26. 任官(天空神閻魔)

 翌年7月下旬。パイエスト共和国で祝う魔聡まさとの誕生日。

 アーネストとキャサリンは早目の夏期休暇を取得し、パイエスト共和国に来ていた。出版したばかりの『キング閻魔』の売行きが上々なので、健勝祝賀会も兼ねていた。

「アーネスト、キャサリン。君らの本は世界中で凄い人気らしいな」

「御陰様でね」

「ドキュメンタリーなのに、書いてある内容は娯楽フィクション小説そのものだからな。楽なもんだよ」

「最後に載せたエピソードは、厩の菩薩のエルサレム降臨なんだろう?」

「ああ。感動的なシーンだった。猛はエルサレムに行かなかったんだよな」

「うん。残念ながらね。こう見えて、閻魔屋の仕事も立て込んでいるのさ。

 ところで、どんな説教だったんだい?」


 エルサレムは、パレスチナ自治政府が治めている事になっている地域と、イスラエルと言う国家の境界に在り、標高800m程の小高い丘の上に所在する都市である。

 旧市街を含むエルサレムの東側にはパレスチナ人が多く住み、此の地にはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の重要施設が集まっている。

 ヘブライ王国が建立したエルサレム神殿は、バビロニアやペルシャの侵攻に遭い、破壊されては再建される歴史を辿って来た。神殿の名残として残る壁の一部が“嘆きの壁”であり、ユダヤ教徒が自らの哀しい宿命を嘆く対象として重要な宗教施設である。

 一方で、イスラム教の開祖ムハンマドが、一夜にして聖都メッカからエルサレムに飛んで来た際に騎乗した天馬をつないだ場所が“嘆きの壁”だとも言い伝えられており、イスラム教徒にとっても重要な宗教施設である。

 また、ムハンマドが天馬に乗って神様に拝謁したと言い伝えられる場所には“岩のドーム”がイスラム王朝に依り建立されている。

“岩のドーム”は、イスラム教における第3の聖地であると同時に、ユダヤ教徒にとって、アブラハムが息子のイサクを神様に捧げた際に捧げ台として使った岩が安置されている場所でもある。アブラハムとは旧約聖書の創世記に登場する人物である。

 加えて、イエス・キリストが処刑されたゴルゴダの丘の上に建てられたと言われる聖墳墓教会も、エルサレムの東側に所在する。

 聖墳墓教会は、ローマ帝国がキリスト教を公認し、コンスタンティヌス1世の母太后がエルサレムに巡礼をした直後に建立された。現在、カトリック教会を始めとするキリスト教の諸教派が共同管理しており、順番でミサ等の公祈祷を行っている。

 ローマ帝国が崩壊した後の中世において、エルサレムは、代々のイスラム王朝が支配する土地であったが、ヨーロッパの十字軍が度々侵攻している。現代においては、度重なる中東戦争を経て、イスラエルと隣国ヨルダンが各々の宗教を背負って奪い合い、現在も小競り合いが続いている。

 宗教的にはおそれ多い土地で、本来ならば恵み多き事を期待しても良さそうな土地なのだが、安寧の土地とは対極の状態に陥ったままである。

 呪われた地と化したエルサレムの聖墳墓教会に、厩の菩薩が現れたのだ。

 先にバチカン教皇庁に出現した際、エルサレムでの出現時刻は予告されていたので、聖墳墓教会に仕えるキリスト教の諸教派の司教、司祭の全員がイエス・キリストの降臨に立ち合った。

 カトリック教会の司教達に先導された厩の菩薩は、歩いて“岩のドーム”に移動し、イスラム教の宗教指導者達とも合流する。

“岩のドーム”自体は各教徒にとって巡礼可能な施設であり、出現当日も、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の各教徒が訪れていた。厩の菩薩の降臨日は極秘とされたので、現場に居合わせた信者は本当に幸運に恵まれたとしか言い様が無い。

 ただ、アーネストとキャサリンにだけは、閻魔大王の代理人として、特別に予告日が伝えられた。

 金色に輝く半球状のドームを戴いた正八角形の建物は、壁面一面に有色大理石で幾何学的模様を施されている。“岩のドーム”正面玄関前に広がる広場で、厩の菩薩は、聖職者達や一般信徒を集め、厳かだが親しみを込めた説教を始めた。

『今日、私が君達に伝えたい事は「人間同士の争いを止めよ」と言う念押しだ。

 私は厩の菩薩。かつてはイエス・キリストと呼ばれた男だ。昔も今も、神様にお仕えしている。

 これまで、神様は君達に何度も御言葉を賜られた。

 最初はユダヤ教徒がまとめた旧約聖書に載っている御言葉だし、続いてキリスト教徒が追加した新約聖書に載っている御言葉だ。更には、イスラム教徒がまとめたコーランに載っている御言葉だ。

