第5話 愛人

 話がある、と緊張した声音で彩子あやこは如に電話をしてきた。如は、後でかけなおす、と言って電話を切ろうとしたが、彩子は直接会って話すことを如が了承するまで電話を切らなかった。物わかりのいい彼女には珍しい強硬な態度に何かあったのだろうと如は感じた。

 「大事な話って?」

 如が切り出すまで、彩子はいつまででも黙っていそうな雰囲気だった。

 如が彩子のマンションを最後に訪れてから一月以上が経っていたが、二人の逢瀬は、彩子夫妻所有のマンションで、もう何年も続けられていた。

 「……昨日は、誰と?」

 本題には入ろうとせず、彩子は如のグラスにワインを注ぎ足し、視線を上げぬまま尋ねた。

 「取引先の人」

 「女の人?」

 「男だよ」

 如は華奢なつくりのワイングラスを手に取り、顔を上げようとしない女を見つめた。彩子の眉目には、苦悩の色がはっきりと見て取れた。どうしたのと、如はゆっくりと尋ねた。

 「如」

 縋るような眼差しで如を見て、彩子は勢いよく立ち上がった。

 「彩子?」

 如はいぶかしむように女を見つめていたが、爪の先まで手入れの行き届いた白い手に促されるまま席を立った。

 疲れているな、と如は彩子の血色の悪い頬に触れながら思った。彩子も今年で三十八になる。自分の体の衰えを若い愛人に嘆くようなことはしない女だったが、如には彩子がこのまま美しく老いていくような気がしていた。

 性格的に、慎ましいと呼べるような女性ではなかったが、彩子にはそこはかとなく漂う品と、知性があった。事実彼女は聡明だったし、大抵のことには対処できる処世の術も心得た大人の女性だった。

 彩子は如にもたれながら、深いキスを求めた。

 如は、男としての性欲を感じ、それが当たり前の権利であるかのように彩子を抱いた。

 如の性欲には二種類あった。それは、ほとんど生理的な欲求とも呼べるような、女性を抱きたいという欲求。もう一つは、他人から求められ、意識を飛ばすほどの快楽に身を任せたいという欲求だった。後者の場合、セックスの相手は男ということになるが、体にかかる負担を含め、様々なリスクを負ってまで、好きでもない男に抱かれたいとは思わない程度に、如は淡白だった。

 如にとって、好きではない相手との行為は、どれもみな同じような遊戯でしかなかった。女でも、たぶん、男でも精神的な面での充足感にはそれほどの差がない。付き合う相手に対して失礼だという意識はあったが、心から愛しいと思うことができない以上、気まぐれの優しさに似せながら上辺を取り繕うことでしか他人と触れあえなかった。自分と付き合う人間が、自分のことを心底愛しているのなら、どれほど不毛な関係であろうと幸せなのは自分ではなく相手の方だと如は思う。欲しいと思うものを手に入れ、触れることさえできるなら、それのどこが不幸だと言うのか。傲慢だと言われても仕方ないけれど、自分の傍らで幸せそうに微笑む恋人の横顔に出会う度、如は違和感と嫉妬にも似た感情を覚えた。

 「夫が……」

 と、熱気の去ったベッドの中で彩子はようやく重い口を開いた。

 「転勤になったの。短期の出張じゃなくて、二年も……香港に」

 そこまで聞くと、如には彩子の言わんとしていることが理解できた。

 「私も」

 行くの……彩子は消え入りそうな声で呟き、如に体を摺り寄せた。

 「そう」

 如は彩子の長い髪を撫でながら、それだけしか言わなかった。

 それ以上、何が言えただろう。如は黙ってベッドをおりた。

 「如?」

 「シャワー、浴びてくるよ」

 引きとめるような気配を、ほんの一瞬だけ感じたけれど、ベッドの中で、彩子がどんな表情をしていたのか、如にはわからない。そして、その顔は、目に見るよりはるかにはっきりと如の脳裏に浮かんだ。

 如がバスルームから出ると、嗅ぎ慣れた、甘く、重たげな香りに室内は満たされていた。照明は全て消され、部屋中に蝋燭の灯が揺れる。 

 彩子は、ガウンを纏い、ダイニングのテーブルについていた。仄かに震える光に照らされる彩子の顔を、如は黙って見下ろした。

 蝋燭の光が好きだと、いつか如は彩子に言った。彩子はそれ以来時折、部屋中に蝋燭を灯すようになった。

 「覚えてる?蝋燭の明かりの中にいると、夢を見てるような気分になるって、ずいぶん前に言ったの。なんてロマンチストなんだろうって、あの時初めて如を可愛いと思えたのよ」

