第3話 恋人

 是俊が帰宅すると、すずみはベランダにいた。インターフォンが鳴ったのにも気付かず、一人で缶ビールを飲んでいた。

 「ただいま」

 「……お帰り」

 背後から声をかけられると、涼は物憂げな声で是俊に応じた。

 驚くわけでも、ましてや喜ぶわけでもない。涼は、静かにふりむいただけだった。

 「どうした?浮かない顔して」

 「生まれつきこういう顔」

 気怠げに涼は呟く。明瞭さに欠ける声に是俊が足元を見れば、すでに空き缶が二本転がっていた。

 ここしばらく涼の様子がおかしいことに是俊は気付いていた。だが、涼が何も言ってこない以上、自分から何かを聞き出す気にはなれなかった。自分が尋ねれば……涼は答えざるをえない。今となっては普通の恋人同士のような穏やかな関係が築かれているが、やはり涼には是俊に逆らえない負い目があった。

 「すずみ……?」

 一瞬、泣くのではないかと是俊は思った。涼は冷たく見えるほど整った顔を歪め、何かを言いかけ止めた。

 雨の気配を連れた夕暮れの風。太陽が沈んでも、生ぬるい湿気が辺りを包んでいた。

 涼の低い体温を両腕に受け止めながら、是俊は囁くように問いかける。

 「どうした?何が気に入らない?」

 微かな焦燥とも、怒りともつかない、燻るような感情……。抱きしめた涼から引き出せるのは、ただ沈黙。長い睫毛が、涼の青白い頬に影を落とす。視線を伏せたままの涼の様子に目を細めながら、是俊は体温の低い、ひんやりとした頬に手をかけた。

 無言で眼差しを上げる涼。そんな一つ一つの仕草が、是俊の理想そのものだった。そんなつもりはなかったのだと、是俊は誰にともなく言い訳を続けている。しかし結局のところ、他でもない、自分が涼を理想通りに作り上げ、あるいは育て上げたのだという自覚もあった。その事実は、涼本人と向き合えば向き合うほど、容赦なく是俊に迫った。

 「是俊?」

 今度は涼の方が不思議そうにその名を呼んだ。是俊は唐突に涼を解放すると、そのまま背を向けた。

 「お前は……何が欲しい?」

 是俊の感情のない声が涼に向かう。それでも、その声が引き出せたのもまた、沈黙だけだった。

 涼に似合うものは、誰より自分が一番把握しているという自負が、是俊にはあった。涼に似合う、髪形、服、香り、アクセサリーそして、仕草や表情、話の仕方まで。それに、自分に気に入られるものを与えられることを、涼自身も望んでいると信じていた。

 しかし、いつ頃からか、是俊は、涼を綺麗な人形のように感じ始めた。何かが違うと、初めて感じたきっかけは何だったのだろう。今となってはもう思い出せない。決定的なものではない。違和感はいつもぼんやりとした気配としてしか感じ取れない。

 涼にとっては鎖にも等しい過去の出来事。涼は従順に過去に繋がれながら、いつでもじっとした瞳で自分を観察しているような気が、もうずっとしている。物言わぬ口元の僅かな震えに気付くたび、是俊は不安にも似た苛立ちを感じた。何故言わないのか。何故声を上げないのかと、詰りたい衝動にも駆られた。

 共に過ごす時間が長くなるにつれて、行き先を見出せない関係を互いに持て余しているのではないかという思いが時折浮かぶようになった。無理に終わらせる必要はない。けれど、全ての物はいつかは終わってしまう。家族にも恋人にも成りきれないこの距離は何を持って埋めればいいのか。涼がまだ高校に通っていた頃は、それでも是俊の中に涼を育てているという意識があった。だが、今は?今は、どうなのだろう。涼は自身の価値観を持ち、意志を持ち、全てを是俊に委ねることをよしとは思っていないかも知れない。一人の男として、涼はもう、自己を確立しつつある。少なくとも是俊はそれに気付いていた。

