19. 融和の呼び掛け

 空母艦隊を撤退させた閻魔大王は、解決すべき次なる問題に向き合った。

 パイエスト共和国の国民が仲良く暮らす為には、憎しみの気持ちを癒さねばならない。怨嗟の心を慰める必要が有る。

 其の為に、七天女の1人、素女の手助けを借りたいと、閻魔大王は考えていた。

 素女の特技は、房中術もる事ながら、何本もの手を使って楽器を演奏する事であった。素女の奏でる調べは聴く者の心を慰め、清めるのだ。閻魔大王から相談された旱魃姫も、其の考えに賛成する。

 だから、閻魔大王と旱魃姫は地獄に戻り、金斗雲に乗って崑崙山にって来た。

 西王母にお目通りを願う。前回と同じく、最奥の部屋まで案内される。大きな部屋の奥に敷かれた丸い茣蓙の上で西王母が寛いでいた。

 半獣半人の西王母の顔の表情は、温和なのか獰猛なのか、判然としない。

 其の西王母が、床に平伏した閻魔大王に向かって、冷たく言い放った。

「閻魔よ。私は、現世にまで干渉しようとする、そなたの行為を快くは思っておらぬ。

 そなたの役務は地獄の営みのはず。何故なにゆえ、現世にまで干渉するのじゃ?」

 閻魔大王は平伏を深くし、額を床に密着させた。隣に低く漂っていた旱魃姫も身を強張らせ、羽衣はごろもの働きを止めると、直に床の上に平伏した。

「私の役務は亡者達の性根しょうねを矯正し、彼らの魂を極楽に送る事だと、わきまえております。

 ですが、増える一方の亡者の数を前にして、地獄の営みに余裕が無くなって来ているのも事実。

 ですから、現世に赴き、性根の曲がり、そのものを小さくしようと考えた次第です。

 此れは、輪廻転生を滞りなく営む為に必要な事であると、そう浅慮致しております」

「小賢しい。其れは屁理屈と言うものじゃ!」

 立腹した西王母の一括に、閻魔大王は食い下がる。

「ですが、西王母様。地獄と極楽そして現世は、皆つながっております。

 輪廻転生とは、そう言うものでありましょう」

「黙れ! そなたは私が崑崙山の土より造り出した存在に過ぎぬ。地獄を統べる者として創造したのであり、現世まで統べさせようとは、考えた事も無いわ」

 創造主に宣下されると、閻魔大王は何も言い返せない。西王母の追及は尚も続く。

「創造主の意向に逆らってまで意志を貫くと言うならば、其れなりの覚悟が有るのだろう?

 ならば、そなたにとって最も大切な物を替わりに差し出してみせよ。其れ次第で閻魔への協力を考えて遣らぬでもないぞよ。ホッ、ホッ、ホッ。いかが致す?」

 今度の追及は絡め手であった。

「地獄を統べる役務を返上せよと、そう言う事でありましょうか?」

「そんなものは要らぬ。それに、今の閻魔ならば喜んで手放すであろう。何せ、閻魔の目は現世を向いておるからな」

「それでは何を御望みでしょうか?」

「旱魃と別れてみせよ。永劫に会わないと、私に誓え」

 閻魔大王はカッと目を見開き、焦点の合わぬ床の一点を見詰めた。隣で平伏する旱魃姫が心配そうに閻魔大王を盗み見る。

――旱魃姫と別れる事など出来るはずが無い・・・・・・。

 黙り込むしかなかった。

「出来ぬのか? 閻魔の覚悟とは其の程度のものか?」

 そう揶揄すると、西王母は甲高い声で嘲笑した。閻魔大王の両眼に悔し涙が浮かんだ。


 意気消沈して現世に戻って来た2人。

 猛と瑠衣が心配そうに「どうだった?」と尋ねる。幽体離脱状態の2人の様子から察するに、聴くまでもない質問だった。

『素女様の御力が有れば、此の国の民の心を安らかにしてやれたのだがな・・・・・・』

 閻魔大王が寂しそうに呟く。慌てた瑠衣が大声で言葉を続けた。

「でも、西王母さんって、意地悪よね! そう思わない? 旱魃姫」

『仕方無いわ。瑠衣。西王母様は偉い方だし、西王母様の言う事に一理有るのかもしれない』

「でも、話を聴いていると、随分と私達に冷たいわね。閻魔さんとは大違いだわ」

「まあ、気落ちしないでよ。閻魔さん、旱魃姫。何か、他の道を探ろうよ」

 猛も慰め役に加勢する。

『だが、猛よ。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切れると思う? どうすれば、人間共は相手を殺そうとしなくなる?

