24. 次なる世直し

 アーネストとキャサリンの助言を得て、閻魔大王は、閻魔屋のオフィスをパイエスト共和国に開設した。

 会社登記地の英領バージン諸島に事務所を構えるのが素直な判断なのだが、此処はテロリストに襲撃された場所でもある。治安を考えると、パイエスト共和国の軍隊に警護して貰うのが安心だし、ムーレイ大統領も快く引き受けてくれたのだ。

 事務所長には、猛が就任した。グローバル・ニューズ社を辞め、閻魔大王との同行に専念する。

 麻薬中毒患者の治療サービスは、今でも共和国政府に一任している。

 国境無き医師団の監督を受けたパイエスト国民が、収容所で患者の世話を焼いていた。地獄の関与は、無くなりそうになった腐臭の素を補充するのみだった。

 地獄ツアーの運営も共和国政府に任せている。

 チケットを売り、其の場で邪鬼に地獄まで連れ去って貰う。チケット代金はパイエスト共和国の収入となるが、必要設備はチケット販売の小屋だけなので、濡手で粟の経済支援策と言えた。

 安全保障サービスの方は、相手が国家だけに商談件数は限られる。

 だから、其の時々の閻魔大王の所在地が受付窓口となった。それでも、米中印の空母艦隊を無血撤退させてから1年余りが過ぎ、相談に訪れる国が増えていた。

 今度は、徴税支援サービスも新たに始める。

 基本的には国家が顧客だが、「地獄で得た脱税情報を売りますよ」と言うサービスなので、国税庁だけでなく地方税務署も相手しなければならない。つまり、関係する税務当局の数は格段に増えるので、円滑な運営を望むなら、事務所を抱えスタッフを雇う必要が有るのだ。

 スタッフには、各国の税務や帳簿管理に長けた優秀な人材が必要だ。平たく言えば、高給取りだ。

 事務所の運営コストを捻出する為に、徴税支援サービスの料金は追加税収額の10・8%と言う成果報酬型にした。サービス料率は百八と言う煩悩ぼんのうの数にちなんだ。

 徴税支援サービスの最終ターゲット、つまり、50%の閻魔税構想を最初から世界に発信する事は控えた。混乱回避の為である。

 まずは、全世界の税務当局とのネットワークを構築する。税務当局が閻魔税構想に反対するはずは無いので、彼らの後方支援も当てに出来ると見通してから、閻魔税構想を公表する。

 一方の地獄では、奉行所のやしろで既にうまやの菩薩が役務に就いていた。

 菩薩の目の前を亡者の列が通り過ぎる。白州しらすではなく、赤茶けて乾燥した土が剥き出しの大地であった。

 通り過ぎしなに、3人の邪鬼が三つの質問を亡者に投げ掛ける。

 お前は、お前の国で金持ちだったか?

 お前は、ちゃんと現世の税金を納めたか?

 お前は、税金を少なくする為に、知恵を出したか?

 此の三つの質問への答え方を厩の菩薩は見極めていた。

 三途の川を渡ったばかりの亡者の性根しょうねは曲がったままだ。だから、全員が全員、正直に話しているとは限らない。

 だが、初めて見る地獄の光景に度肝を抜かれた状態なので、嘘をけば、感情の揺れが表情なり声音こわねなりに現れ易い。何か隠し事の有る亡者には何処かしら不自然さが出てしまう。

 勿論、貧しい国や文明の恩恵を十分に受けなかった地域で一生を過ごした亡者が「国って何だ?」「税金って何だ?」と質問し返す場面が生じる。そう言う亡者は何も咎めずに素通りさせる。