 長い沈黙の後で、なら、と涼が口を開いた。

 「俺は、何を欲しがればいい?」

 驚いて振り向いた是俊と涼の間を、むっとした夜風が吹きぬけた。

 「お前」

 それ以上何と続けるつもりだったのか、是俊自身にもわからなかった。ただ、見慣れた綺麗な涼の顔が、見知らぬ他人のもののように不自然に感じられた。

 誰と向き合っているのだろう……言葉にならない感情とは全く別の存在としてひどく冷静な問いが、是俊を支配する。

 「……ごめん」

 何に対してだったのか、涼はその手で額を覆い、俯きながら弱々しく呟いた。そんな涼を是俊が抱き寄せる。それは色褪せない愛しさからだったか、あるいは増していくばかりの罪悪感からだったか。

 自分が贈ったパフュームの香りを涼から嗅ぎ取った是俊は、恋人を抱く腕に力を込めた。

 「どうした?酔ってるのか?」

 そう聞いた声は、甘く、いつにない優しい響きで涼に届く。

 心にもない問いを耳元に囁いて、是俊は涼の青白い首筋に唇を寄せた。

 遠くで、踏み切りの遮断機が鳴っている。それでも、物音のない室内には、切なくなるような薄闇が広がっていた。言葉を打ち消し、思考を薄めてしまうような、曖昧に漂う夜の気配。その中で、涼がふと是俊を仰ぐ。

 「涼?」

 いつになく大人びた、それでいてひどく儚げなその表情に、是俊は息を止めた。

 「是俊……俺は、どうなればいい?どんな風に……」

 ある存在の意義を問いただすような涼の問い。

 「こ……」

 それ以上何も言うなと、是俊が涼の唇を塞いだ。

 それ以上、きいてはいけない……是俊が無言でそう諭すと、涼は遠い目を、血管の透ける白い目蓋の下に隠した。


 是俊の肩に頭をのせ、涼は与えられたばかりの真新しいブレスレットをぼんやりと弄んでいた。

 そうしている本人には何の気もないのだろうが、涼は銀の輝きに魅入られたかのように、無心に細い鎖に触れている。

「すずみ……」

 低くかすれた声で名を呼んで、是俊の指先が涼の髪に触れた。涼は驚いたように声の主を見た。

 名前を呼ばれても何も言わない。是俊がベッドで会話をするのを嫌うことを、涼は知っていた。だから、自分からは何も言わない……それが、涼にとって、是俊とベッドをともにするようになって以来のルールだった。

 人差し指を涼の唇に押し当てた是俊は、涼の舌が自分の指先を舐める様子をじっと見詰める。従順な犬のような涼を見ることは、是俊にとって最高の快楽であり、何より不思議な胸苦しさでもあった。涼はいつでも、是俊が驚くほどに従順だった。こうして、今も沈黙を守り、ただ望まれた行為を忠実に示してみせる。是俊は、涼の口内を撫でるようにゆっくりと指先を引き抜いた。涼は指を追うこともなかったし、それ以上の何かをねだることもなかった。

