第4話 友達

 「冴島さん、タバコ吸うんだ」

 如が鞄から取り出したタバコに目をやった篠吹は、いささか驚いたようだった。

 「ええ。片岡さんは?」

 「今は、もう。学生の時は吸ってたけど、同じの」

 懐かしいな、と篠吹はパッケージを手に取り、口元だけで笑った。

 「僕もそんなに吸うわけじゃないんですけどね」

 如は篠吹の手からタバコを受け取ると、テーブルにやってきた店員にビールを注文した。

 「初めてですね、プライベートでご一緒するのは」

 そう言った如に、篠吹は悪戯をしかける子供のような瞳を見せ

 「冴島さんは毎日誰かしらに誘われるだろ?」

 笑いながらきいた。

 「まさか。片岡さんと二人で飲みに行ったなんて言ったら僕、うちの秘書たちに絞め殺されるかもしれませんよ」

 如も笑いながら応じると、薄暗い店内を見回した。

 「いいお店ですね」

 篠吹が選んだのは、六本木の駅から程近い、和食ダイニングのレストラン・バーだった。如も名前だけは知っていた店だが、実際に訪れたのは初めてだった。

 店内は主に間接照明によってライティングされており、それほど凝った装飾はなかったが、そこがむしろ洗練されたものを感じさせ、同時にくつろぎを与えていた。客席同士のスペースも比較的広く取ってあり、隣の客の話し声はほとんど聞こえない。邪魔にならない程度の音量で静かなジャズが流れ、店員の動きにも無駄がなく、如は居心地のいい店だと素直に感じた。

 「それじゃ、お疲れ様」

 「お疲れ様です」

 よく冷えたジョッキグラスで二人は軽く乾杯し、半分ほどを一気に飲み干した。

 「いい飲みっぷりだね」

 篠吹の言葉に如はよく言われますと笑った。

 「何でも飲むの?」

 「そう、ですね。片岡さんは?」

 「俺も、そうかな。甘いのは得意じゃないけど」

 篠吹は如の問いに答えると、初めて話をするみたいだ、と、改めて如の顔を見た。

 「確かに。片岡さん、下のお名前は、篠吹さん、でしたよね?」

 如は迷うことなくそうきいた。秘書という職業は、一度会っただけで、人の名前と顔を一致させて覚えておく必要があるという。とは言え、自分がフルネームを名乗ったことはなかったから、渡された名刺をしっかりと確認しているのだなと篠吹は思った。

 「よく覚えてたね。冴島さんは……あれ、何て読むんだっけ?いくって振り仮名ふってあったかな」

 初めて如から受け取った名刺を見た時、綺麗な名前だと篠吹は思った。それから如と少しずつ話をするようになり、彼に興味を覚えてもう一度名刺を確認したのだった。

 「ええ、如です」

 心なしか如の表情がほころんだ。本当によく整った顔だなと、篠吹は如の美貌に改めて感嘆した。そして、この美しい男は一体いくつなのだろうと、突然ふって沸いたような疑問を口にする。

 「年は?」

 「え?」

 唐突な質問に、さすがの如も面食らった。篠吹も、いくらなんでも突然すぎたと反省し、苦笑交じりに弁明する。

 「年を、知らなかったから。それに仕事中でもないから、敬語も必要ないのに、と思って。そんなに、変わらないってきいたんだけどな」

 「今年で二十九ですよ。片岡さんが」

 如は言いかけ、それから少しだけ言葉を選ぶような間があった。

 「大学の先輩に似ている気がして。何だか、敬語になってしまうんです」

 柔らかに、はにかむように微笑した如。

 「大学の先輩?」

 「ええ。片岡さん、僕より少し上ですよね?」

 「二つ上かな」

 篠吹は言い終えるとグラスを空にし、近くにいた店員に、冷酒と猪口を二つと注文した。

 「だから冴島さんなんて、呼ばなくていいですよ。それこそ後輩みたいに思ってくださって」

 如も続けてグラスを空けた。篠吹は少し黙ってから

 「会社では、何て呼ばれてるの?」

 そんなことを尋ねた。そうですね、と如は首を傾げ

 「僕は割と、下の名前で呼ばれることが多いですね。如さん、とか。休み時間は、如ちゃん、かな。秘書課は僕以外みんな女性だから」

 「如ちゃん?」

 「そう。如ちゃんお昼どうする?って、そんな感じですね」

 「楽しそうだな」

 どこの会社でも見かける光景だが、昼時になると女子社員はいくつかのグループに分かれて昼食に出て行く。その中に男性が一人混じっていれば浮いてしまうだろうが、あの秘書課の中でも、如は目を引くことこそあれ、自然と溶け込めるのだろうと篠吹は思った。

