第2話 噂

 「お疲れ様です」

 柔らかに響くその声には、聞き覚えがあった。

 「ああ、お疲れ様」

 篠吹しのぶは肩越しに振り向き、秘書課の麗人と揶揄される美貌の青年、冴島如さえじまいく微笑を受け止めた。定時を過ぎたエレベーターホールには、篠吹と如の二人だけだった。

 「安藤先生はお帰りになりましたか?」

 穏やかな笑みを絶やさず、如は篠吹の横に立って上階に向かうボタンを押した。

 「大きな声じゃ言えないが、気分はもう楽隠居だよ」

 身内らしい口ぶりで安藤の甥である篠吹は笑う。

 「片岡さんももうお帰りになるんですか?」

 遠まわしに誘っているのか、如はそんなことを言いながら壁の時計に目をやった。まぁ、と篠吹は頷き如の横顔を見る。男として生まれつき、容姿ばかりを、それも綺麗だ、美人だと褒められるのは、一体どんな気分なのか。あまり心地よくはなさそうだが、丹念に作り込まれたような顔の造作にはどうしても意識が向いてしまう。篠吹は精緻な絵画を見るような思いで、如の眉から鼻梁を、口唇からあごまでを視線でなぞった。見る者を突き放すような完璧なラインによって、如の顔は描かれているようだった。

 「空いてるなら、飲みに行かないか?」

 つい女性に誘われたような心地で、篠吹はそう言った。

 あからさまな誘い文句を女性に言わせるのは失礼だと篠吹は考えていたし、常に相手の望むところを感じ、機敏に察することができるのも篠吹が女性から好かれる要因の一つであることは間違いなかった。しかし、いつもの調子で誘ってから、篠吹はちょっとした違和感を覚えた。

 相手は、秘書課で一番の美人とは言え、女性ではない。この場合、自分の抱える哲学上、どのように対処すべきだったのか篠吹は一瞬だけ戸惑ったが、誘ってしまったものは仕方ないし、相手は文句のつけようのない美人でもある。この際性別などどうでもいいような気が、篠吹にはしてきた。

 それに……と、篠吹は如を横目で眺めた。如は、その容姿だけではなく、人間的な魅力にも溢れた男だった。話をしていても面白いし、篠吹が舌を巻くほどの博識で、長い時間を過ごしたとしても退屈するということはないように思えた。今まで、あまりゆっくりと言葉を交わす機会がなかったが、懇意になれればという気持ちがなかったわけではない。

 「いいですね」

 如は、篠吹を見上げながら、優しげな目元をいっそう柔らかに下げ、笑顔で応じる。

 「でも、まだ少し仕事があるので……お待たせするかもしれません」

 「かまわないさ。どのくらいかかりそう?」

 そうですね、と如は呟き、再び時計に目をやる。

 「一時間……いえ、三十分で何とかします」

 「わかった。終わったら連絡してくれるかな。待ってる間に、適当な店探しておくから。冴島さん、けっこう飲む方?」

 ランチミーティングや取引先のパーティーなどでは同席したこともあったが、篠吹と如が二人で食事に行くのは初めてだった。篠吹の問いに如は、

 「どっちかと言うと」

 そう笑いながら応じる。

 「了解。それじゃ、また後で」

 「ええ」

 篠吹の待っていたエレベーターが先に到着した。如は、会釈し篠吹を見送ると心なしか楽しげに口元を綻ばせた。

 「冴島、如、か……」

 エレベーターに乗り込んだ篠吹は一人、そう呟いた。

 伯父のクライアントである如の会社は、数年前に大手広告代理店からIT系企業に買収される形で独立した。篠吹も会計士となり始めて知った企業だったが、独立とともに会社の若返りをはかり、実力のある人間は、経験がなくとも重要なポストにつけるという大胆な人事を行っている。それが功を奏してか、篠吹の知る多くの顧客の中でも、今最も勢いがあり、雰囲気のよい企業だった。