 怪しいと踏んだ亡者についても、厩の菩薩は何も咎めない。亡者の胸に梵字の短冊を貼り付けるのみである。

 判じ場で梵字の短冊を見た赤鬼は、浄瑠璃鏡じょうるりかがみで性根の曲がり具合を検分し、通常よりは重めの刑を宣告する。

 刑に服役している最中も梵字の短冊は剥がれない。たとえ張り裂けの刑場で裂鬼れっきに身体を八つ裂きにされようとも、梵字の短冊は千切れず、貼り付いたままである。

 青鬼が凝視する盤上の炎が白く変わり、性根の矯正が完了したと判断されると、梵字の短冊が付いた咎人とがにんは、黄鬼の役務場ではなく、学鬼の元に送り届けられる。

 学鬼は、送り届けられた咎人達を出身国別に仕分けし、現世に連行するのだ。パイエスト共和国に構えた事務所にって来る税務当局の係官に、咎人を相対させる。

 一次的な取り調べは学鬼が地獄で行うが、現世で係官が更に詳しい取り調べを行う。

 税務官の取り調べ内容を聴く事が、学鬼の楽しみになった。税金を巡る騙し合いの奥深さ、枯れる事の無い泉の如く次から次に編み出される脱税手法の開陳かいちん。人間のごうを知りたいと言う知的好奇心を満たす為の、またとない題材であった。

 一連のプロセスは地獄ツアーの参加者も見学する。だから現世で、納税意識の高い人間が少しずつ増えて行った。


 静岡県浜松。

 父親は工場に、母親はパートに出掛けており、実家には瑠衣と旱魃姫、怠鬼の3人だけであった。学鬼が地獄に戻ったので、怠鬼はニューヨークから日本に転居していた

 梅雨が明け、真夏日が連日の様に続く7月下旬。瑠衣は臨月を迎えていた。瑠衣の腹部はポッタリと膨らんでいる。

 妊婦は身体を冷やしてはいけないと忠告されたので、実家のエアコンの設定温度は29度。

 旱魃姫の衣装と似た感じの、でも正真正銘の薄手のネグリジェ1枚の姿で、瑠衣は布団の上に寝転がっている。体感的には29度以上の暑さを感じ、実際、瑠衣の全身からは汗が噴き出ている。髪の毛もベッタリと顔に張り付いている。

 瑠衣の横で怠鬼が団扇を扇いでいる。反対側では首を少し上に背けた扇風機が回っており、瑠衣の背中に弱い風を当てている。

『猛さんと閻魔大王。早く来れば良いのにね。

 もうすぐ赤ちゃんが産まれるって言うのに、遠くに離れているなんて、何を考えているのかしら?』

 瑠衣の体調と同調している旱魃姫も、少し気怠けだるそうである。

「仕方無いよ、旱魃姫。明日、明後日には日本に戻って来るでしょう。出産予定日は2週間先だし・・・・・・」

 目を閉じたまま、瑠衣は気の無い返事をする。

 産婦人科病院の母親教室で習った分娩時の呼吸法を、念仏の様に御復習おさらいしている。

『閻魔大王なんて、結局、瑠衣の赤ちゃんがお腹を蹴る動きを確かめなかったじゃない?

 赤ちゃんが蹴るタイミングなんて分からないんだから、ずうっとそばに居ないと、あの感動を味わえないのに・・・・・・』

 いつもの旱魃姫と違って、直ぐにイライラしてしまう。

 瑠衣の緊張感が伝わっているだけでなく、極楽から現世に戻って以降、閻魔大王とは殆ど会えていない不満が溜っている様だった。

「仕方無いよ、旱魃姫。閻魔大王には遣るべき事が有るんだもの。

 私、ちょっと、トイレに行って来るわ」

 瑠衣は両腕を布団に突き、ヨイショっと掛け声を上げて、重々しく立ち上がった。

 瑠衣の後ろ姿を見ていた怠鬼が、

『瑠衣! お前さん、尻の処が赤く染まっているぞ。血が出ているんじゃないか? 痛くないのか?』

 と、質問した。

 瑠衣が後ろを振り返り、ネグリジェの臀部でんぶが視界に入るように、裾を摘まんで生地を広げた。確かに赤い染みが着いている。裾を手繰たくし上げ、右手で股を触ってみる。ネットリとした感触が指先に伝わった。

