「……」
振り向いた如の、何かを言いかけた唇を、自分がひどく意識していることに是俊は気づかなかった。しかし如はそれに気付いたらしく
「いやらしい顔してる」
囁いて、是俊の頬を撫でた。
「俺が?」
何のことだと是俊は顔を顰めたが、如はそれを軽く笑い飛ばした。
「おやすみ」
如はそれだけ言い残し、さっさと部屋に引き上げて行った。是俊は何ともすっきりとしない面持ちで、主の帰らない部屋へ向かう。
何かが明らかに変わったのに、何ひとつ明らかにはできなかった。
自分のベッドで眠る如を束の間是俊は想像した。
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