 その中で特に有名なのが、冴島如という秘書室長と、最年少執行役員の三村是俊の二人だった。

 三村是俊はよほど多忙と見えて、会議にもなかなか出席してこない。しかし、如の話からも彼が急成長中の企業を支える重要な一翼であることが伺えた。そして、その話を篠吹にした冴島如も、役員たちが一目置くような切れ者だった。

 如とは会議などで顔を合わせるうち、年齢も近いことから次第に口をきくようになっていった。如は、その容姿からは想像しがたいほど気さくで、とにかく穏やかな青年だった。社内では男女問わず彼のファンが多いと聞いたが、事実篠吹もそのように感じている。

 どんな店に連れて行けば、如を喜ばせることができるだろう。篠吹は、ちょっとした課題のように、今夜の楽しげな予定について考えをめぐらせ始めた。


 如がエレベータに乗り込むと、そこには見知った顔があった。

 「お疲れ。打ち合わせ終わったの?」

 「滞りなく。いつもなら安藤先生、もう少しゆっくりされていかれるんだけど、今日は何かご予定があったみたいだから」

 「時間通りってそんなないもんな」

 そうだよ、と如は微笑し、是俊ことしが片手に下げている小さな包みに目をやった。

 「彼女にプレゼント?」

 「ああ、ご機嫌取り」

 是俊は、深いブルーに、店名が記された紙袋を如の目前にあげて見せると、恥ずかしげもなく笑った。

 へぇ、と呟いた如は改めて是俊をまじまじと見つめた。

 三村是俊は、マネージングディレクターという、少々特殊な役職の男だった。彼の物おじしない強力なリーダーシップや、トレンドの読みに対するセンスや分析力、さらに企画を立ち上げ実行に移す際の段取りの抜け目なさなどには、抜群の定評があった。経営企画部に籍はあるものの、営業から制作現場まで幅広く目を配り、必要とあらばすぐに飛んでいく……社内での是俊はまさしく全ての部署のアドバイザーといった感じだった。

 センスがよく、ファッションにも気を遣う是俊は、見た目はどちらかというと派手で、今時の若者といった雰囲気だが、数いる執行役員の中でも、社長が最も目をかけていると噂されている。そして、是俊にはもう一つ有名な噂がある。それは、五年近く同棲している恋人がいる、というものだった。詳しいことは如も知らないが、そうとうの美人という話は耳にしたことがある。是俊はたまにこうして、終業時間くらいになると、恋人へのプレゼントを下げて歩いていることがあった。