「・・・・・・始まったみたい」

 瑠衣の呟きに、旱魃姫と怠鬼が浮足立った。

『えっ!? もう産まれるの? これから産まれるの?』

『子供を産む時は如何どうするんじゃ? 如何どうやったら、産まれて来るんじゃ?』

「ちょっと落ち着いて、2人共。これから長丁場だから。今からお母さんに電話するわ。

 それと、怠鬼さん。猛を呼んで来てくれる? 閻魔さんも。ちょっと分娩が早まりそうだって」

 怠鬼は慌てて金斗雲に飛び乗った。今から最高速度でアフリカまで呼びに行けば、深夜12時前には日本に戻って来られるだろう。

「ああ、お母さん? どうも始まったみたいなの。

 ・・・・・・陣痛? 未だ。・・・・・・うん。今、横になっていた処。・・・・・・うん。

 それでね、パートから帰って来る時、何か食べ物を買って来て。・・・・・・そうだけど、陣痛が始まったら、普通の夕飯なんて食べられるの? 

 ・・・・・・そう、お母さんは大丈夫だったんだ。じゃあ、そうする。

 ・・・・・・うん、うん。・・・・・・分かった。じゃあ」

 母親への連絡を済まして、スマホを切る。固唾を飲んで見守る旱魃姫。

「そうだ。私、トイレに行く途中だった。・・・・・・其の後で、着替えなくちゃ」

 声に出して独り言を呟き、頭を整理する。

『大丈夫なの?』

「うん。誰でも経験する事だから。

 私、初産だからね。赤ちゃんが産まれて来るまで、長いはずだよ。明日の朝になっても、未だ産まれていないかもしれない。

 夕方に成れば、お母さんも戻って来るし・・・・・・」

 御徴おしるしが現れてから小一時間が経った頃。

 布団の上で横になった瑠衣の下腹部にキリリとした痛みが走った。最初の陣痛である。予期していたと言うか、身構えてはいたが、実際に陣痛が始まった時にはカブトムシの幼虫の様に身体を丸める。

 1分程で陣痛が治まる。苦痛に顔を歪めた旱魃姫が、瑠衣に異変を訴えた。

『瑠衣。此れって凄く痛い。お腹が裂けそう。・・・・・・こんなんで大丈夫なの?』

「此れが陣痛。今から何度も陣痛が来るよ」

『ええっ!』

「最初は陣痛の間隔が長いんだけど、徐々に短くなって来て、陣痛が連続するようになったら、産まれるの」

『私に何か出来る?』

「出来ない。みんな同じ経験をするの。あっ、そうだ。産婦人科にも電話しなくちゃ」


 深夜11時過ぎ。猛と閻魔大王、怠鬼を乗せた金斗雲が、瑠衣の実家アパートに遣って来た。

 金斗雲からベランダに飛び下りた猛が、布団に横たわる瑠衣に寄って行く。瑠衣の横にひざまずき、汗で濡れた髪の張り付いた額を優しく撫でる。

「どう?」

「うん、大丈夫。陣痛の間隔が20分から30分って言う程度だから、未だ未だ。

 15分間隔になったら、病院に来なさいって」

「そうか」

「猛の方こそ疲れたんじゃない? ずっと金斗雲に乗りっ放しだったでしょ?」

 狭いアパート。隣のキッチンで食器を拭いていた母親が、作業の手は止めずに、猛に声を掛けた。

「そうよ、猛さん。まずは風呂に入って来たら? 埃だらけじゃないの?」

 テーブルに座っていた父親も、母親の背中越しに、早く風呂に入れと相槌を打つ。

『そうだよ、猛君。俺達男は見ているしか能が無いんだから。

 瑠衣の産まれる時には俺も相当に慌てたけど、結局、何の足しにもならんかった』

「そうねえ。此れは母親1人で頑張るしかないからね」

 狭い部屋に気兼ねした閻魔大王は、金斗雲の上で見守っていた。今さら猛に憑依するのも、間が抜けている。

 閻魔大王に飛び付く様に、幽体離脱した旱魃姫が窓の外に出て来た。

『閻魔大王。遅いよ、遅い』

『済まなかった』

『陣痛って、凄く痛いんだよ。こう、ギューって言う感じ。此の陣痛が何度も続くんだよ』

 もう一歩の処で理解できない閻魔大王に、旱魃姫が一生懸命に説明している最中。旱魃姫の顔が苦痛に歪んだ。其の表情を見て驚く閻魔大王。

如何どうした!? 旱魃姫!』

 慌てた閻魔大王はかかえる様にして、旱魃姫の顔を覗き込んだ。

『また来た。・・・・・・陣痛』

 布団の上では、瑠衣が、フッ、フッ、フーとリズムを作って深呼吸している。陣痛時にりきむ事は御法度で、深呼吸で気を紛らすしかない。

「旱魃姫! 瑠衣に憑依するのを止めて、私に憑依したら?