 「片岡さんは?」

 「俺はそのままかな。所長の甥だって、みんな知ってるしね。むしろ気を使われてるかもしれないな。俺も毎日職場で女の子たちから篠吹ちゃんて呼ばれたいな」

 それを聞くと如は声を上げて笑った。

 「うちの秘書さんは、まぁ、何て言うか、みんなベテランだから。いないところで呼ばれてないとも限らないけど。会計士って、地味だからね。会議室でずっと数字を読んでるって暗い作業だろ?だから明るくてみんな仲いい職場って憧れるよ。うちにはそういう文化ないしね」

 「呼んであげましょうか?」

 「如くんが?」

 篠吹は笑いのおさまらない如の瞳を見つめ、不意に名を呼んだ。如は一瞬だけ驚いたようだったが、すぐにまた穏やかな表情を取り戻した。

 「篠吹ちゃんは、さすがにちょっとあれですけど。篠吹さんがいいなら、こういう時には」

 「この年になると新しい友達ができるってこともほとんどないから嬉しいけど。照れるな」

 篠吹は照れ臭そうに笑い、運ばれてきた如のガラスの猪口に冷酒を注いだ。

 「そうですね。僕はそもそも友達が少ないから、嬉しいですよ」

 如は、篠吹に冷酒を注ぎ返しながら楽しげに笑う。

 「誰からも愛されるだろ、如くんは。友達も多そうなのにな」

 篠吹は意外そうに如を見返し、酒を満たした杯を口元に運んだ。

 「そうでもないですよ」

 如は伏目がちに応じると、同じように冷酒を飲んだ。

 「広く浅くって付き合い方、僕はできない方だと思います」

 「そうか。会社とか取引先とか、確かに何かと知人は多いけど、プライベートで会いたいと思う相手なんてそうそういないかも知れないな」

 やがて注文していた料理が運ばれ、卓はあっというまに賑やかになった。他愛もない会話は弾み、二人はそれぞれに楽しい時間を過ごした。運ばれた料理を大方食べつくした頃、テーブルの端に置かれていた如のスマホが震えながら光を放った。

 「すみません。ちょっと出てきます」

 「どうぞ」

 画面に表示された名前を確認し、如はスマホを手に立ち上がった。恋人かな、と篠吹は思ったが、何気なく如を送り出した。

 篠吹にとって、如は非常に興味深い人間に思えた。礼儀正しく、明るく、穏やかで、本当に誰にでも好かれそうな男だと篠吹は如を評価していた。その容姿も、間違いなく彼の魅力の一つだが、それだけではない、如には内側から滲み出る知性や一緒にいる人間を夢中にさせるような不思議な雰囲気がある。

 そういえば、と篠吹は如がテーブルの上に置いたままのタバコを見た。席に着くなり取り出したものの、如はまだ一度もそれを口にしてはいなかった。禁煙者である自分に対する配慮なのか、あるいは、何なのか……篠吹がそんな疑問を抱き始めた頃、如は失礼しました、と戻ってきた。

