バタフライ・モノクローム

西條寺 サイ

第1話 始まり

 規則正しい寝息が微かに聞こえる。

 去っていく夜と訪れる朝の隙間に落ち込んだように動くことさえままならず、どのくらいそうして座り込んでいたのか。安らかに眠り続ける部屋の主と自分は、すぐ側にありながら果てしなく隔てられているようだった。

 床には大学の教科書と数冊の雑誌が無造作に散らばっている。年季の入った一眼レフが置かれている以外、それはどこにでもある男子学生の部屋に思えた。

 ローテーブルの上には赤いパッケージのタバコ。普段吸う習慣はなかったが、一本だけ取り出した。乾いたフィルターが唇に触れた時、ほんの少し前に交わした静かなキスの感覚が蘇った。

 彼は、この部屋の中でだけタバコを吸うのだろう。ウォータークラウンの形をした灰皿には数本の吸い殻があった。人前で喫煙しない彼にとって、それはささやかな秘密なのだろうか。

 吸い慣れないタバコにニ、三度咳込んだ。しかし首を巡らせて振り向いても、彼に目覚める気配はない。

 目覚めた時、彼は自分を覚えているだろうか。子どものように屈託のない寝顔を見ていると、そんな風には信じられなかった。

 彼は忘れるだろう。そう確信して、吐き出す煙は吐息になる。

 たった一度のキスも、たった一度の抱擁も、二人の秘密になればいい。秘密という堅固な檻の中で、ささやかな記憶は永遠に守られる。

 もう二度と巡り合うことがないのだとしても、生まれて初めて知った胸を焦がす情熱と失望を、生涯忘れることはないだろう。

 吸い殻を灰皿に押し付けて、カーテンの隙間から覗き込む朝日に急かされるように立ち上がる。

 一度だけ振り向いて、彼の寝顔を見た。無意識に伸ばしかけた手をゆっくりと引き戻す。

 「……」

 全ては終わったはずなのに、明るんでいく景色に夢を見ているような心地だけがした。ずっとここにいられればいい。そんな願いを置き去りにドアを開ける。外には静かな朝が満ちていた。

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