 貴女まで痛みに我慢する事は無いと思うけど?」

『いいえ、・・・・・・お母様。瑠衣が耐えているのですから、・・・・・・私だって』

「そんな感じなのよ。閻魔様。

 今から急いで経験しなくても、其の時が来れば、経験せざるを得ないんですけどねえ・・・・・・」

 旱魃姫が赤児を身籠る事は無いと言う事実を、瑠衣の母親は知らない。

 閻魔大王には旱魃姫の気持ちがく分かった。猛に憑依し直し、自分も幽体離脱状態になる事で、痛みに耐える旱魃姫の手を握り絞めた。


 結局、瑠衣が産婦人科病院に行ったのは、午前3時過ぎ。

 毎夜の晩酌を欠かさない父親が酒を断ち、運転手として控えてくれていたのだが、金斗雲で病院に行った。直線ルートで辿り着けるし、スピードも速い。それでも、父親と母親の2人は父親の運転する自家用車で来たので、父親の努力は無駄にはなっていない。

 医師は帰宅しており、宿直の看護師が瑠衣の相手をしてくれた。

 瑠衣が陣痛室の移動式ベッドの上で横たわる。看護師を驚かしてはいけないので、幽体離脱状態だった旱魃姫は、憑依状態に戻る。

 陣痛の訪れる頻度は15分置きが10分置きに、10分置きが5分置きに増え、息を継げる弛緩した間隔を刻々と短くして行った。

 陣痛の襲って来る間、瑠衣は、フッ、フッ、フーと深呼吸している。頭の中では憑依状態の旱魃姫までもがリズムを合わせて深呼吸している。時々は、苦痛にグっと声を押し殺す気配が感じられる。

 憑依状態ゆえの現象だったが、瑠衣にとっては、集中力が途切れるキッカケでしかない。普通の妊婦よりは少し余計に苦労する瑠衣であった。

 陣痛室の前の廊下では、閻魔大王の憑依した猛と、瑠衣の両親、怠鬼がベンチに座っている。

 徹夜状態の両親は目をショボショボさせている。

 猛はと言えば、時差8時間のアフリカから飛んで来たので、午前3時であっても、体感的には昨夜の午後7時。未だ未だ眠くなる時間帯ではない。初産でもあるので、マンジリともせずに眼前の白い壁の一点を見詰めていた。

 怠鬼は退屈凌ぎに、陣痛室に出入りする看護師に憑依して、瑠衣の様子を確認しては、猛と両親に報告してくれる。

 そして更に数時間が経ち、朝日も高くなった頃に、瑠衣は分娩室に移った。

 陣痛室と分娩室とは壁を隔てて隣同士であり、瑠衣を乗せた可動式ベッドは廊下を通らずに移動する。だから、猛達には瑠衣の移動タイミングがハッキリしなかったが、出勤して来た看護師達が慌ただしく分娩室を出入りし、産婦人科医が分娩室に入室するに及んで、いよいよだなと感じた。

 瑠衣が分娩室に入って30分ちょっとが経った頃。

 部屋の中から、元気な赤児の泣き声が聞こえ始めた。

(産まれたか!)