 「涼、少し話さないか?」

 涼の瞳が見開かれる様を、是俊は間近に見守った。

 話してくれ……涼の髪を撫でながら、是俊は吐息のような声で囁く。

 「是俊?」

 涼は戸惑い、是俊の剥き出しの肩に指先で触れた。

 「お前が……」

 動きを止めた是俊の手。

 「どうしたの?」

 いよいよ不安を募らせ、涼が是俊の瞳を覗き込む。

 是俊はわずかに目を細め、涼に触れるだけのキスをした。

 「いつから、こんな風になった?」

 「え?」

 思わぬ問い。是俊の唇は一瞬だけ躊躇ったようだった。そして、

 「いつから、こんな関係になった?」

 涼はさらに戸惑い、

 「どうしてだ?」

 再度の問いに、ようやく口を開いた。

 「俺が、抱いて欲しいって、言ったから……?」

 「……言わせたのは俺だったな」

 涼は是俊の肩口に顔を埋めた。

 「耐えられなかった……あんな風に、扱われることが」

 消え入りそうな声をしているのは、当時を思い出しているからだろうか。あの頃、二人の関係は壮絶なものだった。

 「嫌なら、出て行けばよかった。行くところなんて、他にもあったんだろ?」

 「俺に逆らうな、口答えもするな。それができないなら出て行けって」

 「逆だぞ。出て行けとは言わない、ただし口答えはするな、そう言ったつもりだ」

 「そうだった。でも、同じことだったよ」

 涼の額に唇を押し当てて、是俊は笑っているようだった。


 「迷惑かけるような奴じゃないんで、置いてやってくれませんか?」

 是俊が初めて涼に会ったのは、就職して間もない頃、高校と大学が同じだった後輩に頼み込まれてだった。両親の不仲や異母兄弟との諍いを原因として、涼は高校進学後すぐに家を出た。涼を是俊に紹介したのは、涼の中学の先輩でもあった佐々木ささきという男だった。

 何が悲しくて男と同居なんて……そう、はじめは渋っていた是俊だったが、直接涼に会い、気持ちが揺らいだ。勿論その要因として、涼の容姿が全くなかったとはいえない。しかし、それ以上に是俊の興味を引いたのは、涼の年齢には不相応な落ち着いた雰囲気や、冷めた、あるいは影のある雰囲気の方だった。

 涼は言葉少なに自己紹介し、迷惑は絶対かけないからと付け加えた。

 「……いいよ、わかった。ただ俺もよく家に人呼ぶから。それは覚悟してくれ」

 是俊がそう告げると

 「ありがとうございます」

 涼は初めて微笑をのぞかせた。

 それから二人の共同生活が始まったのだが、涼が綺麗好きで、料理もまめにこなす、ということに是俊は驚いた。礼儀正しいが、慣れてくれば妙によそよそしいということもなく、是俊にとって涼は、理想のルームメイトといえた。

 「是俊さん」

 そう、無邪気に笑う顔は、確かにまだ十五歳の少年のものだった。いつの間にか手放しで自分に懐いた涼を、是俊も年の離れた弟のように愛しく感じていた。

 二人に転機が訪れたのは、二人の生活が始まって一年近くが過ぎた頃だった。

 当時是俊には麻美あさみという恋人がいた。奔放な女で、是俊でさえ手を焼いていたが、いつ頃からか、彼女の気持ちは是俊から涼に移っていた。当然、是俊も涼もそれに気付いてはいたが、是俊が面と向かって彼女を詰ることはなく、涼の方も自分を居候させてくれている人間の恋人を邪険に扱うわけにもいかず、三角関係とも呼べない微妙な緊張感が三人の間には漂っていた。

 十六歳を迎える誕生日、是俊の帰りを待ちわびていた涼の携帯が鳴った。

 「涼……悪い。トラブルがあって、朝までに復旧させないとまずいんだ。今夜っていうか、明日の朝くらいまで、たぶん戻れそうにない。ごめんな、マジで。明日、絶対埋め合わせするから」

 「いいですよ、そんなの。大丈夫だから、気にしないで下さい」

 気丈にも電話越しに笑った涼に是俊の胸が痛んだ。そして、一人で過ごすよりはと、是俊は麻美に留守を頼んだ。麻美は喜んで了承した。

 涼は是俊からの連絡を受け、いたたまれない悲しみの中にあった。是俊と暮らし始めてもうすぐ一年。毎日穏やかで楽しいことばかりだった。母の再婚を機にできた異父母兄とは比べ物にならない。是俊は、理想の兄であり、どこか遠くの日に見失った父親の姿にも通じるものを感じさせた。今まで出会った誰より、涼は是俊が好きで、誰より、信頼できる相手と感じていた。

 是俊は多忙なうえ、友人や知人も多く、なかなか部屋でゆっくり過ごすということがなかった。誕生日は二人だけで、のんびりやろうと是俊が提案してくれた時、涙ぐんでしまう程嬉しかった。だから、今日がくるのをずっと楽しみにしていた。