 「大丈夫?」

 「ええ。申し訳ありません」

 「いや……彼女からかなと思って」

 席に着きかけた如は、顔を篠吹に向け、不思議な笑みを口元に上らせた。篠吹は自分の言い方が、何だか探りを入れているような感じがして、口をついて出た言葉を後悔した。

 「近くに、いいバーがあるんです。生でジャズが聴けて。よかったら今から行ってみませんか?」

 如は静かに席に着くと篠吹の言葉には何も返さずにそう切り出した。

 「勿論、かまわないよ」

 ほっとしたのも束の間、篠吹は如の微笑みに、今までとは違う意味のようなものを感じ始めた。それは悪意でも、好意でもない。ただ、ちょっとした違和感だった。

 「出ますか?」

 一瞬間をおいて、如は篠吹にそう言った。

 「ああ」

 如の笑みは相変わらず柔和で、とらえどころのない甘さを漂わせていた。しかし、篠吹には何故か、如が自分よりも優位に立っているような感じがしてならなかった。

 何の害意もなさそうに、にこりと微笑むと、如は篠吹に先立って席を立った。

 篠吹が如にともなわれて着いたのは、ブルーベルベッドというジャズバーだった。今夜はピアノとバスのセッションが行われており、さほど広くはない店内は混み合っていた。

 「いらっしゃいませ、冴島様」

 如は常連と見えて、すぐにカウンターの奥に二人の席は用意された。生演奏の舞台は、二人の斜め後ろにあり、首を巡らすと演奏している様子をつぶさに眺められた。

 その名の通り、店内は深い藍色で統一されており、それぞれのテーブルに灯った蝋燭の光がゆったりと、動く人影を暗い壁に映し出していた。

 「いつもの」

 バーテンダーにそう告げた如の白い横顔はさらに青白く、火影に浮かび上がる。篠吹はウィスキーを注文した。

 「いつもは何を?」

 「ジンです。ボンベイ・サファイア」

 吸い込まれそうに美しい眼差しで、如は囁くように答えた。本人にそのつもりはないのだろうが、暗く幻想的なこの空間の中で、如は一際華やかな幻のようだった。

 二度目の乾杯を済ませると、如は揺らめく光の中で篠吹の瞳を見た。

 「篠吹さんは、今お付き合いされている方はいらっしゃるんですか?」

 「いないよ。もう、しばらく」

 グラスの内に漂う琥珀の波を、篠吹は静かに見つめ、如の問いに短く答えた。

 「本当に?」

 「本当だよ」

 驚いたような如の声が、篠吹には何故か気になった。篠吹が顔を上げると、如はそっと目を伏せた。

 「篠吹さんなら、いくらでも相手が見つかるでしょ?」

 如は本気でそう思っているようだった。篠吹は小さく笑い

 「遊び相手ならね。そうは言ってもこの年だし、先のことを考えると慎重にならざるをえないからな。面倒なことはできる限り避けたい方なんだ」

 まんざら冗談でもなさそうに応じ、君は?と如に聞き返した。

 「僕は……どうでしょう。付き合っているような女性は、確かにいますが」

 やや声を落とし、如は答えた。曖昧な表現だったが、篠吹はそれ以上追及せず

 「彼女も大変だね。如くんみたいな綺麗な恋人を持つと、気が抜けない」

 いろいろな意味で、と付け加え、ウィスキーを一口飲んだ。

 如は何も言わず曖昧な笑みを口元に湛えながらグラスに唇をつけた。不思議な男だと篠吹は思った。よく芸能界に入らなかったと如の綺麗な横顔を盗み見て、篠吹はグラスを軽く揺らした。

 「好みは?どんな女性が好き?」

 え、と如は一瞬驚いたような表情をしたが、そうですね、と伏せ目がちに呟いた。

 「自立、してる女性ですかね」

 「自立してる?」

 「ええ。自分の価値観とか、考えとか、ちゃんと持ってる人が好きですね。甘えられたりするのは、あんまり得意じゃなくて。恋をしてないと生きていけない、みたいな子は、苦手かな」

 へぇ、と興味深そうに頷いた篠吹に、意外ですか、と如は柔らかく微笑んだ。

 「そう、かな。確かに。如くんは優しそうだし、可愛らしい感じの子が好きそうだと思ったんだけど」

 「可愛い子、ですか。可愛いにもいろいろありますからね。篠吹さんは可愛らしい女性が好きなんですか?」

 「女性は皆好きだよ」

 笑いながら篠吹は言った。

 「可愛らしい子も、気の強い子も。それぞれ違うよさがあるだろ?結局男と女は、お互いに永遠に理解し合えないと俺は思ってるよ。どうやっても理解できないから、違う生き物同士、反目しあっても惹かれあうしかないんだろうな」