(産まれたみたいだね)

 隣に座っていた母親も、猛に「産まれたみたいね」と声を掛けて来た。

 分娩室のスライドドアを開けた産婦人科医が、マスクを取りながら、猛達に向かって歩いて来た。

「おめでとうございます。男の子です。母子ともに健康ですよ」

「有り難うございました」

 猛達4人はベンチから立ち上がり、深々と頭を下げた。

「もうすぐ看護師が赤ちゃんを連れて来ますから。今、身体を拭いている処です」

 猛達は、もう一度、深々と頭を下げた。

 産婦人科医が軽く会釈して立ち去った後、赤児を抱いた看護師が分娩室から出て来た。

「元気な男の子ですよ。体重が3400g。予定日よりも早かったですけど、平均以上に大きな赤ちゃんですね」

 看護師は産着に包まれた赤児を猛達に近付ける。猛と両親が赤児の顔を覗き込む。怠鬼がピョンピョンと跳び上がる。

 赤児は泣いている。しわクチャの顔を真っ赤にして、一生懸命に泣いていた。小さな指を動かし、何かを必死につかもうとしていた。

(可愛いもんだな)

(うん。俺も父親になったって言う自覚が、何だか出て来たよ)

(此の子の為にも、良い世の中を作らねば・・・・・・)

 続いて、瑠衣を乗せた可動式ベッドを押しながら、3人の看護師が部屋から出て来た。

 ベッドの上で、瑠衣はグッタリとしている。猛は、疲れ果てた様子の瑠衣に近寄り、手を握った。瑠衣が笑みを浮かべる。

「瑠衣、ご苦労さま。そして、有り難う。元気な赤ちゃんだよ」

 猛達4人は連れ立って瑠衣の後に続き、半日程度の入院の為の大部屋に移動した。

 経験者である両親の方は、猛と瑠衣の2人を大部屋に残すと、初孫の顔を眺めようと新生児室に急々と向かった。怠鬼も新生児室に行った。


 猛と瑠衣は、産まれて来た子供に、魔聡まさとと名付けた。

 子供の名前に“魔”と言う漢字を付ければ、普通は「如何いかがなものか?」と周囲からの反対に遭う。だが、猛と瑠衣にとって閻魔大王は身近な存在だし、密かに尊敬する相手でもあった。“魔”と言う漢字を採用するのは、極めて自然な選択だったのだ。

 魔聡まさと

 閻魔大王の様に賢い存在になって欲しい。或いは、“魔”の存在に敏感になって欲しい。“魔”とは、邪悪な存在であったり、人智を超えた存在であるだろう。人外の存在を敏感に嗅ぎ取り、其れに臆する事無く対処する人間になって欲しい。

 そんな願いを息子の名前に込めた。

 閻魔大王と旱魃姫も魔聡まさとと言う名前に賛成し、魔聡を祝福する為に旱魃姫が憑依した。生まれながらと言っても間違いでないタイミングで、心で会話するすべと優雅に楽器を奏でるすべの二つを贈物として魔聡は受け取った。

 雲上人にまで祝福され恵まれた魔聡であったが、泣く時は泣く。腹が空けば泣くし、オシメが濡れて不快を感じれば泣く。

 ただ、世間一般の母親は自分の赤児の泣く理由に戸惑うしかないが、瑠衣の場合は、魔聡が泣き出した理由を直ぐに特定できた。心で会話するすべを魔聡が身に着けているからである。

 此れには非常に助けられた瑠衣であったが、一方で、

――こんな便利な能力を身に着けてしまった魔聡は、言葉を覚えようとしないんじゃないかしら?

 と、少し不安を感じた。子供の事になれば心配の種が尽きない、すっかり普通の母親になった瑠衣だった。

 泣く理由を察知できても、世話が焼ける。他の赤児と同様、魔聡も頻繁に泣く。夜中であろうが数時間置きに起こされる瑠衣は、意識朦朧の状態で毎日を過ごした。

 狭いアパートなので、程度の差は有ったが、瑠衣の両親も寝不足気味であった。瑠衣の両親は共働きである。しかも、老いた身体は持久力と言う観点で、若い瑠衣に劣る。

 特に工場勤務の父親の方は、注意力散漫が原因で、機械に腕を挟んだりして怪我をしないか。そんな事でも気を揉んでしまう。

 だから、瑠衣と語らった猛は、親子でパイエスト共和国に行き、其処で産後の時期を過ごす事にした。

 パイエスト共和国では外国人用の広いマンションに居住しているし、メイドを雇う事も可能だ。気候もチュニスと同じく乾燥しているので、部屋の中で過ごす分には、湿度の高い日本よりも寧ろ暑さを感じない。