 教えてくれ! ワシには人間共の感じ方が理解できぬ』

 猛と瑠衣は「う~ん」と唸ったまま、考え込んだ。

 すると、アーネストから幽体離脱していた学鬼が、論理的に疑問を呈した。

「ねえ、猛君。此の国の民は、何故、相手を殺すんだろうね? 憎いからと言う最初の理由は、私にも理解できるよ。

 でも、もっと付き詰めて考えてみると、憎いから相手に仕返しをしたい。自分達に悪さをした相手を成敗したい。そう言う事じゃないかな? どうだろう?」

 猛と瑠衣、アーネストの3人は、学鬼の問題提起を吟味してみた。

――何となく、学鬼の指摘した通りの様な気がする・・・・・・。

「だったら、替わりに仕返しして遣る。替わりに成敗して遣る。

 そう彼らに言って遣れば、彼らの心だって少しは落ち着くんだろうか?」

 猛と瑠衣、アーネストの3人は、また吟味してみた。論理的にはそうだ、と言う気がする。

「でも、誰が替わりに仕返しするの? 仕返し自体が憎しみの連鎖を生むんだよね?」

「現世の誰かが代行すれば、猛君の言う通りだね。

 でも、代行者は地獄の私達だよ。現世での行いを成敗する事こそが私達の役務だもの」

 学鬼の言葉を聴いていた閻魔大王が、ハタと手を叩いた。

『分かったぞ、学鬼。此の国の民に地獄の有り様を見せてやれば良いのだな? 悪い奴らがシッカリ成敗されている事を、理解させれば良いのだな?』

『御意』


 閻魔大王は、パイエスト共和国のオルドレン・ムーレイ大統領に面会を求め、大統領府前の大広場に国民を集めて貰いたいと要望した。

 全ての国民を集める事は物理的に不可能なので、可能な限り多くの国民と言う意味だ。対象者には、キリスト教徒だけでなく、国民の太宗を占めるイスラム教徒も含まれる。

 マスコミ取材を拒むつもりはないが、メディアを通すと閻魔大王の声が相手に届かないので、大広場を溢れても構わないから、極力多くの国民を集めて欲しいと、お願いした。

 此のイベントに世界各国の特派員達も集まって来た。それだけ閻魔大王のニュース・バリューは高かった。

 演台に立つ閻魔大王。

『ワシは閻魔大王である。

 既に知っている者も居ようが、ワシは此の世の存在ではない。地獄を統べる者だ。

 其の地獄を統べる者から皆に伝えたい事が有る。どうか、汝らの耳を貸して欲しい。

 汝らは、キリスト教徒もイスラム教徒も、神様を崇め、自らを律し、自らの良心に従って暮らしておる。汝らに違いはない。全員が皆、善良なる民だ。

 汝らは違う神様を崇めていると勘違いしているようだが、神様は唯一無二の存在であり、実は同じ神様を崇めているのだ。言わば同胞だ。

 神様の下で平等な同胞同士が争う事を神様が望んでいるとは、ワシには到底思えぬ。

 確かに此の国には不幸な行き違いが有った。だが、忌むべき過去を乗り越えるのだ。汝らの乗り越える手助けを、ワシはしたいと思っている。

 汝らの心の中には、憎しみ、怨みが渦巻いておる事であろう。汝らの親兄弟、或いは妻子を殺した憎き相手を成敗して遣りたい。そう思っているのだろう?

 だがな、汝が怒りの拳を振り降ろそうとする相手が果たして惨劇の張本人だと、如何どうやって判じるのだ? 