 「意中の人は、いないんですか?」

 楽しそうな瞳で如が尋ねると、篠吹は視線をグラスに落とした。そして、それがね、と呟いた。

 「どうかな……気になる相手は、いなくもないけど……」

 歯切れの悪い言葉は、篠吹には似つかわしくない。篠吹は躊躇い、顔を上げ、如を見て、苦笑いを浮かべる。

 「どんな人ですか?」

 興味深げに篠吹をじっと見つめる如は、いつも通りの微笑みを浮かべてはいたけれど、その声は心なしか緊張しているようだった。

 昔話みたいなもんだよ、と笑いながら言い置いて、篠吹はゆっくりと話し始めた。

 「酒は強い方だったんだけど、学生の頃、一度だけ記憶をなくすほど飲んだことがあったんだ」

 如は黙って篠吹を見守りながら話の続きを待った。

 「確か、大学の飲み会で……、他大の人間もいたりして、泥酔して家に帰ったんだ。その時、俺が連れて帰ったのか、それとも連れて帰ってくれたのか、ある人が、俺の部屋に泊まったことがあった」

 止めよう、恥ずかしい、と突然言い、篠吹は笑った。しかし

 「聞かせてください。他言はしませんから」

 如に、あまりにも魅力的な微笑で迫られ、つい断れなくなってしまった。篠吹はらしくもなく頭をかいて、溜息をついた。

 「あれは……ほんとに一生の不覚だったと、今でも思ってるよ。俺は、その人を抱こうとして……」

 「逃げられたんですか?」

 如が小声で聞くと、もっと悪い、と篠吹は苦笑した。

 「できなかったんだ」

 周りを憚ってか、篠吹は如にだけ聞こえるようにそう言った。如は押し黙り、篠吹はまたグラスを口に運んだ。

 「まあ、それはいいとしよう。本当に、記憶がないくらい酔ってたせいもあったんだ。問題は」

 篠吹はグラスを空け

 「相手は同性だった」

 そう、如に告白した。そして如が何か言うより早く

 「それまで同性に興味なんかなかったし、自分がそういう類の人間だなんて考えたこともなかった。だからできなかったのかも知れない。それから、幸か不幸かそういう経験もせずにここまできたから、ようは適性がないってことなのか……まぁ、それは、よくわからない。ただ彼は、何て言うか、男に使う表現ではないんだろうが、美人だった。だからそんな気を起したのかも知れないな」

 「その人とは?」

 如はバーテンダーに同じものをと仕草で合図し、篠吹に先を促した。

 「それが、覚えてないんだ。彼は他大の学生だったみたいで、それ以来会ってない。恥ずかしいような気がして、大学の同期にもきけなかった。名前も、顔も、覚えてない……ただ、すごく綺麗だったって印象しかない」

 二人の背後では演奏が終わり、人々の喝采が聞こえる。篠吹は如の目に笑いかけ

 「きっと、如くんみたいな人だったんだろうな」

 「僕、ですか……?」

 「ああ、ごめん。気分を害したなら謝るよ。君に何かしようなんて考えてないから、心配しないでいい」

 如の困惑した表情をどう捉えたのか、篠吹はそう言って運ばれてきた新しいグラスを手に取った。

 「彼のことはずっと忘れてた。それに、思い出すこともないと思ってたのに……」

 「どうしたんですか?」

 いつになく如の眼差しが真剣な気がして、そんな真面目に聞かなくていい、と篠吹は笑った。

 「彼を、思い出させるような人に、偶然会ったんだ。名前も知らない。勿論誰なのかもわからない。それこそまだ学生かな……」

 もちろん男の子だ、と篠吹は呟いた。それはどこかに絶望を滲ませた、悲しげな声だった。

 「その人は、彼に似てるんですか?」

 如の問いに、どうかなと篠吹は首を傾げた。

 「学生時代の彼のことは、本当に断片的な印象でしか思い出せないんだ。だから本当は全然似てないのかも知れないな」

 「もう一度、会いたいとは、思わないんですか?」

 「どっちに?」

 「どちらかでも……両方にでも」

 グラスに視線を落とした如の横顔。長い睫毛が印象的な目元を翳らせる。

 「そう、だね。確かに、この前バーで見かけた彼には、また会いたいと思っているかも知れない。学生の時の彼には……どうかな。きっとお互い変わってしまっているだろうし、今さらどうにもできないし。もう二度と会わないのがお互いの為なんじゃないかな。向こうだって俺を覚えてるかどうか」

