第6話 邂逅

 「本当にお好きなんですね」

 バーカウンターの隅は篠吹の定位置だった。ああ、とマスターを見て小さく笑った篠吹は、視線を再び壁に飾られた写真に戻す。

 「あいつも、喜びます……」

 マスターは、拭いていたグラスに目を落とし、他の客には聞こえないほど小さな声で呟いた。

 マスターの亡くなった友人の遺作は“I know”というタイトルで、舞い落ちる花弁とそれに述べられた手指を写したモノクロの写真だった。花びらは恐らく桜のであり、手の主はまだ若い男性ではないかと思われた。写真の手指は細くしなやかで、一見すると女性の手と思われた。しかし同時に、成長過程特有のたくましい生命力と不安定さのような相反する印象をもあわせ持っていた。大人になりきれない、けれど既に幼少と呼ばれる時期は過ぎ去ったジレンマの中で、自分の手で何かをつかもうともがいている存在。篠吹にはそれが少年のように感じられ、モデルは男ではなかったかと考えていたが、マスターも、モデルが誰であるかまでは知らず、撮影者がこの世から去った今、真相を知る人間は、それこそモデル自身だけだった。そして本人でさえ、あるいはそんな写真のことなど忘れているかも知れない。

 芸術品はいつも作者から離れ一人歩きする。写真は特に、その存在を生み出していた時間や空間というものからも自立し、存在しない世界を語り続ける。篠吹は、人の心の内からしか生まれない絵画や音楽というものより、人の外側にあって、人からも世界からも切り離された写真という芸術が好きだった。

 「片岡さんは、もう撮らないんですか?」

 「最近は忙しくてなかなか。それに俺はただ好きってだけで、それで身を立てようとは思わないし……本当にヘタの何とかですよ」

 「あいつもそうでしたよ。勤め人で、仕事の合間にモデルを探して、写真を撮って……」

 懐かしいですね、とマスターも写真に目をやった。五十をそこそこ過ぎたくらいに見えるマスターは、白髪一本見当たらない見事な黒髪をオールバックにした、小柄な男性だった。写真を撮った友人というのは、もう二十年近く前に病気で亡くなったらしい。結婚しておらず、家族もいなかった彼の作品の多くをマスターは譲り受け、広くはない店内の壁に数点飾っていた。元々は季節によって作品を替えていたのだが、常連である篠吹のたっての希望で、カウンターの隅から一番よく見えるこの作品だけは、一年中飾られることになった。

 「本当に、いいね」

 篠吹はグラスを手に、白い花弁に伸ばされた、たおやかな指先に見入る。それは何かを掴もうとし、触れようとし、受け止めようとしている、何かを求める手のようだった。

 「差し上げますよ。ここまで気に入ってくださる方の傍にいければ、写真もあいつも喜ぶでしょう」

 何度目になるか、気のいいマスターは篠吹にまたそう言った。篠吹はマスターに顔を向け笑う。

 「そんなことしたら、もう来なくなりますよ。それに俺以外にも、この写真を気に入ってる人はいるだろうし」

 「でしたらせめて、この席だけはいつでもご用意しますから」

 細い目をさらに細め、マスターは頷き、そのまま、他の客のチェックの為、カウンターの外へ出て行った。

 篠吹は写真から視線を逸らし、斜め後ろのボックス席を見た。今日は平日のせいか、テーブル席は空いていた。

 その席に座って、写真を見ていた人間がいた。もう、会うことはないかも知れない面影を篠吹は思い描き、空席から目を離した。

 「すみません」

 「失礼」

 狭いバーの通路で、二人は一瞬顔を見合わせた。手洗いから出てきたのは、まだ少年とも呼べそうなすらりとした体つきの男だった。篠吹は、すれ違った彼を振り向いた。

 誰かに似ている……いや、似てはいなかったかもしれない。しかし、彼は今、自分に何かを思い出させた。

 (……あれ、か……)

 篠吹は今より若かった自分を思い出した。そして、気まずく別れてしまった、誰かに思いを馳せる。

 席に戻ってから、篠吹は背後に先ほどの少年と彼の仲間らしい若者のグループを見つけた。五、六人のグループだったが、全員が全員、整った顔立ちをしている。

 「みなさん、モデルらしいですよ」

 篠吹の視線を追って、カウンターの中にいたバーテンがそっと耳打ちした。

 「なるほど」

 彼は、そんなモデル内でもひどく目を引いた。あるいはそれは、彼が、記憶の中の誰かを思い出させるせいかも知れなかったが。すれ違う時かすかに伏せた瞳が、印象的だった。追憶にしか存在していない誰かも、綺麗な目をしていたような気がする。

 彼は、仲間たちの中でもひっそりと、まるで傍らには誰もいないかのような、どこか空ろで寂しげな様子だった。そして、しばらくさ迷うように動いていた少年の視線は、篠吹の好きな、あの写真の上でとまった。

 「よく来るの?」

 篠吹は何気なさを装って、バーテンに声をかけた。

 「そうですねぇ……その時によってメンバーが違いますけど、たまに」

 篠吹は彼らに背を向けると、グラスを手にとった。

 「今日は、初めて見る顔も混じってますね。一番手前の、大人しそうな彼。彼は初めてですね」

 若いバーテンが言う彼、こそ、篠吹が先ほどすれ違った少年だった。

 透き通るように青白い肌をしていて……髪は日本人にも珍しい程深い黒だった。目蓋はさらに青白く、細い血管が透けて見えそうだった。長い睫毛が、切れ長の瞳をさらに強調し、ほっそりとした輪郭は、割れ物のような繊細な印象を見る者に与える。

 (似てるのか……?)

