第8話 モデル

 是俊が重厚な扉を開けて会議室に足を踏み入れた時、プレゼン席に立ってマイクを握っていたのは公認会計士の片岡篠吹だった。顧問の安藤は一番前の席で、甥でもあるという片岡篠吹を見守っていた。これが最後のアジェンダだったと思いだした是俊は、巨大な楕円形のテーブルにはつかず、会議室の後方で議事メモを取っていた如の隣に座った。

 前に行けばいいのに、そう言いたげに如は顔を上げて是俊を見たが、是俊は軽く肩をすくめ、膝の上でノートパソコンを開いた。誰も振り向く者はいなかった。是俊が経営会議に出席しないことを、あるいは出席したとしてもかなりの確率で遅刻することを、社長は黙認していた。年寄りに交じって数字の話をするのは期末だけでいいと宣言した社長は、最年少の執行役員である是俊には、現場やクライアントとの折衝の方を優先させたいと考えていた。もっと苦労してから本当に偉くなれ。そう言って自分に自由に動きまれる環境を与えてくれた社長に是俊は感謝し、同時に尊敬の眼差しを向けていた。

 是俊のモニターの隅でメッセンジャーが起動した。

 『珍しいな。間に合ったか』

 そうメッセージを送ってきたのは他でもない、社長の中村なかむらだった。入室を誰にも気づかれていないと是俊は思っていたのだが、中村は見ていたらしい。

 はい、久しぶりに、と悪びれず是俊が返信すると、中村は前を向いたまま文字を打ち込む。

 『片岡先生の話を後で冴島に聞いておけ。D社の粉飾決算、新聞じゃ書けない話してたぞ』

 『了解です』

 法改正に伴う決算書類作成上の注意点、というような話を片岡篠吹はしている。そういえば今朝のニュースで耳にしたような話題だと是俊は顔を上げた。プロジェクターに何も投影されていないことを考えると、片岡篠吹はほとんど何の準備もせずにアドリブで話をしているのかも知れない。理路整然と、よどみなく進んでいく話はわかりやすく、重要な情報がしっかりと頭に残る。

 落ち着きがあってよく通るいい声をしていると是俊は思った。聞く者に安心感を与える声は、それだけでプレゼンの質を上げられる。しかも、片岡篠吹は長身で顔もいい。自分が片岡篠吹に好感を持てないのは、あるいは単なるやっかみのせいなのではないかと是俊は急に不安になった。

 傍らの如はキーボードを叩きながらも時折顔を上げて篠吹を見る。心なしかいつもよりも真剣な眼差しをしているように見える。

 「……」

 じっと横顔を見つめすぎたのか、何?というように如が是俊に目を向けた。何でもないと首を振って、ちょうど話し終わった片岡篠吹への拍手に是俊も加わった。

 「相変わらずかっこいいな、若先生」

 会議室を後にしながら、是俊は傍らの如にそう言った。

 「若先生って……ああ、篠吹さん?」

 「如さん仲いいの?」

 意外だったのか、是俊は頭半分ほど下にある如の華やかな美貌を見返した。

 「仲いいって言うか……飲み友達、かな。別にすごい親しいわけじゃないけど」

 そうなんだ、と是俊は呟いて

 「安藤先生はもう引退?」

 やや声をひそめて如に尋ねる。年度の半ばではあるが、安藤監査法人の所長である安藤は、下半期における監査業務などを全て篠吹に任せるという旨を先ほどの会議で宣言していた。六十に手の届こうかという初老の男性だが、甥に似た長身とがっしりとした体格に恵まれた紳士だった。勿論仕事に関しても一流で、事務所の長という座にありながら、自らも多くの顧客を抱え精力的に仕事をこなしてきた。しかし、近頃持病の腰痛が悪化し始めたのを機に、甥である篠吹に自分の仕事を任せることにしたらしかった。

 「引退するには早すぎるよ」

 如は柔らかく笑い、老いても精悍な印象の残る安藤の顔を思い出した。若い頃は篠吹に似た美丈夫だったのだろう。話し方も快活で、自信に溢れ、しかしどこかに優雅なものを感じさせる安藤に如は好感を抱いている。無理だということは承知していたが、自分もあんな風に年がとれたらと、密かに思っているのだった。