 金斗雲で送り迎えすれば、両親とも頻繁に会える。両親の送迎時に日本食の食材を持ち込み、憑依を通じて瑠衣の調理ノウハウをメイドに教え込めば、食事の問題も心配する必要が無い。

 そう判断したのだ。


 パイエスト共和国に住いを移してから約2カ月。

 新たな暮らしにも、すっかり慣れた。朝、猛と閻魔大王は閻魔屋の事務所に出勤し、夜になると帰宅する。通勤手段が金斗雲だと言う点を除いて、普通のサラリーマンと大差無い。

 猛と閻魔大王の2人は、イスラム圏で一般的な衣装のガンドゥーラをオーダーメイドで新調し、其れを着用して出勤している。全身が真っ白な男性用ワンピース。

 閻魔大王も何着かのスーツを持っていたし、猛もスーツを持参していたが、日常的に着用すればスーツは汗と砂埃で汚れるし、パイエスト共和国で満足の行くクリーニング店を探すのは手間が掛かる。

 それよりは、調達し易く、現地の気候に適した民族衣装のガンドゥーラを着用するのが合理的であった。

 同じ様に、瑠衣と怠鬼も女性用イスラム服のアバヤをオーダーメイドで新調した。

 こちらは全身が真っ黒の外出用ワンピース。チュニスでは、襟周りや裾に凝った刺繍を施した瀟洒しょうしゃなデザインのアバヤを愛用していたが、発展途上のパイエスト共和国では手に入らない。

 それでも、ユッタリしていて動き易いと言う機能性と、街中の雰囲気に溶け込めると言う実用性から、アバヤを着用するようになった。

 マンションの屋内に居る時は、カラフルな色彩の薄い生地で作られたロングドレスを着ていた。

 腰紐で緩く縛るデザインなので束縛感も無く、部屋着としては最適であった。

 怠鬼は、NASA製のトレーナーを始め、ニューヨークや静岡で買い足した洋服を旅行用トランクに詰め込みパイエスト共和国に持参していたが、アバヤやオリエンタルな趣きのロングレスをすっかり気に入り、其ればかりを着用している。やっぱり怠鬼も女性だったのだ。

 一方、解脱できない旱魃姫は、原色のロングドレスを幾つも買い揃える瑠衣と怠鬼を眺め、

『良いなあ、良いなあ。私も御洒落したいなあ』

 と、誰にとはなく、不平を口にしていた。

 だが、崑崙山で採れた素材で作られた旱魃姫の衣装は、現世で汚れもしないし、破れもしないので、機能面だけを考えれば、衣装を新調する必要は全く無かった。

 猛と閻魔大王が帰宅すると、全員で夕食を囲む。

 もっとも、実際に食べる者は、猛と瑠衣、メイドの3人だけである。閻魔大王と怠鬼は、解脱状態でテーブルを囲むだけ。食事を摂っても詮無いし、直ぐに下痢をするからだ。勿論、食事時の会話には加わる。幽体離脱状態の旱魃姫も同様だ。

 住み込みのメイドは、テロリスト達に村を襲撃され、孤児となって難民キャンプに流れ着いた、11歳の女の子だった。此の国の習慣では、11歳とも成れば大人社会の準構成員。村が存続していれば、農作業にでも出始めていたはずなのだが、そんな生活基盤は壊滅していた。

 故郷を追われた子供は此の子に限らなかったが、人の出会いは運命の巡り合せである。猛が難民キャンプを訪問した時に最初に出会った不遇な子供が、此の子だったのだ。

 彼女は、アティエノと名乗った。現地語で“夜”を意味するらしい。

 旱魃姫に憑依され日本食を作り始めたアティエノが、今晩の料理をテーブルに運んで来る。猛も食器を並べて準備を手伝う。ベビーベッドで魔聡を寝かし付けた瑠衣が、寝室からダイニングルームに合流する。昼間の出来事を報告し合い、他愛も無い冗談を交して歓談に興じる。

 其の内に、テレビを点け、ニュース番組を見始める。

 パイエスト共和国でのテレビ普及率は低く、視聴者は上流階級の国民と外国人に限られる。大半のパイエスト国民にはバラエティー番組なんかを楽しむ余裕が無い。未だテレビではなく、ラジオの時代なのだ。だから、テレビ番組の大半は欧米キー局から提供される。