 敵方の身形みなりをしていようとも、張本人ではないかもしれぬ。其の時は、汝自身が次なる惨劇の張本人となるのだ。

 こうして憎しみの連鎖は永遠に続いて行く。此れは煉獄だ。地獄よりも酷い。

 先にワシが手助けしたいと申したであろう。ワシは憎しみの連鎖を断ち切る手助けをしたいのだ。憎しみや怨みからは何も生まれぬ。不幸が積み重なって行くだけだ。

 汝らが成敗したがっている悪人には、地獄の閻魔がキッチリと報いを与えて遣る。

 心配は要らぬ。地獄の閻魔は全てをお見通しなのだ。

 こう言っても、俄かには信じられまいな。だから、汝らに地獄を見聞させてやろうと思う。そうすれば、汝自身の手を汚さずとも、少しは溜飲を下げる事が出来るのではないか?』

 此処まで話すと、閻魔大王は一呼吸、置いた。眼前の大広場を睥睨へいげいする。

 聴衆は水を打った様に静まり返っている。戸惑っていると言った方が良いか・・・・・・。相手を信じる気持を忘れた民衆が直ぐに、閻魔大王の提案に賛同するはずもない。

『此処で志願者を募りたい。

 地獄でどんな報いを受けるのか。其れを自分の目で確かめようと言う者はらぬか?』

 戸惑いと畏怖、不審の入り混じった雰囲気の数十分が過ぎた。

 だが、大広場のあちらこちらで、ポツリ、ポツリと、手を挙げる者が続いた。

『汝らの勇胆な心に感謝する。

 では、邪鬼の憑依を許して欲しい。汝らに危害を加える事は無い。心を安め、緊張を解いて貰えれば、邪鬼が憑依する』

 何処からともなく金斗雲に乗った邪鬼達が現れ、挙手した者の頭上に舞い降りる。そして、憑依して行った。

『学鬼よ。此の者達の案内を頼むぞ』

 傍らに立っていたアーネストに向かい、閻魔大王が言った。

 其れを合図に、アーネストと志願者達の姿がユラユラとかげり、消えて行った。

 怪現象に対する恐怖と驚嘆のどよめきの輪が大広場に幾重にも広がった。そして、1分も経たぬ内に再び姿を現した。

 地獄で過ごした彼らの体感時間は1分どころではなかったが、1分後の現世に戻って来た。

 戻って来た志願者達は、誰もが興奮して、地獄の有り様を周囲の人間に話し始める。興奮と怒鳴り合いの輪が広がる。志願者達は地獄の刑場で繰り広げられる光景を必死に説明した。

「お前の話を信じて良いのか? 信じられるのか?」と言う賛否の議論が周囲から湧いた。議論する相手の居ないアーネストだけが、顔面を蒼白にして黙り込んでいる。

『皆の者。次に志願する者は誰だ?

 疑う者は、まず自分の目で確かめてみよ。汝らの身が安全である事は既に分かったであろう』

 第1陣に比べて、遥かに多い候補者が現れた。

 凄惨な地獄の刑場に度肝を抜かれたアーネストは憔悴した顔をして、報道スペースに詰めている手近の特派員に学鬼の憑依先を譲った。反対に第2陣に初参加するキャサリンは、怠鬼を憑依させて「無事に戻れると分かれば、是非にも地獄を見聞するわ」と息巻いている。

『では学鬼よ。次なる者達の案内を頼むぞ』

 1回目と同じ1分が過ぎる。大広場に喧騒の輪が広がる。此れを何度も繰り返した。

 ムーレイ大統領も立候補し、地獄に向かった。戻って来たムーレイ大統領は目を閉じ、胸の前で何度も十字を切ると、無言で唇を動かして何やら唱えている。

 地獄を見聞した特派員の数が増える度に、大広場を背景にした取材カメラの前で、地獄の有り様を興奮して報告するレポーターが続出した。

 世界中でテレビ報道を見ていた視聴者は、獅子の吠える様な閻魔大王の声明の意味も解せなかったし、地獄の話も法螺話ほらばなしとしか思えなかった。だが、テレビ画面に映る興奮の嵐を目にすると、只事ではない事が起こっているのだと、其れだけは実感できた。

『分かったであろう?