 「……」

 日頃は決して入ることのない是俊の部屋に、涼は初めて無断で踏み入った。そして、何をするともなく整然と片付いた室内に立ち尽くしていた。そんな涼を、麻美が背後から突然抱きしめた。

 「麻美さん!」

 「涼くん、私が君のこと好きなのは知ってるでしょ?私の中ではもう是俊とは終わってるんだよね。でも、是俊と別れたら涼くんに会えなくなっちゃうから。だから……私ずっと、涼くんに会う為に是俊と続けてきたの」

 麻美は涼を抱きしめたまま、是俊のベッドの倒れこんだ。

 「やめてください!」

 是俊の香りがする……どうしようもない悲しみが涼の胸を覆う。

 「大丈夫。是俊には言わないから……」

 麻美は囁いて、涼のシャツに手をかけた。

 「やめて下さい!俺には、こんなことできない……麻美さん!」

 唇を塞がれ、涼はもがいた。麻美は慣れた手つきで涼の体に触れてくる。その時、ふと是俊に抱かれる麻美のことを涼は思い描いた。

 是俊に触れた、麻美の唇。是俊に触れた、麻美の指。細い女の首筋に、是俊は何度唇を這わせたのだろう。それから何度、彼女を求めたのか……。

 一瞬、自分が是俊になったような錯覚を涼は覚えた。そして、麻美を組み敷いて、彼女を抱いた。麻美の体、声、表情……それは全て、是俊が欲しかったもの。その思いだけが涼の衝動を支えていた。気付けば是俊のことばかり考えていた。涼は、自らがなしたことに愕然とした。言い訳をするつもりはない。ただ、是俊を思っていた。是俊の感じたものを、聞いたものを、見たものを、全てを知りたかった。

 「ただいま」

 二人の予想外だったのは、是俊が一時を少し過ぎた頃に帰ってきたことだった。

 「涼?麻美?」

 玄関を開けた時のあまりの静けさに、是俊はあるいは、嫌な予感を抱き始めていたかも知れない。

 半開きだった自室のドアを、是俊はスローモーションのようにゆっくりと引き開けた。そして、半ば覚悟していた光景に取り乱すことも、また絶望して立ちすくむようなこともなかった。ただ、慌てる二人に歩み寄り

 「あ、是俊、わたしたち……」

 愚にもつかない言い訳をする麻美の腕をつかみ、ベッドから引きずり出した。

 「ちょっと、待って……やめて、やめてよ!謝るから!お願い、乱暴しないで!」

 麻美は叫び、それから是俊の鋭い視線に凍りついた。

 「出てけ。二度と俺の前に現われるな」

 是俊は言い放つと、落ちていた麻美の衣類と彼女自身をつかみ、部屋から、そしてマンションから、文字通り叩き出した。

 涼は呆然と二人のやり取りを眺めていた。声を発することも、何か行動を起こすこともできず、ただベッドに腰かけたまま、成行きを見守っていた。

 麻美の叫び声が絶え、是俊の足音だけが引き返してきた時、自分にも同じことが起こるに違いないと、涼は信じて疑わなかった。しかし、リビングまでやってきた是俊の足音は、そこから一向に近づいてこない。死刑執行を引き伸ばされているような狂おしい時間に、涼は耐えかねた。

 それでも、服を着て、意を決し、是俊の元に向かうまで一体どれだけかかったのだろう。

 背後のドアをきしませ、涼が姿を現しても、是俊は振り返らなかった。

 長い長い沈黙に耐え切れなくなったのは、やはり涼の方だった。

 「是俊、さん」

 何と言えば許されるのだろう。あるいは、この場で口にしても許される言葉があるのだろうか。

 「あ、の……」

 涼がそう言いかけると、是俊は突然立ち上がった。

 「すみません。俺、出て行きます。謝って、許されることじゃないのは、わかってます。本当に」

 「俺は」

 目前に立った是俊の、静かに張り詰めた空気。涼はたまらず下を向いた。

 「俺は、お前に出て行けとは言わない。ただ」

 「ただ?」

 思わぬ言葉に顔を上げた涼は、是俊の目を見た瞬間後悔した。

 「これからは何があっても俺に逆らうな。口答えも許さない」

 ……いいか?