 篠吹は自問し、それから何気なくボックス席に目をやった。

 すると、突かれたように目を上げた彼と視線がぶつかる。篠吹は、柄にもなく戸惑い、すぐにまた背を向けた。

 似ている、とは思えない。ただ、当時の彼と年齢も近く、整った顔立ちをしているから……だから思い出すに違いない。彼のことは、忘れたつもりだった。だが、彼の記憶は、古傷の疼きのような感覚を持って、時折自分を襲う。

 寂しげに微笑した彼。あの時は、本当に酔っていて、記憶がないに等しい。彼のことは、鮮烈な夢のような印象としてしか思い出せなかった。

 明け方の部屋。自分を見下ろす、労しげな眼差し。白い手。綺麗な指。蝶の羽が触れたかのような微かな衝撃。長い睫毛。柔らかな囁き。乾いた唇。石鹸の香り……。

 どこまでが正しい記憶で、どこからが夢だったのかも判然としない。イメージと象徴化された彼の断片が、ぶつかり合い、溶け合いながら描き出す不思議な光景。夢と現実の境界線を曖昧に塗りつぶしたモノクロの記憶。モノクロームの白と黒を入れ替えたら、全く違う景色になるとどこかで読んだ。それは自分の見ていた光景と、彼の見ていた光景のことだろうか。二つの記憶は重なり合い、それでも全く異なった世界を映し出しているはずだった。

 反転する世界には、今も解けない謎の、あるいは目を背け続ける秘密の答えが隠されているのかも知れない。

 あの朝、目覚めた篠吹は一人だった。他人の気配は既になく、自分以外の人間がいた気配さえ消えていた。彼は、一体誰だったのか……。

 そんな名前のない記憶。それを今でもこうして思い出すこと自体、篠吹には不思議なことだった。

 写真に視線を向けると “I know”というタイトルが目に付き、ひとりでに苦笑がもれる。謎に包まれた写真のモデルも、出会ったばかりの少年も、きっと思い出の中の人物に繋がっているのだろう。認めることを拒み続けてはきたが、本当は気付いていた。確かに店内に飾られた写真はどれも自分の感性と合う。それは間違いない。だが、この一枚には特別な思い入れがある。

 明け方の闇の中で見た、彼の美しい手……それに、よく似ている。ゆっくりと舞う蝶のような軌跡を描いて、彼の手は頬に触れ、髪を撫でた。あるいはあれは、意図された動きなどではなく、躊躇いがちな震えだったのか。

 どうして、顔を思い出せないのだろう。思い出せさえすればまた、巡り合えたかもしれないのに。

 世の中には人間が多すぎると、篠吹は思ったことがあった。だから、二度と会えない人間が多くなる。今よりずっと多感で、世界は自分を裏切らないと信じていた頃は、一人との出会いに感動し、一人との別れに涙していた。それがいつの間にこうなったか……もう、何かに心動かされるということもない。ただ、自分が置かれた状況の中で最善を尽くすだけだ。そう、最善と周囲が考えるものを選びさえすればいい。後は本能とか、生理的な欲求とか、そういう逃れられないものが自分を世界と繋いでくれる。ただ、生きていさえすればいい。最近、そう思うことが増えた。

 仕組みやタネがわかってしまうと、それが何であれ存外つまらないものだ。何もかもわかったような気になると、世の中はひどく平和で平坦なものに見えてくる。世界の秘密を若くして暴いたわけではない。ただ、秘密の存在そのものが幻想だと気付いただけだ。自分の知らない現実は確かにたくさんある。しかしそれらは秘密や真理と呼ぶにはあまりに単純すぎる。原因は、たった一つ。自らの無知でしかないのだから。

 それでもなお、あの記憶に関わる全てが篠吹にとってはいまだ謎であり、解明したいと思う唯一の秘密だった。

 色彩にあふれたこの世界で、モノクロの秘密はかえって鮮烈で、離れがたい人肌のような熱を発していた。秘密という言葉の持つ、息苦しい甘さ。日常の内に存在しながら、現実の手が触れない場所に、秘密は蹲っているようだった。そして時折自分を誘う。気付けば間近に対峙している不思議。忘れたと言いながら立ち戻ることの、甘美な罪悪感。それは決して不快ではない。ただ足元が見えないような不安を掻き立てる。

 篠吹がそんな取りとめもないことを考えていると、わずかに風が流れ、爽やかな香りがした。顔を向ければ、あの少年が写真の前に佇んでいた。

 心の中を映すことのないガラス玉のような瞳。それでも覗き込む人間の心は、その奥底まではっきりと映し出しそうだった。端麗な横顔はきっと、彼を実際よりも年長に見せている。深い沈黙の淵にとどまるその様子は、何もかも悟りきった老齢の人間のようだった。写真のモデルは実は彼だったのではないか、篠吹はそんな幻想を束の間描いた。

 「……」

 彼は微かに目を細めた。

 澄んでいる、と篠吹は感じた。彼の瞳も、彼の持つ空気も、そして存在自体が透き通った不思議な気配を持っている。静まり返った湖面は鏡のようで、外部を映し出しはするが、底が見えることはない。彼からは、そんな透明な静寂が滲んでいた。

 しばらくの間写真をじっと見つめていた少年は、スマホが鳴ると、仲間の元へ戻り、そして一人店を出て行った。それは束の間の邂逅だった。

 「片岡さん?」

 彼が去って、失望だけが篠吹の胸に残った。マスターに訝しげに声をかけられ、篠吹は何でもないと苦笑し、首を横に振った。

 世の中には人間が多すぎる……何年ぶりにそんなことを思ったか、篠吹は白い手が求めるものの姿を思い描きながら新たな杯を重ねた。

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