 何れも神様の御言葉を文字に記した物だ。

 時間を超えて君達が語り継げるように、文字に起こす事を神様も望んだ。

 でもね、君達は経典に拘り過ぎているよ。

 信仰のあかしとして、経典に拘るのは良い事だ。

 だが、違う経典を大事に思う者を忌み嫌い、増してや攻撃するなんて、神様は決して望んではいない。

 バベルの塔の一件以来、神様は君達から心で会話するすべを取り上げになった。

 其れは其れで、君達の傲慢になった性根を懲らしめるのに必要な所業だった。其の結果、君達はお互い疑心暗鬼に駆られる存在になった。

 でもね、だからと言って、理解できない相手を忌み嫌うのは間違っている。

 自分の胸に手を当て、感じて御覧よ。

 彼らだって君達と同じ人間だ。幸せを望む気持ちに変わりはない。そして、意味も無く、誰かを傷付けたがっているはずもない。お互いに理解できないから、不安に感じているだけだ。

 でも、双方が歩み寄れば、理解し合えるはずだよ。

 キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒。

 違いが有るようで実は、君達は同じ神様を敬っているのだよ。神様は御一人しか居ない。

 神様の望む事は唯一つ。君達が平和に、友愛に満ちて、安寧に暮らす事。

 其の為に、此の世に説教する者を何人も遣わせた。私も其の1人だった。

 イスラム教の開祖ムハンマドも其の1人だ。

 神様は大天使ガブリエルをムハンマドの元に遣わし、神様自らが直々に伝えようと一時的に天に召したのだ。

 其の頃、私は東方の国に生まれ変わっていたから、其の時の経緯は後で知ったんだけど、そう言う事だからね。

 其の後、私は輪廻転生から外れて極楽で仕えるようになった。一方のムハンマドは輪廻転生に身を委ね、幾度も現世で生命を授かっている。今も誰かの身に宿って、此の世を善くしようと努力しているはずだ。