 「立ち入ったこときくようでなんだけど、結婚の予定とか、ないの?」

 誰かに聞かれることのない密室だという安心感からか、如は突然そんな問いを是俊に投げかけた。

 「如さんでもそんな下世話なこと気にするんだ」

 からかっているわけでもなく、是俊はいささか驚いたように如を見る。

 「下世話だった?気に障ったなら謝るよ。ちょっときいてみたかっただけで、本当に他意はないよ」

 「いや、いいけど」

 是俊は一度階数表示のランプを仰ぎ、それから如を見た。

 「結婚なんて……考えたこともなかったなぁ。あいつまだ未成年だし、それに……」

 「それに?」

 意味ありげに言葉を切った是俊を如も見つめる。思えば、二人がこれほど接近して言葉を交わすのは初めてだった。

 「男同士だし。だから、結婚は無理」

 「そうなんだ」

 如はきょとんとした表情をしていたが、それほどの驚きも、ましてや衝撃も受けてはいないようだった。

 是俊は肩透かしを食らったような気になり

 「反応うす。驚かない?」

 思わずそうきいた。

 「うーん……そうだねぇ」

 驚けといわれても、そんな顔つきで如は首を傾げた。

 「……冗談だって」

 「冗談じゃないんでしょ?」

 「何だよ……。冗談か本気かわからないところが俺のチャームポイントだったのに。っていうかさ、ここでこんなカミングアウトするつもりなかったんだけど」

 やけにきっぱりと言い切った如に是俊は戸惑い、言い繕うのを諦めるとため息をついた。

 「いいんじゃない?別に」

 「何とも思わない?」

 いささか真剣な面持ちで如に尋ねた是俊。

 「だったら、どう思われたいの?」

 「いや、それは聞かれても困るけど」

 「いいんじゃないかな。……だめ?」

 子供のように澄んだ瞳で是俊を見上げる如。神妙な表情で黙り込んでいた是俊はふっと、突然笑った。

 「初めてだよ、人に話したの。ずっと秘密にしてたの、すっげぇばかばかしく思えてきた」

 「そう?三村君、ゲイっぽい感じ全然しないし、僕、むしろ女の子好きそうだなって思ってたよ」

 ごめんごめん、と何に対してか如は謝った。冴島如という人物は、鋭いのか鈍いのかわからない。是俊は思わず笑う。

 「いや、それ別に間違ってないよ。俺、女の子好きだし、浮気もするし」

 その答えに如も笑った。

 是俊は何を考えているのかわからない不思議な如の笑みに興味を覚えた。そして多少の反撃の意もこめて、如の目をじっと見つめた。

 「如さんこそどうなの?」

 「え?」

 「だから、如さん、もてるでしょ?女にも、男にも」

 「僕?僕は……」

 言いかけ、口を閉じた如。その表情は、思案しているというより、どこか寂しそうに是俊には映る。

 「僕は、人を好きになったことないから……わからない、かな?今は、別にどっちを好きになってもいいと思ってるけど」

 「へぇ。それ、すげぇ意外」

 思わぬ告白に、是俊は驚いたようだった。そして何かに思い至ったように如を見つめた。

 「それって、今まで誰とも付き合ったことない、って意味?」

 「いや、そうは言ってないよ」

 なんだ、是俊は何に対してか失望したような声を上げた。

 「つーかさ、誰もいないからってどんな話してんだよ、って感じだよな」

 「ほんとだね。お互い、ここだけの話で」

 「勿論。今度飲み行こうよ」

 「うん。ゆっくり話聞かせてよ」

 「いや、聞いてもらえるような話なんかないけどさ」

 同僚に同性の恋人がいれば大抵の人間は驚くだろう。それなのに如は、何でもないという表情をしていた。それも礼儀やポーズというわけではなく、実際に驚いていないのだということが是俊にもわかった。確かに、人を好きになった経験のない人間から見れば、性別なんて、大した意味を持たないのかも知れない。そんなものか、と是俊は思いかけ、いや、やはり冴島如という人間が変わっているだけだと思い直した。

 「じゃあ、お疲れ様でした」

 聞きなれた電子音とともに停止したエレベーター。如は何事もなかったかのようないつもの微笑で是俊に別れを告げる。

 「お疲れ様」

 閉じていく扉の向こうでひらひらと手を振る如は、どこかいつもより楽しそうに見える。ゆっくりとドアが閉まると、是俊はそっとため息をついた。

 「何でしゃべったんだろうな……」

 僅かな間だったが、如との会話は、共にした時間は、心が弾むように楽しいものだった。よく考えれば、二人でゆっくり話をしたことなど、これまで一度もなかった。是俊にとって如は以前から気になる存在ではあったが、二人きりの空間だということに舞い上がってしまったのではないか急に不安になった。

 プライベートな質問をしてきたのは如からだ。社内のアイドル的な存在から興味を持たれている、と感じたことが嬉しかったのかも知れない。そうだ、確かにどんな形でも如の気を引きたいと、とっさにそんなことを思ってしまった。

 (俺、ちっちぇなぁ……)

 誰にもこんなことは言えないと、是俊は肩を落とす。それでも如と秘密を共有できたことはやはり誇らしかった。

 ゆっくりと伸びをして、是俊はエレベータが止まるのを待った。

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