 「そんなこと、言った?」

 彩子はゆっくりと顔を上げ、上目づかいで如を見ると、言った、声にはせず唇だけを動かした。

 あれは、と言いかけ、如は思いとどまった。蝋燭の明かりが好きなのも、夢を見ているような心地がするのも本当だった。けれど、そう言ったのはぼんやりとした灯が生み出す心地よさからではなかった。

 これが夢ならいいと思うことが、如にはよくあった。意味がなくても、それ故に胸苦しくても、夢ならば全て許される。今はただまどろみの中で夢を見せられているだけで、自分には何の罪もないのだと、そんな風にさえ信じることができるから。どこまで現実から目を背けたいのか。目を背けて、何を見たいのか。しかしその答えを見つける前にいつも目が覚める。甘い悪夢にうなされた後のような、倦怠感と不安とともに。

 「平気なんだ……」

 ひとり言のような声で彩子は言った。

 「仕方ないよ」

 如はかすれた声で応じ、立ったまま飲み掛けのワイングラスを手に取った。

 「仕方ない……潔くて、ずるい言葉」

 彩子は微笑で如を仰ぎ、それから目を細めた。

 彩子も、すでに悟っている。そして、覚悟もしているのだろう。しかしそれでもなお、引き止められたいと、ただそう願っている。

 「二年もずっと一緒にいられたら」

 椅子を引きながら如は呟いた。

 「きっと、子供だってできるよ」

 「ひどい男。そんなこと……わかってたけど」

 彩子は引きつった笑みを浮かべたが、すぐに表情を曇らせうつむいた。

 「何にでも終わりはあるし……叶わない願いなんて、みんな持ってるよ」

 「如?」

 慈しむような如の声には、隠し切れない寂しさが滲んでいた。彩子は顔を上げ目前の愛人を見つめたが、その寂しさは自分と共有されることのない、別の悲しみなのだとすぐに理解した。

 如は、ワインを飲み、それからどこか遠くに視線を投げた。

 「こんな時なのに、如の心はここにはないの?」

 責めたくはない。後味の悪い別れなど、彩子も望んではいなかった。けれどあまりにも落ち着いた如の態度は、むしろ冷酷にさえ彼女には感じられる。

 「捨てられるのは、私の方……」

 やがて、溜息をついた彩子がぽつりと呟いた。

 如は彩子の言葉に何かを感じたように、ふと彼女に視線を向けた。彩子は、如の眼差しの中で、それでも、精一杯美しくいたいと願った。

 如、と呼びかけ、彩子はゆっくりと口を開いた。

 「如はまだ若いんだから、もっと欲しいものをねだっていいのよ」

 空ろに震える明かりの中で、如の瞳がわずかに見開かれる。ああ、何て美しい男なんだろうと、彩子は改めて思った。

 「欲しがりなさい。捨てられないものができれば、人間は選べなくなるんだから。わからないでしょ?私が、どれだけ如を好きか……。今この場で貴方を殺して、一緒に死にたいくらい、私は如が好きよ」

 激しい言葉を、優しい声で告げる彩子に、女には誰しも母性があるのだなと如は不意に思った。彩子は、自分にとって女でしかなかった。肉体と、軽やかな精神の戯れだけで触れていた女。それでも、今の彩子には、自分を包む深さがある。

 「別れたくない。如に気持ちがあろうとなかろうと、それは私にとって問題じゃないの。だけど……私には、選ぶことも許されない」

 わかる?と彩子は如に問う。

 「貴方は、私の人生のたった一人だった」

 彩子は目を閉じ囁いた。

 「……」

 如は黙って席を立った。話すことも、聞くことも、それ以上なかった。少なくとも、如にはそう思えた。

 元気で、と短く告げ、如は彩子のマンションを後にした。彩子は泣かなかった。同じ感情を共有していなくても、彩子の苦しみは、痛いほど感じられた。

 彩子は泣かなかった。そんな彼女に抱いたのは尊敬の念なのかも知れない。

 それでも、この気持ちはどこへも向かうことがない。愛しているふりをして、幸せなふりをして……自分の欲しいものを探し続けている。そして、自分の欲しいものは、彩子の元にはなかったと、別れの後で改めて感じる。