 仏教のラマ老師もそうだよ。

 私達みんなの想いは一つ。

 繰り返すけれど、君達が平和に、友愛に満ちて、安寧に暮らす事。

 ところが、肝心の君達が啀み合っている。

 だから、地獄の閻魔大王が現れた。彼の出現は、神様の御意志だからね。

 私はもう消える。極楽に戻る。

 だが、しばらくは閻魔大王が此の世に留まる。だから、閻魔大王の言う事を、心に刻んで欲しい。

 閻魔大王の望みも、君達が平和に、友愛に満ちて、安寧に暮らす事だから』


「此の後は如何どうするんだい? 2人とも報道の仕事に戻るの?」

「取り敢えずは充電だな。

 未だキャサリンとは話し合っていないけれど、別の本を出版したいと、俺は考えている」

「別の本?」

「ああ。バットマンの奮闘記を書いてみたいんだ。テロリスト達との攻防劇さ」

『其れは残念だな、アーネスト。黒鬼は地獄に戻そうと考えておるぞ。大分、収束して来たからな』

「えっ!? でも、安全保障サービスとかは? あれもバットマンの領域だろう?」

『事が起これば黒鬼の役務だが、そう言う動きも無い。

 世界中で邪鬼共が監視しておけば、事足りるであろう』

「何だよ。それじゃ、俺の2冊目の目論見は潰えるのかあ~」

『だったら、地獄に戻る前に、黒鬼に憑依して貰えば良かろう』

「そうか。其の手が有ったか!」

「ドクター学鬼も帰っちゃったし、バットマンまで居なくなると、何だか寂しくなるわね。

 ミズ怠鬼は如何どうするの?」

『精気の補充で時々は地獄に戻るが、ワシは現世に留まるぞ。ワシの役務は閻魔大王の御側に仕える事じゃからな』

「だったら、私に憑依してニューヨークに戻らない? パイエスト共和国じゃ、刺激に乏しいんじゃなくて?」

『そうじゃのう。じゃが、今の処、退屈はしとらん。退屈蟲も湧かんしな』

「そう。もし刺激に飢えたら、直ぐに連絡してちょうだい。今度こっちに来る時には娘も連れて来るから」

『そうでしたね。キャサリンさんの娘に憑依する約束でしたね』

「ええ。約束を覚えていてくれて、嬉しいわ。クィーン旱魃。

 母親ってね、子供の事になると、図々しくなるのよ」

『そうみたいですね。瑠衣を見ていると、く分かります』

 瑠衣が膨れっ面をし、旱魃姫とキャサリンが冗談めかして笑った。

「そう言えば、閻魔さん」

『何じゃ?』

「そろそろ、ハリケーンの季節じゃん。日本でも台風シーズンに突入するし・・・・・・」

『だから?』

「嵐が襲って来る度に、閻魔さんと旱魃姫が出動するの? 去年の経験から、結構、期待が高まっていると思うよ」

 顔を見合す閻魔大王と旱魃姫。行きたいのは山々である。だが回数を重ねると、猛にバレるかもしれない。

「でもさあ、猛。NASAの科学者が分析していたけれど、中心部で水蒸気が水に変わる時の発熱を抑えるのが、ハリケーン消滅のメカニズムなんだよね?」

 腕の中で魔聡をあやしながら、瑠衣が指摘した。

「確か、そう言っていたな」

「猛は以前、地獄には雪女だった女性が居るって、私に話さなかった?」

「うん。居るよ。冷鬼さん」

「だったら、冷鬼さんにも加勢して貰ったら? いつも閻魔さんと旱魃姫が出張っていたら、大変でしょう? 閻魔さんが居なければ、猛1人で閻魔屋を切り盛りするのって、無理じゃないの?」

『其れは妙案かもしれんな』

「あら。私達が会っていない鬼が新たに登場するの?」

「うん。キャサリンは、地獄ツアーの時、冷鬼さんに会わなかったの?」

 冷鬼に会った記憶は無い。猛と違って、地獄ツアーの参加者は手っ取り早く、見処だけを見て回ると説明を受けたから、極寒の刑場はツアー・コースに含まれていなかったのだろう。

「会っていないと思う」

「日本では雪女と呼ばれていた女性だよ。英語だと、プリンセス・スノー・ホワイトかなあ。白雪姫」

「おいおい。プリンセスと言いつつ、また結婚しているんじゃないんだろうな」

「今は結婚していないよ。夫には死に別れたらしいから、寡婦って言うのが正確かなあ」

「地獄の鬼達って、色んな生い立ちの鬼が居るのねえ」


 8月にメキシコ湾でハリケーン・ベッキーが発生した。

 カテゴリー2に分類される小型ハリケーンだった。小手調べには丁度良いので、地獄から冷鬼が呼ばれた。ついでに風鬼も呼ばれた。

 風鬼だけ極寒の刑場に残っても、刑罰の内容が何だかなあと言う内容にしかならないからだ。

 現世での役務を終えれば、辞去した地獄の瞬間を目指して戻る。咎人とがにん達が冷鬼と風鬼の不在に気付く事は無い。

 冷鬼と風鬼は鬼畜に乗って、パイエスト共和国に現れた。

 猛のマンションに居候状態だったアーネストが興奮する。

「オー、マイ、ゴッド! 美女と野獣のコンビだな。美女の方は絶世の美女だ」

 厩の菩薩を目にしてから、口癖の「ジーザス、クライスト!」と言う感嘆の台詞せりふをアーネストは口にしなくなっていた。呼び捨ての名前をバーゲン品の様に連発する事について、自分でも少しはばかるものを感じたらしい。

 雪の様に白い肌をした冷鬼の顔付きは、切れ長の細い目をしたアジア系の細面。旱魃姫と同様に、黒い艶の有る髪を腰まで伸ばしている。スリットの入った白いシルク生地のワンピースを着用し、スリットからは細い脚が覘いている。

 異国風の女性が美人に見えるのは男性の常であるし、アイルランド系独身男性のアーネストには冷鬼が絶世の美女に見えるだろう。冷静に眺めていた同性のキャサリンだったが、他人の感想に野暮な突っ込みをするのも無粋なので、黙っていた。

 一方の風鬼の形相に対しては、キャサリンも驚いた。

 ギョロリとした両眼の上には金色のゲジゲジ眉。馬の尻尾の様に長い金髪の旋毛からは1本の角が生えている。全身は緑色で、黄色と黒色のストライプの腰布をまとっただけのワイルドな格好。