 今夜のトップニュースは、カリブ海で発生したハリケーン・ケイトがアメリカ本土に上陸しそうだ、と言うニュースだった。

 最強クラスのカテゴリー5に分類される勢力で、上陸地点だと予想されるルイジアナ州では州兵が出動し、沿岸部の住民は避難を始めていた。東西両隣のフロリダ州やテキサス州でも警戒体制が敷かれつつあった。

 緊迫した状況を伝えるニュースをボンヤリと眺めながら、瑠衣が何気に呟く。

「もし、此処に旱魃姫が行ったら、どうなるのかしら?」

 瑠衣の発言の趣旨が分からず、顔を見合わせる一堂。アティエノはキッチンで皿を洗っている。

「だって、旱魃姫の特殊能力は水を消すんでしょ? ハリケーンって、どうなるんだろうねって、そう言う意味」

 閻魔大王と旱魃姫が顔を見合す。

『旱魃姫。どうなると思う?』

『どうなるんでしょう?』

 無言で互いの顔を眺め合う4人。

「学鬼さんも居ないし、さ。俺達で考えても仕方無いよね。・・・・・・試してみる?」

 恐る恐る、猛が提案する。

 科学に限らず、勉学が不得手だった猛である。考えるよりも実行に移した方が早いと言う気がした。

 どうなるかは分からない。でも、悪い方向に転がりそうだったら、途中で中止すれば良いわけだし、穀物強奪作戦の様にアメリカ政府からにらまれるとも思えない。

『・・・・・・遣ってみるか』

 閻魔大王が決断した。

 決断したとなれば、アメリカ国民は自然災害に直面しているのであって、一刻を争う。

 魔聡に授乳する瑠衣は同行できないが、猛は一緒に行ける。腹拵はらごしらえも済ましたばかりだ。

 閻魔大王は解脱状態で、旱魃姫は猛に憑依し直して、2人で金斗雲に乗った。

 東部アフリカからメキシコ湾岸までは概ね真西に約1万2千㎞。金斗雲で3時間弱の距離である。


 東部アフリカとは時差8時間のフロリダ半島の先端に到着した頃。

 ハリケーン・ケイトは半径500㎞余りの円形状に分厚い雨雲を形成しており、円周部が差し掛かっただけのフロリダ半島でも、そこそこ強い風速だった。

 未だ日没までには数時間あるはずだが、薄暗くなった空から生温かい空気を突き刺す様に大粒の雨が斜めに降り始めている。避難指示の対象エリア外だが、風雨の中を外出する住民は1人も居ない。

 何かの公共施設と思われる場所で、猛は金斗雲から降ろされた。

『汝は生身の人間だからな。これ以上、近付くのは賢明でない。

 それに此の衣装。また、使い物にならなくなるのも癪なので、此処で脱いで行く。猛、預かっていてくれ』

 閻魔大王は白いガンドゥーラを脱いだ。

 発汗も排泄行為もしない閻魔大王は、猛と違って、アンダーウェアを着用していない。ガンドゥーラを脱げば、一糸まとわぬ裸体であった。筋骨隆々の立派な体躯。

 ガンドゥーラと特大サイズのサンダルを預かった猛は、閻魔大王に向かって頷いた。

 猛から旱魃姫が解脱する。

『それじゃ、猛。行って来るわ。何処かに隠れていてね』

 極楽の衣装を着たままの旱魃姫が、閻魔大王に続いて、金斗雲に乗り込んだ。

 金斗雲は、手を振る猛を後にして、アっと言う間にハリケーン・ケイトの雨雲の中に消えて行った。


 暴風雨が閻魔大王と旱魃姫を襲う。だが、2人にとっては蛙の面にションベンである。

 旱魃姫の衣装も、まるで表面を撥水加工した様に、雨粒が滝となって流れ落ちるだけである。強風が衣装を揺らす事も無い。

 そして、暴風雨の弱くなった中心部の渦に到達すると、旱魃姫は両手を大きく広げた。

 気合いを入れ、黒い双眸を金色に変える。長い髪の毛も黒から淡い金色に変化させ、身体の内側から噴き出た気力の嵐を周囲に吹き散らす。極楽の衣装は激しく旗めき、気力の奔流を受けた羽衣はごろもが後ろに膨らんだ。