 「はい」

 その眼差しに射殺されるのではないかと、涼は本気で思った。しかし、是俊は涼の返事を聞くとそのまま部屋を出て行った。

 呼び止めることも、追いすがることもできない。どこに行くのかとさえ、涼には聞くことができなかった。それから二日、是俊は家に戻らなかった。

 「是俊さん?」

 主人の帰らない部屋で涼は眠りのない夜を二晩過ごした。明け方近くに響いた、鍵の音。涼は体を沈めていたソファから立ち上がると玄関へ走った。

 「是俊さん……」

 その姿を目にした時。涼は泣きそうなほど安堵した。是俊が出て行ってから生きた心地もしなかった。主人に見放され、置き去りにされた犬のように不安げに、広くはない室内をいつまでも行き来していた。

 「すずみ……」

 是俊は、酔っているようだった。近づくとわずかに酒臭い。

 なすすべもなく目前に佇む涼に、是俊は手を伸ばした。

 「是俊さんっ!?」

 不意に凄まじい力に抱かれ、涼は悲鳴にも似た声を上げた。

 「騒ぐなよ」

 低くそう命じた是俊の手が、突然涼の脚に触れ、そのままジーンズのファスナーを下ろした。

 「何して……」

 壁と是俊の体に挟まれ、涼は身動きが取れない。それでも抗おうと体を捩ると

 「俺には逆らうなって言わなかったか?」

 殺気をはらんだ声が、耳元で囁く。

 ゆっくりと、是俊の手が涼を追い詰める。

 「是俊さん」

 「触るな」

 何かに縋ろうと自分の背に触れた涼の手を、是俊は許さなかった。

 その時涼を襲った衝撃は、涼から全ての思考を奪った。

 どうして、と何度も涼の唇は動いたが、それは声として発せられることはなかった。

 「いやです……是俊さん、やめて……お願い……」

 涼の頬を涙が伝った。それを認めた是俊は動きを止め、酔った目で涼の瞳を覗き込んだ。

 「嫌なのか?こうされることが?それとも俺だからか?麻美ならいいのか?」

 それは怒りでさえないようだった。是俊は、ただ知りたいのだ……涼はそれを感じ取った。

 何も言わず、ただ涙を流す涼。やがて見詰め合うことにも飽きたのか、是俊は涼の首筋に顔を埋めた。

 涼は唇を噛んで、必死に耐えているようだった。嫌悪感にか、生理的な快感にか……それでも涼の表情は快楽からは程遠い、苦しげなものだった。

 涼の指先が壁に突きたてられる。小さな呻き声を上げた涼の顔を、是俊は無表情に眺めていた。そして濡れた手を、こともなげに涼のシャツで拭く。

 「……」

 涼はあまりの衝撃に、その場に崩れ落ちた。これが、罰なのだろうか。是俊は涼に一瞥もくれず、そのままリビングに消えていった。

 恐怖に勝る悲しみがあるのだと、涼はやがて理解した。同じようなことが何度繰り返されたか、涼の心は限界を迎えていた。是俊はただ……涼の体を弄ぶだけだった。キスさえしてくれなかったし、涼から触れることもやはり許さなかった。じっと無感動な瞳で涼を観察しながら、時折耳元に意地の悪い言葉を囁きかける。そして、本当にそれだけだった。 

 普段の是俊は以前と変わりなく涼に接していたが、突然牙を剥くように豹変する。そんな毎日に怯えながら、しかし涼は、自身の内に抱えた感情を完全に捨てきることもできずにいた。