 どこへ行っても同じだと、いつか諦めを覚えた。叶わない願いを抱いているのは、自分だった。本当は欲しがっている。しかし欲しくないものにばかり、自分は声を上げ、腕を伸ばす人間なのだと、ぼんやりと思った。

 欲しがりなさい……エレベーターをおり、豪華な造りのホールを抜けると、彩子の言葉が蘇った。

 「如!」

 エントランスを抜けると、背後から誰かが呼んだ。まさかと思い振り向けば、そこにはガウン姿の彩子が息を乱して立っていた。

 彩子は、何かをつかんだ手を自分の方へ差し伸べた。

 「タバコ……ライターも」

 必死な表情で、そんなものの為に彩子は自分を追ってきたらしい。人目を気にし、常に身奇麗にしている彼女が、ガウンと、サンダルで、こんなところまで自分を追ってきた。驚きと悲しみのない交ぜになった感情の中で、笑みがこぼれた。

 「捨てといて。タバコやめたんだ……ライターも、返すよ」

 「……」

 彩子は、それ以上何も言わず、追っても来なかった。

 あのライターは、彩子が初めて自分にくれたものだったなと思い出した。だから、無意識にも、置いてきたのかもしれない。酷いな、と何に対してかわからないまま呟く。

 一方の彩子は、ガラス越しの光を背に、しばらくは同じ場所から動かなかった。自分にとって、たった一つの恋が終わった瞬間だった。近所の目も、心無い噂も、そんなものの存在自体を、彩子は忘れ果てていた。

 持ち主に返ることのなかったタバコとライター。気持ちをつき返すくらいなら、どことも知れない場所に、連れ去ってくれる方がはるかにいい。彩子は如を心中で詰り、それからまた絶望だけを味わった。そんなことがわからない如ではない。

 あえてそうしたのだと、彩子は闇に消えて行く後ろ姿に思った。

 如は、顔に似合わず、傍からは想像できないほどの情熱を秘めた男だった。そして、ほとんどの人間にはそれを隠し通し、ある者にはその存在を感じさせるだけで、決して見せようとはしない。如の情熱はいつも……向かうべき対象を求めていたような気がする。

 如には誰か、好きな人間がいるのではないかと、彩子は女性特有の勘のようなもので思った。

 駅への道を、急ぐわけでもなく、如はいつもと同じペースで歩いた。

 また一つ何かが終わったような気はしたが、後悔や寂しさは訪れそうもない。付き合う、別れる、そんな言葉には意味を感じない。心が打ちのめされるのは、そんな露骨な言葉に出会った時ではない。現実はもっと無口で、それ故に残酷で生々しい痛みをもって人に迫る。

 今はまだぼんやりとしているのかもしれない。彩子と過ごした時間のことではない。この心を覆っているのはむしろ、眠りから覚めた懐かしい感情だった。苦しくて、引っかき傷のもたらす微かな痛みのように甘い。それは自分自身が生きていることを教え、思い通りにならないことのもどかしさを教える痛みだった。そうして単調に過ぎていく時間を唐突に生々しいものに変え、自分の芯を焦がしながら突き動かしていく。

 忘れようと思っていたし、自分でももう忘れたものだと思い込んでいた。望み続けることに、意味があるとは限らない。求め続けてさえいれば、いつか手に入るとも限らない。叶いもしない願いに縋りながら生き続けるのは辛い、そう思ったからこそ、灯を吹き消すように過去から目を背けた。

 彩子は、自分を、人生のたった一人だったと言った。彩子が自分を思うほど真剣に、自分も彼女を思っていたわけではない。それでも二人で過ごした時間を、彩子は本当に幸せだと思っていたのだろうか。

 叶わないのだとしても、どんな形であっても、思いを寄せる相手の傍らにいられることは、やはり幸せだろうか。 如はふとため息をついた。自分は決して、それで満足することはないだろうとそう思った。

 掠り取るような儚い幸せなら欲しくない。自分がどれだけ欲深いかは、自身が一番わかっている。ほんのちょっとなら、いらない。欲しいのは全てだから。全てを得られないなら、欲することは止める。心の中に巣食う諦めという魔物は強大で、いつでも簡単に如の情熱や願いを飲み込んでいく。そうやっていつでも、如の心は平静を保っていた。

 欲しいものは全部手に入れたい。手に入らないものなら、欲しくない。

 何度となくくぐった改札を抜けた時、一瞬だけ振り向きたいような衝動に駆られたが、そのままホームへと向かった。この駅に降り立つことはきっともうないのだろうと、不意に思った。

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