 中心部の渦を取り囲む雨雲の壁に変化は現れず、閻魔大王にも成果の程は伺えなかった。

『どうだ?』

『私の身体が嵐のエネルギーを吸い込んでいるのを感じます』

 実際、気象衛星で上空からハリケーン・ケイトを観測すると、雲が反時計回りに渦巻く勢力圏の半径が徐々に縮まっていると認められたが、中心部の渦に陣取る2人には判然としなかった。

『閻魔大王』

『何だ?』

『此処には私達、2人だけ。此の衣装を脱ぎます』

『裸になった方が集中できるのであれば、そうするが良い』

 ハリケーンのエネルギーを内に溜め、何だか身体のうずきを感じ始める旱魃姫。彼女の隣には全裸の閻魔大王が屹立している。

 旱魃姫の目付きが熱を帯び、全身が上気し始める。そして、とうとう我慢できなくなって、閻魔大王に抱き付いた。

 妙な雲行きに戸惑う閻魔大王。

 だが、素女の計らいに依り係昆山の庵で“愛を深める儀式”を交した時よりも、今の旱魃姫の方が情熱に満ちている事を感じ取ると、閻魔大王の方も旱魃姫の裸体を強く抱き締める。

 其の儘、金斗雲の上に倒れ込む2人。

 此処で展開された“愛を深める儀式”は、旱魃姫がハリケーン・ケイトのエネルギーを奪い取る度合いを強める事になった。

 気象衛星で観測していた国立ハリケーン・センターの観測スタッフ達も、勢力圏の縮む速度が加速した事に気付いていた。未だメキシコ湾の海上に留まっており、勢力の弱まるはずの無いハリケーン・ケイト。自然界のことわりに反して消滅していく怪現象を前にして、フロリダ州マイアミに所在する国立ハリケーン・センターは、警戒とは別の観点で、混乱の極みにあった。

 閻魔大王が激しく腰を動かし、旱魃姫が喘ぎ声を上げるに連れ、中心部の渦を囲む雲の層の高さが徐々に低くなっていく。

 そんな事にはお構いなしで“愛を深める儀式”に没頭する2人。行き着く処まで行き着いた時には、通常の熱帯低気圧に過ぎないレベルまでハリケーン・ケイトの威力は減殺されていた。

 脱力した旱魃姫の瞳の色は黒に戻り、髪の毛の色も黒に戻っている。

 閻魔大王の胸板に顔を乗せ、旱魃姫がささやく。

『良かった・・・・・・。でも、嵐はどうなったのでしょうね?』

『ウム。何だか周囲が明るくなった気はするが・・・・・・』

『少し休んだら、猛の処に戻りましょうか』

『そうだな』

 気怠けだるい余韻を楽しんだ後、旱魃姫は極楽の衣装を身に着けた。

 胡坐あぐらを組み、其の様子を眺める閻魔大王。

 旱魃姫が身支度を整えると、やおら立ち上がり、彼女の肩に腕を回して抱き寄せた。


 猛と別れた地点に金斗雲で戻ると、興奮した猛が両手を大きく振って2人を出迎える。

 空は晴れ渡り、2人が戻って来た方向には赤く染まった夕暮れが広がっている。海岸線に沈み行く夕陽を背景に、黒く浮き出る金斗雲と2人のシルエット。

「閻魔さん! 旱魃姫! 凄い成果だよ! 兎に角、凄いよ!」

 興奮の余り、同じセリフを繰り返す猛。

 だが、猛の称賛を気恥かしく感じるだけの2人。「ああ」とか「ウム」とか、素気ない返事しか返さない閻魔大王。旱魃姫は無言を貫き、猛とは視線を合わそうとしない。2人の反応を怪訝に思う猛。

 2人とも頬を赤らめているのだが、夕暮れが羞恥の表情を目立たなくしていた。

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