 これまで会った鬼達の中でも、ゴブリンと言う単語がピッタリの外見だった。ただ、外見とは違い、善良で非常に大人しい性格だと言う事は、キャサリンも理解している。

「ミズ冷鬼の衣装はハリケーンの中に突入しても大丈夫なの? 確か、昨年のハリケーン・ケイトに突入した際、キング閻魔は素っ裸になったって聞いたけど・・・・・・?」

『そうだった。冷鬼よ。汝の衣装は三途の川より学鬼が持って来た物であろう? 地獄では作れぬからな』

『はい』

『そうであれば、冷鬼の衣装は嵐に千切れるぞ。此処で脱いで行くが良かろう』

 閻魔大王以外の全員が「えっ!?」と素頓狂すっとんきょうな声を上げた。旱魃姫さえも呆れて口を開けている。風鬼だけがキョトンとしている。

『閻魔様。冷鬼は女子おなごじゃ。其れは、ちぃとマズイと思いますぞ』

「そうよ、そうよ。閻魔さん。其れはアンマリだわ」

「まあ、確かにマズイな。完全にセクハラだな。個人的には、少し未練が残るが・・・・・・」

 ウッカリ本音を漏らしたアーネストを、キャサリンが肘で小突く。

『駄目か?』

『閻魔大王。私はいつも閻魔大王を信じていますけど、其れは、ちょっと・・・・・・』

「仕方無いわねえ。彼女には、フロリダ辺りで、私が水着を買って上げるから。ところで、そちらのミスター風鬼に水着は必要無いの?」

『奴の腰布は馬鹿の革だからな。大丈夫だ』

 要領を得ないのでキョトンとしたままの風鬼だった。

 昔の日本では神様扱いされたのに、此処ではミスター呼ばわりだったので、少しだけガッカリしている風鬼だった。


 キャサリンは冷鬼の後ろに、アーネストは風鬼の後ろに跨って、4人を乗せた鬼畜はアメリカを目指した。

 途中、フロリダのスポーツ用品店で冷鬼の水着を買った。其の間、風鬼は人目に着かない場所に隠れていた。

 冷鬼の好きな色は白らしいので、最初はセパレート・タイプの水着を試着してみたが、肌の色が透き通る様に白いので、遠目には裸体と大差無く見える。黒い水着も試着してみたが、写真には地味に写る。徐々にキャサリンよりもアーネストが口煩く注文するようになり、彼の好みが前面に出てしまった。

 結論を言えば、赤と青のストライプ。

 アメリカの新聞に写真を掲載するならば、アメリカ合衆国の国旗に因んだ配色の方が良いと、同じマスコミ業界人としてキャサリンも理解できる。

 反面、縦縞模様は冷鬼の胸の膨らみを少しでも強調するのが目的だろうに、とアーネストのスケベ心を薄々見破っていたし、へそが隠れるワンピース・タイプを選ばない理由も欲望以外の何物でもないだろう――と勘繰っていた。

 それでも、男性読者の購読数を増やす為には無視できぬ重要な要素だと割り切って、キャサリンは黙っていた。見返りに、「アーネストの好みを色濃く反映したんだから」と、彼のクレジットカードで決済した。


 冷鬼の活躍に依り、アっと言う間にハリケーン・ベッキーは熱帯低気圧に変わった。

 突入前、ハリケーンの雨雲の壁を背景にビーチの砂浜で、風鬼と冷鬼の雄姿をカメラに収めるアーネスト。自然と1鬼ずつのスナップ写真も収める事になるが、冷鬼の撮影枚数の方が圧倒的に多い。雰囲気もモデル撮影の乗りである。とても災害現場の撮影とは思えなかった。

 此の写真は『キング閻魔のしもべ、再びハリケーンを撃退!』と言うキャッチフレーズで、グローバル・ニュース社と、中央ニューズ・ネットワーク社の配信網を通じ、アメリカ全土に流された。

 其の後、転載と言う形で数有るタブロイド紙の紙面を飾る事になる。勿論、1面トップの写真は冷鬼の水着姿である。此の一件以来、冷鬼は「スノー・ウィッチ」、雪の魔女と呼ばれ、有名になった。