 如が驚いたように篠吹を見る。篠吹は苦笑いして如から目を背けた。

 「こんな話をしてたら、何だか……本当は一目ぼれでもしたんじゃないかって気がしてきたよ……。とりあえず単なる気の迷いであることを祈るしかないな」

 篠吹はそう言うと明るい声で笑い、ふと如を見て首を捻った。

 「どうして、君にこんな話をする気になったんだろうな。今まで、誰にも話さなかったし、これからも話すつもりなんかなかったのに」

 如は間を置かず、それは、と唇を動かした。

 「それは」

 「いや、いいんだ」

 そう自分を遮った篠吹の瞳は、孤独で、しかし誰より気高いように如には感じられた。

 「異端には、誰でもなりたくない。できれば、制御のできない自分の本音には触れたくないのが人間だ。俺も、そういう人間の一人だから……我ながら、驚いたけどね」

 最後は明るく言い放って、篠吹はグラスの中身を口に含んだ。

 如は、傷ついたようにも寂しそうにも見える不思議な無表情で、再び視線をグラスに落とした。

 「……謝るよ」

 「え?」

 唐突な篠吹の言葉は、またしても如を驚かせた。

 「本当は……君は、女性からも男性からも好かれそうだから、そういう話にも付き合ってくれるんじゃないかって、そう思った」

 すまない、と篠吹は頭を下げた。

 「せっかく友達になれそうだと思ったのに……絶交されても仕方ないな」

 自嘲気味に微笑し、篠吹は真っ直ぐに如を見つめた。

 「そんな言い方……ずるいですよ」

 如は篠吹の視線を正面から受け止め

 「僕は、篠吹さんが思った通りの人間です……。それで、こんな話をされて……もし篠吹さんのことを好きになったら、責任とってくれるんですか?」

 怒りとも悲しみともつかない如の表情。しかし篠吹を責める声は、静かだった。再び始まった物憂げなピアノの音は、一瞬だけ二人に沈黙をもたらした。

 「悪い……。俺は、誰かに話して、自分の気持ちにふたをしたかった。もう、彼に会うこともないだろうし……本当の自分に気付いたことを、錯覚だったと思いたかったんだ。けどそれは、君には関係のないことだったね……すまない」

 篠吹は再び頭を下げた。

 「謝って欲しいなんて、言ってないですよ」

 如の声が、いつになく悲しげに聞こえた気がして、篠吹は顔を上げた。

 長い睫毛を伏せた如の顔に、彼の面影が過ぎる。曖昧な記憶でしかないが、当時の彼も、長い睫毛に縁取られたアーモンド型の目をしていたと思う。

 何を思うのか、如は沈黙を守った。

 「……でようか」

 重苦しさを増していくばかりの沈黙に、篠吹は終わりを告げた。

 「そうですね」

 如はそれに従容と頷く。

 店の外に出ると、生暖かい春の夜風に水の香りが混じっていた。

 「雨が降りそうだね」

 星のない空を仰いだ篠吹に、如も黙ってならった。

 「今日は本当に」

 言いかけた篠吹に、如はいつもの笑みを見せ

 「また、飲みましょうね」

 そう、言った。

 「え?」

 驚いたのは篠吹の方だった。

 「楽しかったです、すごく。友達として、これからもたまには、一緒に飲みに行きましょう」

 「ああ。ありがとう」

 夜風に抱かれながら、如の柔らかな笑みが篠吹の胸を占めていた。怒っていないのかとか、軽蔑しないのかとか、そんな言葉は篠吹の脳裏から遠く飛び去っていた。

 「それじゃあ、また」

 如は会社での別れ際のように告げ、ゆったりと会釈した。

 「ああ、また」

 篠吹も自然と湧き上がった笑みで如に別れを告げた。

 二人は同時に踵を返し、それぞれが帰るべき方へ歩き出していった。

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