 汝ら自身の手を汚さずとも、地獄の閻魔がキッチリと落し前を着けてくれる。

 だから、報復しようとは考えるな』

 和やかな口調で諭す様に言うと、閻魔大王は深呼吸した。

『汝らは知らぬであろうがな。ワシら雲上人は永遠の命を授かっている。

 其の替わり、子供を産む事が出来なんだ。だから、ワシには親と言う存在が居ない』

 此の時、瑠衣は、自分の頭の中で、旱魃姫が固唾を飲む雰囲気を感じた。

『反対に、汝らの命は短いが、子供を産む事が出来る。子供は、汝らにとって宝物ではないのか?

 ならば、汝らの残された人生。誰とは判らぬ者に怨みを抱き続けるのではなく、自らが幸せになる事に使うが良い。子供を育て、汝らの希望を子供達につなぐのだ。汝らの想いを子供達に託すのだ。

 勿論、そう簡単に汝らの憎しみが消えるとは、ワシも思わぬ。汝らの悲しみは、家族を失った事の無いワシが想像するよりも、遥かに深いのだろう。だがな・・・・・・』

 穏やかな口調で話していた閻魔大王だが、励ます様に、大広場の聴衆に大声で呼び掛けた。

『憎しみの連鎖だけは断ち切ろうではないか。そして、皆で幸せに向かって、歩み始めようではないか!』

 閻魔大王がそう言葉を結ぶと、大広場から大きな歓声が湧き起こった。


 閻魔大王の演説会の後も、地獄ツアーは続けられた。

 パイエスト共和国の国民に限らず、地獄の門戸は世界中の人々に開かれた。ツアー客の大半は怖い物見たさの好奇心から参加したのだが、地獄を見聞した者は皆一様に、自戒の念を強くして現世に戻って来た。

 そして、盛況な地獄ツアーがパイエスト共和国に観光産業を興す契機となった。

 副次的には、心で会話するすべを体得した人間を世界中で増やす事になった。パイエスト共和国に止まらず全世界で、相互不信を原因とする混乱を少しだけ改善した。

 パイエスト共和国に話を戻すと、他にも新たな産業が興りつつあった。麻薬中毒患者の健康回復サービスである。

 アメリカ商務省からの請求書に頭を悩ましていた時に召喚した亡者の1人。コロンビアの麻薬王だったシルビア・コルソが、閻魔大王に進言したのだ。

「閻魔大王。腐臭の刑を施していたテロリスト達の事ですが、何度も気絶したり意識を取り戻したりしている内に、麻薬の中毒症状も消えてしまったようです」

 テロリスト集団の歩兵達の中には、多数の誘拐された少年兵が含まれていた。彼らは逃亡回避の為に、テロリスト集団から麻薬中毒の身体にされていたのだ。死の恐怖に怯え、自分から麻薬に手を出した少年兵も多いようだった。

『だから?』

「此の世には、浅はかな考えから麻薬中毒となり、其の後に改心するも、中毒から中々抜け出せない者がたくさん居るのです。

 腐臭の刑に依り、そう言う者達を手助け出来ると言う事です。相手が先進国の人間ならば、対価も請求できるでしょう。実際、麻薬中毒者の治療を目的とした医療機関が有るのですから。

 まあ、生前の悪行を考えると、私が提案できる筋合いではないのですが・・・・・・」

『誰であろうと構わぬ。此の世を良きものにするに、前世の事など関係無い。汝の考えを進めてみよ』

 治安が回復し国情が安定し始めると、パイエスト共和国への進出を検討する外国企業の動きが出始める。企業進出は経済復興につながり、社会インフラも整備され始める。

 豊かになれば、人々の心も穏やかになる。そう言う明るい将来を信じられそうな兆候が、パイエスト共和国の至る処で散見されるようになった。

 パイエスト共和国ではなく、閻魔大王に対して、国防サービスのビジネスの話も幾つかの小国から舞い込むようになった。米中印の3カ国の空母艦隊を撤退させた偉業の宣伝効果は、図り知れないインパクトを持っていたのだ。

 ただ、極東地域の小国は別である。核戦力を増強すると言う独自戦略を推し進めていた。

 また、軍事同盟の瓦解を恐れた軍事大国も、「閻魔軍が対抗できるのは通常兵器のみ。核兵器に対しては無力だ。相手方の核兵器に対抗するには我が陣営の核の傘に入るのが適切だ」と、そう喧伝していた。