 ハリケーン・ベッキーを弱体化させてパイエスト共和国に戻ると、いつも無口な風鬼がボソリと呟く。

『あのハリケーンと申す嵐。俺にも操れそうな気がする』

『本当か!』

 確認を取る閻魔大王の大声に、頷く風鬼。

『あの嵐、アフリカの砂漠まで引き連れて来られると思うか?』

 閻魔大王の念押しに、頷いて答える風鬼。

『よ~し。それでは、次なる嵐が発生したら、是非にも試みてみよう』

 ハリケーン・シンディーが発生すると、風鬼と冷鬼のコンビで出動するも、今度は風鬼がメインの働きを見せた。

 気圧の谷を上手く操作し、ハリケーンの進路を南東方向に転舵させる。大西洋のエネルギーを吸収させて大きく育て、サハラ砂漠の西岸に上陸させた。

『気象実験をするから、大西洋を航海中の船舶に警告しておいて欲しい。大嵐が来るので、注意しろと』

 閻魔大王は馴染となったアメリカの国立ハリケーン・センターに予告しておいたのだが、史上初となるハリケーンの進路を観測したスタッフ達は度肝を抜かれた。

 だが、アフリカ東部のパイエスト共和国に到達する前に、ハリケーンは消滅してしまう。

『恐るべしだな、サハラ砂漠め』

 歯軋りする閻魔大王であったが、ハリケーン上陸を回避できたアメリカと、突然の降雨に恵まれた西部アフリカの人々からは絶大なる称賛を集めるのだった。


『地獄の鬼達を使って自然災害を治める方策が、他にも有るのだろうか?』

 閻魔大王は猛達の顔を見回す。

 そうって日々頭を巡らしている内に、次なる事案が浮かんだ。

 例年とは違い、雨季の降水量が少なく乾燥気味だった東南アジアで、大規模な山火事が発生したのだ。

 密林の奥地で発生した山火事の現場に辿り着くには、消防車両でのアプローチは不可能で、消防ヘリで向かうしかない。消防ヘリの運搬できる水量は限られており、文字通り、焼け石に水の状態であった。

 黒煙は、空高く吹き上がる様子が気象観測衛星で観測できるほど、広範囲に渡って空を覆った。飛行機の航行にも支障が出る有り様だった。

 閻魔大王は火災現場に息鬼そっきを遣わせた。重度の咎人を相手に、窒息の刑を施す鬼である。

 屈強な体躯をした鬼達の中では珍しく、息鬼そっきは極度に痩せていて、骨に皮が張り付いた様な外見をしている。皮膚が辛うじて全身を覆ってはいるが、骸骨を思わせる。髑髏どくろの眼窩からは、血走った眼玉が飛び出そうになっている。頭も禿げており、縮れ毛が何本か申し訳程度に伸びている。

 貧弱な息鬼そっきを、天狗にソックリな落鬼が、火災現場の上空まで運ぶ。

 落鬼は息鬼そっきを火災現場の端に降ろすと、上空に戻って待機した。

 髑髏の様な顔の下顎を大きく開けた息鬼そっきは、カアーッと息を吸い込む。すると、付近の一帯は真空状態となり、急速に鎮火した。

 次の瞬間、息鬼そっきは吸い込んだ空気を、プハーッと吐き出す。今度は逆に、強い風の流れが大砲の様に吹き出された。息鬼そっきの前には、鎮火した地面が一直線に伸びる。

 落鬼が舞い戻り、息鬼そっきを次なる場所まで運ぶ。其処でまた息鬼そっきは、カアーッと息を吸い込み、プハーッと吐き出す。此の動作を繰り返す事、数時間。大火災は殆ど鎮火された。

 最後の仕上げに、鬼畜に乗った風鬼が海上の水蒸気を雨雲に変え、雨を降らせた。此れで完全に鎮火された。


 別の場所には冷鬼が遣わされていた。冷鬼の役務は南米沖合いの太平洋に漂う事。

「ハリケーンを消滅させるミズ・スノー・ウィッチですが、南米沖のエルニーニョを冷やす威力をお持ちなのかどうか。

 海面温度を測定する衛星を東太平洋に張り付けますので、共同実験をお願い出来ませんか?」

 NASAの地球科学事業部門の科学者が、閻魔大王に協力を要請したのだった。

 エルニーニョとは、赤道直下の東太平洋の海水温度が、南米沖から西の方に向かって上昇する現象である。

 酷い時には、東南アジア間近の海域まで海水温度が上昇する。

 発生原因は分かっていないが、兎に角、エルニーニョ現象が起こると、海流と大気の流れが乱れ、気象が荒れる。

 或る地域での気温が上昇する一方で、他の地域では気温が下がる。或る地域では大雨に見舞われ、別の地域では日照りに襲われた。穀物は一様に不作となる。

 エルニーニョ現象を冷鬼の能力で緩和できないか。其れがNASAの提案であった。

 大層な構想だが、冷鬼に期待された活動はシンプルである。

 要は、東太平洋で海水浴を楽しんで貰い、ついでに冷気を放出して欲しい。そう言う事だった。

 海原に乗り出したクルーザーの甲板から、ビキニ姿になった冷鬼が波間に飛び込む。アーノルドに買って貰った青と赤のストライプ模様の水着だ。

 大した金額でもないのに、「俺は彼女のスポンサーだ!」と言い張り、彼女の泳ぐ姿にファインダーを合わせるアーネスト。

 だが、冷鬼の水着姿を追い求める者は、アーノルドだけではなかった。

 冷鬼の写真が高値で売れると知ったパパラッチが殺到して来たのだ。冷鬼の乗るクルーザーの周囲を何隻ものクルーザーやヨットが取り囲む。漁船をチャーターするパパラッチも多かった。

 そんな男達を煩わしく思った冷鬼は、海中深くに潜水する。息継ぎの不要な冷鬼。クジラの様に深く、長く海中に留まって冷気を放出させる。

 パパラッチ達は、強烈な日光をキラキラと反射する波のうねりを眺めているしかなかった。

 アーネストも、海中の冷鬼を撮影できない点はパパラッチ達と同じだったが、彼には甲板で冷鬼を撮影する特典が有った。

 図らずも、アーネストの第2の出版物は『バットマン奮闘記』ではなく、『マリン・スノーの伝説』と題するグラビア写真集となった。

 一時は本気で冷鬼を口説きたがったアーネストだが、閻魔大王に、

『冷鬼は永遠に生きるぞ。汝に仙桃を食わして遣っても良いが、千年の生命を手にする事になる。

 千年紀の長きに渡り、冷鬼だけを愛し続ける覚悟が、汝には有るのか?