 「ほんとはね」

 如は声音を落とし、周りを見回した。

 「今までの仕事もだいたい篠吹さんがしてたんだよ。先生は最終的なチェックとして目を通すくらいで。先生は篠吹さんの仕事に満足してるし、これからに期待もしてる。だから今日のは、篠吹さんに対する激励みたいなつもりだったんじゃないかな」

 「くわしいな」

 是俊は驚いたように如を見た。如はまあね、と微笑んで腕時計に目を落とした。

 「それじゃあ、僕、行くね。次ランチョンだから」

 「そうなんだ……。あ、今夜って、暇?」

 是俊はエレベーターホールで立ち止まり、秘書室に向かう如を引き止めた。

 「夜?うん、空いてるよ」

 「飲みに行かない?久しぶりだし」

 如はいいよ、と事も無げに応じ

 「それじゃ、終わったら連絡して」

 そう言うと足早に行ってしまった。

 「……」

 一体いつからこれ程如のことが気になるようになったのか。是俊は後姿が見えなくなるまで、エレベーターを呼ばずに立っていた。


 「タクミ、また背伸びたんじゃない?」

 最終的な衣装チェックをしていたスタイリストが顔を上げてモデルを見た。

 「そんなことないと思いますけど」

 癖のないしなやかな黒髪の下の目をわずかに見開いて、彼は澄んだ声でスタイリストの香坂万理こうさかまりを見返した。

 「そうかな……まだ十九でしょ?男の子は意外と伸びたりするのよ、二十歳すぎても。ねえ、伸びたと思わない?」

 「タクミ?……ああ、言われてみれば、でっかくなったかもな」

 鏡越しに仲間とスタイリストを見比べながら、まなぶが答えた。

 「お前、さぁ」

 学はメイクがしやすいように顔は正面を向けたまま、鏡に映る友人に声をかけた。

 「何でもっと本腰入れてやんないの?」

 「……」

 タクミは何も答えず、スタイリストの指示で軽く首を仰け反らせた。

 「ほんとよね。私もそう思うんだけど、バイトじゃなくて専属になれば?あんたのこと、欲しがってる事務所あるってきいたけど?」

 「俺は……別に」

 二人にせめられ、タクミは苦笑しながら視線を伏せた。

 「タクミ、変更でたからちょっとスタジオ来て」

 「はい」

 彼にしてみれば調度良い助け舟といったところだったのだろう。タクミはスタッフに呼ばれると、すぐに控え室を出て行った。

 「逃げられた」

 と、学が言うと、香坂が声を上げて笑った。

 「勿体ないね、あの子。ファンだって多いし、仕事もけっこう入ってるんでしょ?」

 「そう。でも月に何本とか決めてるみたいでさ、何でだろうな」

 知ってる?学は自らの仕事を黙々とこなしていたメイクの村瀬むらせに初めて声をかけた。村瀬は芸大を卒業してからメイクの勉強を始めたという、まだ経験の浅いアーティストだった。華やかな業界の人間らしくなく寡黙な青年だったが、メイクの技術には定評があった。タクミとはお互い、口数の少ない者同士気が合うのかもしれない。彼らが組むことがここ最近多かったこともあり、学は村瀬に興味を抱いていた。

 「さあ」

 村瀬は学の予想通り、曖昧に笑っただけだった。知っていても、いなくても、村瀬はそう答えるだろうと、学はふんでいた。

 「でも村瀬さんて、周二しゅうじさんの友達なんでしょ?」

 「そうなの?」

 これは香坂も知らないことだったらしい。彼女はハンガーにかけられていた学の衣装を手に振り向いた。周二は、ファッション専門のフリーカメラマンで、海外の有名ブランドからも声がかかるような若手の期待株だった。