 国際社会の構図を見たアーネストとキャサリンが、閻魔大王に一つの作戦を提案した。

 極東地方の小国が実施した弾道ロケットの試射実験を失敗させたのだ。

 発射した弾道ロケットの前に金斗雲の防御陣を広げ、飛翔スピードが落ちた処で冷鬼が接近した。そして、ロケットの燃焼温度を下げたのだ。噴射燃料の化学反応が止まり、推力を失った弾道ロケットは海上に落下して行った。

 勿論、此の作戦は事前に世界各国のマスコミに対して予告してあった。だから、軍事大国の「閻魔軍は核兵器に対して無力」と言うネガティブ・キャンペーンは、世界中の失笑を買う事になる。一方で、閻魔大王の国防サービスは益々盛況となった。


 良い事尽くめの展開であったが、閻魔大王の業績を面白く思わぬ勢力も居た。

 アメリカ政府と中国政府である。世界中の混乱の種が一つずつ減って行く事自体には、両国政府とも総論で賛成であった。

 ただ、閻魔大王の存在に多大な恐怖を感じるようになった。

 軍事力は一切通用しない。

 反面、民衆の心をつかむ扇動家としての才能は、人類史上、類を見ない程に卓越している。実際、パイエスト共和国は、ムーレイ大統領以下、全ての国民が閻魔大王に心酔している。しかも、閻魔大王に心酔する人間は全世界で増殖中である。

 つまり、世界で2大勢力を誇るアメリカ政府と中国政府は、全く違う基準で台頭して来た閻魔大王に恐れを為したのだ。此の儘では、アフリカ大陸を拠点とした閻魔帝国が樹立されそうな勢いであった。

 だから、アメリカ政府と中国政府は事前に話し合い、閻魔大王にアフリカから立ち退くように申し入れた。

 互いに空母艦隊を対峙させてから半年程度しか経っていないにも関らず、もう外交面では共同歩調を取っている。利に敏いと言えばそうだし、節操が無いと言えばそうであるが、其れが国際関係と言うものだった。

 両国政府の特使が難民キャンプの閻魔大王を訪問する。

『汝らの不安を煽るつもりは無い。出て行けと言うならば、其れに従おう。だが、何処に移れば良いのだ?』

 中国に招いては、中国人民の間で閻魔大王の人望は鰻昇りとなるだろう。中国共産党は宗教を否定しているが、仏教や儒教の教えが民衆の心に根付いている。地獄や輪廻転生の概念をスンナリと受け入れる素地が有る中国に招くと、中国共産党にとっての危険人物と成り兼ねない。

 中国特使は黙り込んで、アメリカ特使の顔を見た。

 アメリカ政府にとっても、同様に脅威である。もし、閻魔大王が4年に一度の大統領選挙に立候補したら、一瞬でアメリカ合衆国が閻魔帝国と化してしまう。アメリカ特使もまた黙り込んで、中国特使の顔を見た。