 50年もすれば、周りの人間共は汝の知らない者ばかりになってしまうが、そんな時間を千年も独りで過ごす覚悟が、汝には有るのか?』

 と指摘されて、泣く泣く諦めた。

 元より冷鬼の方では、アーネストに全く関心を示していない。

 NASAとの共同実験の結論を言うと、エルニーニョ現象を緩和する事は出来たが、消滅させる事は出来なかった。冷鬼のパワーは、そこまで強力ではないらしい。


 他にも、昆虫や病原菌の類が大発生した場合、蟲鬼と疫鬼の力を借りるアイデアも出ている。

 穀倉地帯が旱魃に見舞われたら、余程の内陸部でない限り、風鬼に雨雲を海上から運んで貰うアイデアも出ている。

 此れらのアイデアを実行する機会は未だ無い。


 閻魔大王は気候変動にまで世直しの手を広げつつあり、パイエスト共和国を拠点に多忙な日々を送っていた。

 クリスマスが間近に迫った12月。

 片腕に青鳥せいちょうを留まらせた邪鬼が猛のマンションを訪れ、「閻魔様に伝言をお持ちしました」と報告した。

『閻魔よ。現世にて活躍しておるようじゃな。旱魃も息災で何よりじゃ。

 ところで、な。閻魔に神様からの御指示を伝える。

 現世に厩の菩薩が生まれた日。つまり、12月25日未明。旱魃姫と共に、エルサレムと言う街の“岩のドーム”にて控えておれ。

 此れが神様からの指示だ。

 偶には皇城まで顔を見せに来いよ。2人に会うのを楽しみにしておるぞ』

 黄帝よりのメッセージだった。

「何だろうね?」

『分からぬ。だが、神様の御指示とあらば、従うまでだ』

「これまでも神様から御指示を受けた事が有るの?」

『いいや、無い。ワシにとっては初めての経験だ。神様にお会い出来るのは、黄帝様だけだ』

『一体、何でしょうね?』


 クリスマスイブの聖墳墓教会。キリスト教各派のミサが厳かに行われる。

 蝋燭を灯し、讃美歌を歌い、祈りを捧げるだけの静かなクリスマスイブ。浮かれた馬鹿騒ぎとは無縁である。イエス・キリストの生誕に感謝する、静かで穏やかな空気が漂うのみである。

 夜も更け、除夜の鐘が鳴り、日付けが変わった事を告げる。

 辺りは静寂に包まれ、夜空には星がまたたいている。中東の地にあっても深夜ともなれば、気温は5度前後にまで下がり、肌寒い。

 アーネストとキャサリンは、聖墳墓教会のミサに参列した後、“岩のドーム”まで石畳を歩いて移動した。

“岩のドーム”前の広場では、深夜にも関らず、人集りが出来ている。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の司教や修道士達が集まっていた。

――神様が何を預言なさるのか?

 宗教関係者ならば、降臨現場に立ち会いたいと思うのは、自然な事であった。

 閻魔大王の憑依した猛と、旱魃姫の憑依した瑠衣も、広場の中央に立ち、夜空を眺めていた。魔聡は瑠衣の腕の中でスヤスヤと眠っている。

 午前4時を過ぎた頃。北極星が一段と輝きを増し始めた。

 最初に気付いた者が北極星を指差し、大声を上げた。池に投げ込まれた小石が広げる波紋の様に、広場には息を飲む気配とどよめきが広がる。

 数分の後、夜空の天頂から眩い光の筋が広場に差し込み、直径5m程の大きさまで拡大する。

 光のチューブの中では、舞台でスポットライトを浴びた俳優と女優の様に、猛と瑠衣が佇んでいる。眩しさの余り、掌で瞼の上に陰を作り、天頂を見上げる。

 遥か彼方の天頂から、後光の射した者がゆっくりと降りて来た。最初は小さく黒いシルエット。徐々にシルエットは大きくなり、落鬼と同じく背中に翼を生やしているのだと認められる。