 本当に耐え難いことは、何か。涼は一つの結論を得た。

 軽いノックの音に、是俊は読んでいた本から目を上げる。

 「涼?」

 訝しく思いながらもベッドから起き上がり是俊はドアに向かう。ベッドサイドの明かりだけを光源とした室内に、是俊の声が響いた。

 「どうした?」

 涼はドアの前にじっと佇み、俯いていたが、入れよ、と是俊が促すと黙ってそれに従った。

 「俺を……」

 「何?」

 涼はゆっくりと顔を上げ、是俊の視線を捉えた。追い詰められた人間の、それは壮絶な美しさだったか。是俊は初めて見るような涼の表情に目を奪われた。

 「俺を、抱いてください」

 一語一語を区切るように、涼ははっきりとそう言った。

 「何を言ってるか、自分でわかってるのか?」

 是俊は、目を細めて涼を見つめる。涼は……失うものはないと悟っているのか、思いつめた、けれどひどく静かな表情をしていた。

 「一番耐えられないのは……あんな風に扱われることです。あんな風にされるなら、殴られる方がずっといい」

 涼は目を閉じるように視線を外した。

 「本気か?」

 是俊は涼のほっそりとしたあごに手をかけ、再び自分の方を向かせる。

 「本気です」

 淀みのない声で応じた涼。その蒼白な顔に、是俊が影を落とす。

 どちらのものだったか、息を飲む音がした。涼は目を見開き、やがてゆっくりと目を閉じた。

 今までの行為を全て裏切って……是俊のキスはひどく優しく、そして何の激しさもなかった。

 「満足か?」

 優しいだけのキスの後で、是俊は涼の眼差しを正面からとらえた。

 「これで満足したかきいてる」

 是俊の眼差しには、何の温度もない。ただじっとした真実を照らす透明な炎が揺れていた。

 「違う……」

 涼はかすれた声を上げた。そうじゃなくて、と消え入りそうな声で続ける。

「抱いてください」

 涼は是俊の胸に額を押し付け、再度そう告げた。

 「……」

 是俊は涼を抱きしめることはせず、沈黙を守った。

 「お前には……」

 低い、暗い声だった。是俊はゆっくりと言葉をつむいだ。

 「もう、触らない。そう、言えばいいのか?」

 何かを見定めようとするかのように、是俊は微かに眉根を寄せた。

 是俊の背に、涼は腕を回した。拒まれることはないのだと、本能が悟っていた。

 「是俊さんが、好きです……。だから、ちゃんと、愛されたいと思った……」

 消え入りそうな声で、涼はようやく言い終えた。

 「……後悔しないか?」

 是俊は未だ涼の体に触れなかった。ただ、声だけが低く、かすれて響いた。

 しません……そう呟いて、涼は是俊にいっそう身を寄せた。

 「是俊、さん?」

 腰を抱いて誘われる。思わず足を止めると、促すような是俊の眼差しに出会い、涼は戸惑った。

 「抱かれたいんだろ?」

 熱を帯びて、かすれた声。そんな是俊の声を、涼は初めて耳にした。今度こそおとなしく従うと、是俊は涼をベッドに座らせ、そのままゆっくりと押し倒した。

 「初めてか?」

 片手でベッドサイドの照明を落としながら、是俊が囁くように尋ねた。それは勿論、抱かれるのは、という意味だった。大きな手で頬を包まれながら、涼はただ頭を左右に小さく振った。

 そうか、と是俊は微笑し、柔らかく涼の唇を覆う。

 瞳を潤ませ、快楽に耐えようとしている涼の表情は、健気でもあったが、それは何より是俊の中の嗜虐心を煽った。

 「すずみ……」

 優しい愛撫とキス。いたわるように、しかし快楽を求める是俊を、涼が朦朧とした眼差しで見上げた。

 髪を乱し、途切れそうな呼吸を繰り返す涼を、是俊は抱き起こした。涼は溺れる者の強さで、是俊にしがみつき、苦痛と快感を交互に訴えた。涼の頬を、こめかみを伝う涙を、是俊は唇ですくい、慰めるようにキスをする。

 「いい子だ」

 是俊が囁く。物言いたげな涼の唇を優しく塞いで、是俊は涼の体を抱き寄せる。

 寄り添って横になると、涼は間もなく寝息を立て始めた。是俊は憔悴しているようにも見える涼の寝顔を見守り、乱れた髪をそっと撫でてやった。

 初めて出会った日から、一年が経とうとしていた。

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