 「そうだよ」

 困ったように微笑し、村瀬は学の椅子を引いた。

 「タクミは周二さんの紹介だから、知ってたのかなと思って」

 「俺も詳しくは知らないよ。タクミ君は、周二の甥っ子の友達だってことくらいしか……」

 「へぇ」

 学は香坂から衣装を受け取ると、申し訳程度に区切られたカーテンの向こう側で着替えを始めた。

 「あいつ、さ」

 カーテン越しの学の声に、二人は耳を傾けた。 

 「何考えてるか、全然わかんないでしょ?」

 「何?急に?」

 香坂の不安げな声に、学が笑う気配が伝わった。

 「綺麗な面してさ、人形みたいだと思わない?何かふわふわしてるっていうか、何にも執着ないです、みたいな感じしない?それにさ、あいつ見てると何か、何となくさ、不安になんだよな」

 それ以上誰上何も言わなかった。重苦しいような沈黙が、一瞬室内を支配した。しかしそれを壊したのは、他でもなく学自身だった。

 「万理さん、靴」

 明るくそう言って、学はカーテンから飛び出してきた。

 「あ……はい」

 学は靴を履きながら、首をもたげて村瀬を見る。村瀬は学の視線に柔らかな笑みで応じながら

 「それは、彼の問題だよ」

 短く、そしてきっぱりと言い切った。いつにない決然とした村瀬の様子に学はいささか驚いたようだった。

 三人はそれ以上タクミの話題に触れることなく、それぞれがなすべき仕事に専念した。


 一度だけモデル仲間に連れられてきたことのあるバーに、涼は一人で訪れた。多くの写真がかけられた、簡素だが趣のある店内。普段一人で飲み歩くようなことはほとんどしなかったが、今日はどうしてもここへ来たいと思った。

 “I know”というタイトルの一枚のモノクロームを眺めながら、涼はコロナのビンを手に取った。

 目も眩むような激しい光に意識を奪われる瞬間が、涼は好きだった。何もかも忘れることを強要されるような緊張感の中で、自分がモノになっていく感覚を味わう。二度とない刹那を捕らえるのか、あるいは切り刻むのか、それが何を意味するかを涼は知らなかった。ただ、全てから解き放たれるような瞬間を愛していた。

 「考えてくれたか?」

 カメラマンの周二は、撮影が終わるとすぐに涼の元へやってきた。辺りを憚るような小声には、他のモデルとの間にはない親近感がある。涼は、苦笑を浮かべ、首を横に振った。

 「どうして」

 周二はため息をつき、それから涼の行く手を塞いだ。涼は、俺は、と言いかけ口をつぐんだ。

 「また是俊に頼めば引き受けてくれるか?」

 「いや、そういう問題じゃなくて」

 涼は深い陰影が印象的な目元を曇らせ、周二から視線を外した。

 「どうして?是俊にも相談してないんだろ?理由を言わないならあいつに直談判するぞ」

 周二は腕のいいカメラマンだった。仕事に対する彼の情熱は涼も認めていたが、それは時として強引で、ひどく子供じみてもいた。涼は、ふっと小さく笑った。

 「有名になりたいとか全然思ってないし、むしろやめた後のこと考えると、これ以上深入りしたくないっていうか……すみません」

 それ以上何かを言われる前に、と、涼は周二のわきをすり抜けて控え室に戻った。

 もうずっと、周二からはプロへの誘いを受けていた。つまり、事務所に所属し、職業としてモデルにならないか、というのだ。

 モデルにも、なりたくてなったわけではなかった。ただ、是俊に勧められたから、あるいは是俊に頼まれたから渋々引き受けたまでだ。家にもいくらかの生活費は入れているし、家事だってこなしている。だからこれ以上是俊に義理立てする必要もないはずだと、涼は、そう考えていた。

 白い手。時を止めたモノクロの空間の中で、その手の主は何を思い、何を求めていたのだろう。冷えたガラスを唇から離し、涼はしばらく写真に見入っていた。

 素人にしては綺麗な手だが、この写真のモデルはいわゆる手タレではなさそうだった。しかし、その手には多くを語りかけてくるような不思議な躍動感がある。見る者によって印象が変わるようなモデルの無表情。それに限りなく近い、一連の動きの合間。捉えどころのない、固まってしまった表情にはない曖昧な筋肉の動きを、写真は見事にとらえていた。

 「タクミ?」

 いつの間に背後に立ったのか、突然かけられた声に振り向いた涼は目を見開いた。

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