 更に近付くと、白い腰布だけを身に着けた裸体の男が、滑空する様に白い翼を広げているのだと判明する。

『我が名は、ガブリエル。第一の大天使。

 閻魔大王よ、旱魃姫よ。姿を現すが良い』

 大天使ガブリエルの呼ぶ声に導かれ、閻魔大王と旱魃姫は幽体離脱する。

『完全なる姿を我に見せよ』

 旱魃姫は閻魔大王を見遣った。

――此処で解脱しては、地上に悪影響を及ぼしてしまう・・・・・・。

『案ずるな。此の光の中で、汝の能力が悪さをする事は無い』

 全てお見通しである。

 意を決して、閻魔大王と旱魃姫は解脱した。

 猛と瑠衣は自分達が場違いな存在だとわきまえ、スポットライトの外に後退あとずさった。

 古代中国の皇帝装束をまとった閻魔大王と、羽衣はごろも姿の旱魃姫の2人は、尚も降りて来る大天使ガブリエルの姿を見上げた。

 他の者は身を強張らせ、固唾を飲んで大天使降臨の一部始終を見守っている。

 閻魔大王の頭上すぐ上の高さまで降りて来た大天使ガブリエルは、一度だけ白い翼をバサリと羽搏はばたかせ、右手を真上に上げると天頂を指差した。

『神様が御呼びである。我に続くが良い』

 閻魔大王が旱魃姫の手を強く握る。それまで大天使ガブリエルに向けていた目線を、僅かな角度だけ動かし、天頂の方に向け直した。

 召喚の光景を見ていた猛は、此の儘、閻魔大王が居なくなってしまいそうに感じ、思わず大声を上げた。

「閻魔大王!」

 閻魔大王が猛の方を振り向く。大天使ガブリエルも猛を見降ろした。

「また、会えるよね?」

『勿論だ。現世の世直しは未だ終わってはおらぬ』

 大天使ガブリエルが再び白い翼を羽搏はばたかせ、閻魔大王を催促する。

 バサリと言う羽音と共に、1本の羽根がブランコの様に揺れ、舞い降りる。大天使の羽根は猛の足下に落ちた。

 大天使ガブリエルに導かれ、閻魔大王と旱魃姫は光のチューブを昇り始めた。2人とも屹立したままの姿勢で、地面を離れた爪先だけが脱力した様に垂れ下がっている。

 閻魔大王と旱魃姫、大天使ガブリエルの姿が天頂に見えなくなると、光のチューブは細くなり、輝きを失い、最後には消えてしまった。

 北極星の輝きも元に戻っている。

 時間にして数十分。星々だけがきらめく新月の夜空が“岩のドーム”の周囲に戻った。

 猛は、足下の石畳に転がった白い羽根を拾い上げると、無言で天頂の星空を見上げた。


 神様の御前に召された閻魔大王と旱魃姫だったが、初めて足を踏み入れる場所なので、戸惑いの表情を浮かべている。まず、自分達が立っている場所が、捉え所の無い場所だった。

 四方八方が半濁した様に白く、霧の中に佇んでいる様な錯覚に陥る。

 ただ、霧の充満した森を彷徨さまよう様な感じはなく、先に行けば行く程に明るくなる。明るいが、何も映し出さず、一切の影も無いので、虚無の光の壁に囲まれている様な気になる。

 一方で、遥か彼方に壁が存在する様に感じるが、少しも圧迫感を感じない。距離感をつかめず落ち着かないと言う息苦しさだけが残る。

 また、いつもの浮遊感を全く感じないのに、そうかと言って、地面の感触も無い。

 確かに自分達は立っているのだが、爪先を下に伸ばすと、背伸びをする事にならない。単純に爪先が下に伸びる。だからと言って、奈落に落ちる事も無い。

 閻魔大王と旱魃姫の周囲には、2人を取り囲むように、7人の天使が等間隔に屹立している。7人とも身長は、閻魔大王よりも更に高い。大天使ガブリエルは閻魔大王達の正面に立っている。

 7人の天使達は、顔付きが微妙に異なるも雰囲気は似ており、体格も似ていた。彼らの裸体は、男なのか女なのか、性別が判然としない。筋肉の盛り上がりは僅かだし、胸も平板だ。体毛は無く、頭皮に金髪が生えているのみ。金髪も胸の辺りまで伸びているので、性別を判断する材料にならない。

 今は、7人の全員が黙して瞼を閉じ、背中の白い翼も折り畳んでいる。両手を胸の前で交差させ、僅かに俯いている。休んでいる様でもあり、祈っている様でもあった。

 天使達と会話しようとは思わなかったが、だからと言って、閻魔大王と旱魃姫が会話を交わせば、天使達に聞き耳を立てられそうであった。声を出す事がはばかられる点でも、気が安まらなかった。

「閻魔大王、旱魃姫。天界に、ようこそ」

 何処からか、神様の声が響いて来た。優しい声だった。男の声なのか、女の声なのか、どちらとも感じられる不思議な声だった。

 反響はしていない。声の来る方向は判然とせず、前方からの様にも感じるし、上からの様にも感じる。

 畏まった方が相応ふさわしいのだろうと考えた閻魔大王と旱魃姫だったが、平伏の姿勢を取ろうと膝を曲げるも、上手く行かない。床と言う物が無いので基準が定まらず、猫背になった閻魔大王と旱魃姫が微妙な角度でズレてしまう。

「気にする事はありません。立ったままで構いません。

 此の天界では、三界の仕来しきたりは一切が無意味なのです」

 直立の姿勢に戻り、互いに身体を寄せ合う閻魔大王と旱魃姫。

「2人を天界に召し上げた理由は、新たな使命を与える為です」

「「新たな使命?」」

「閻魔大王を、天空神に任じます。これ以降、天空神閻魔と名乗るが良いでしょう。

 かつては、ゼウスと名乗る天空神が君臨していました。ですが、其のゼウスは他の星での役務に励んでおり、此の地球の天空神の椅子は空位となっています。

 現世、地獄、極楽の輪廻転生の営みとは別に、現世での自然界の調和を執るのが天空神の役務。天空神が空位ゆえ、現世が乱れていると言う一面が有ります。

 地獄を統べる閻魔大王が、現世の人間社会にも手を加え、果ては自然界の事にまで手を広げようとする行いを、私はつぶさに見てきました。

 そして、閻魔大王は天空神の役務を司るに相応ふさわしいと、私は審判しました。

 旱魃姫は、天空神閻魔を助けるのです」

「それでは、地獄を統べる私の役務は無くなるのですか? 地獄には戻れない?」

「そんな事はありません。これまでと同じ様に振る舞って構いません。今でも、地獄の事は赤鬼に託しておいででしょう?」

「はい。其の通りです」

「ですが、天空神閻魔となったのですから、貴方達の拠点はオリュンポス神殿に移ります。今は誰もらぬオリュンポス神殿ですが、其処で天空神としての役務を営むのです」

「私ら2人だけで?」

「其れは無理な話と言うもの。貴方達を手助けする者は必要でしょう。地獄から鬼を連れて行っても構いませんし、極楽から天女、仙女を連れて行っても構いません。

 ですが、地獄も極楽も手一杯である事は、もう一つの事実。

 ですから、貴方達2人で子供を作り、産まれた子供に必要な能力を与えるのが有るべき姿だと、私は思いますよ」

「「子供・・・・・・ですか?」」

 子供と言う神様の言葉に、閻魔大王と旱魃姫は息を飲んだ。

「ですが、神様。私らの身体では子供を作れぬと聴きました」

「閻魔大王でいた時はね。

 でも、今や天空神閻魔と其の妻になったのです。

 だから、貴方達2人の身体は子供を作れるようになりました。やがて、旱魃姫の身体には経血が訪れ、子供を腹に宿すでしょう。

 の様な能力を生まれた子供に授けるか――は、改めて私に祈りなさい。願い通りの能力を授けて上げます」

 閻魔大王と旱魃姫は向き合い、胸の前で互いの両の掌を重ねた。

 嬉しさの余り、旱魃姫の両眼からは涙が溢れ出た。歓喜に胸を震わすのは閻魔大王とて同じ事。

 2人はヒシと抱き合い、相手の背中に回した両腕に力を込めた。

「子供は1人ですか?」

「いいえ。天空神の役務を果たすに必要な数だけ」

 こんなに嬉しい事は無い。望外の極み。予期せぬ朗報だった。

「「有り難うございます!」」

 2人は声を揃えて、神様に感謝の気持ちを伝えた。

――旱魃姫との間に子供を儲けるだけでなく、家族で世界を創り直していけるのだ。確かに自分達が存在したと言うあかしを遺す事が出来るなんて、此れ以上の醍醐味は無い。

 天空神としての新たな役務に想いを巡らし、閻魔大王は武者震いした。

「それでは、大天使ウリエルに2人をオリュンポス神殿まで案内させましょう」

 神様から指示され、2人の右後ろに屹立していた天使が目を開けた。バサリと翼を一振りし、「こちらへ」と言う身振りをする。

 閻魔大王と旱魃姫の2人は手を取り合い、大天使ウリエルの誘う方に歩いて行った。

 何処までも霧は晴れないが、進む程に明るくなって行く。まるで、2人の将来を暗示しているかのようだった。あの明るい未来を目指し、2人して歩んで行こうと、改めて決心する閻魔大王と旱魃姫であった。


 完 

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