 だが、十分な監視の行き届かないアフリカに閻魔大王が留まるケースが、両国政府にとって最も恐ろしい。其の点だけは両国政府の利害が一致していた。

 そして、

――アメリカが閻魔大王の身柄を引き受け、あわよくば今の政権が転覆して閻魔帝国が樹立されれば、今よりもずっとアメリカを信じられるのに・・・・・・。

 と、中国政府は都合の良い事を考えていた。同時に、アメリカ政府もまた、主語を違えただけで同じ事を望んでいた。

『どうして黙っておるのだ? 何処に移れば良い?』

「地獄にお戻り頂くのが最善です」

『嫌だ。未だ現世で遣るべき事が残っておる。汝らにとっては最善かもしれぬが、今は地獄に戻れぬ』

 沈黙の間。痺れを切らせた閻魔大王が宣言する。

『しからば、アメリカに移ろう。猛やアーネストの勤め先も有る事だし・・・・・・』

 アメリカ特使は苦虫を噛み潰した様な顔で受諾し、中国特使はホッと胸を撫で下ろした。


 アメリカに向かう途中。

 閻魔大王の憑依した猛。旱魃姫の憑依した瑠衣。学鬼の憑依したアーネスト。怠鬼の憑依したキャサリンの4人は、カリブ海に所在するバージン諸島に立ち寄った。

 投資家だった亡者ジェイソンの薦めに依り、閻魔屋と言う社名の会社を登記する為である。

「国防サービスに依り莫大な収入が閻魔大王の懐に入って来るようになります。収入が有れば、税金を納めるのが道理」

『其の税金と言うのは何だ?』

「あれっ? 学鬼さんから聴いていないの?」

『聴いておらぬ。学鬼だって、仕入れた知識の全てをワシに伝えるはずがなかろう』

「だって、学鬼さんが仕入れた知識は、自動的に閻魔さんの知識になるんじゃないの?」

「猛君。私ら鬼達は互いに憑依する事は出来ないから、伝えたい事は面と向かって伝える必要が有るんだよ」

「兎に角、ドクター学鬼からキング閻魔に、税金の事は伝わっていなかったって言う事だな。

 キング閻魔。税金とは、国家が国民や企業から強制的に金銭を巻き上げる事だよ」

『何だか理不尽な事の様に聴こえるが・・・・・・。ワシらが穀物を強奪した時、確かに奴らは金を払えと言って来たな』

「キング閻魔。其れが国家権力と言うものよ。

 国民や企業から税金を徴収して、集めた税金をまた、国家の発展の為に使うの。国家の発展だけじゃなくて、貧しい国民の福祉にも使うの」

「閻魔様。そう遣って金銭の循環を促し、景気と言うものを底上げするのです」

「現世の人間達が最大多数の最大幸福を実現する為に考え出した知恵の一つなのよ」

『フムフム。難し過ぎて全てを理解するのは難儀な事の様だが、良い事の様にも聴こえる。

 しからば何故なにゆえ、ワシが税金を払う事にジェイソンは反対するのだ?』

「はい。閻魔大王は、の国にも属さない存在です。其れどころか、閻魔大王は現世の国家を超越した存在です。

 だからこそ、特定の国に納税しては話がおかしくなるでしょう。

 例えば、閻魔大王が、これから赴くアメリカに納税し始めると、中国にとっては面白くありません。閻魔大王はアメリカに肩入れするのか? と言う疑心暗鬼が生まれます。

 一方、バージン諸島は租税回避地として有名です。

 ですから、此処で登記した会社から寄付と言う形でUNHCRなりの国際機関に資金を提供するのが宜しいかと存じます」

『分かった。汝の言う通りにしよう』

「ところで、閻魔大王」

『何だ?』

「亡者5人を代表しまして私の口から、お願い申し上げます」

『何だ?』

「我々5人は役目を果たしたと存じます。そろそろ、成仏させては頂けませんでしょうか?」

『そうであったな。確かに、汝らの助太刀には大いに助けられた。礼を言う。

 汝らの輪廻転生を妨げるは、ワシの望む処ではない。大儀であった。心置き無く成仏せよ』

「有り難き幸せ。では、来世での寿命が尽きましたなら、再び地獄でお目に掛かりましょう」

 亡者ジェイソンは深々と頭を下げると、消えて行った。テントの外でも、残る4人の亡者が姿を消したはずである。

 また、閻魔大王は、パイエスト共和国の地獄ツアーと麻薬中毒からの復帰事業に必要な鬼数の邪鬼を残し、他の鬼達を地獄に戻した。

 臭鬼しゅうきも地獄に戻り、腐臭のかめの蓋開け作業には純真な心を持った幼子を雇う事にした。蓋を開けるだけの単純作業。重労働でもない。ならば、生活費稼ぎに貢献させて遣った方が幼子の為である。

 こうして、現世に残った雲上人は、閻魔大王、旱魃姫、学鬼、怠鬼の4人だけとなった。


 結局、バージン諸島での滞在は数カ月に及んだ。

 ペーパー・カンパニーを登記するだけならば大して日数も掛からないそうなのだが、専門家が1人も居ない。だから、亡者ジェイソンが経営していた投資顧問会社のスタッフをニューヨークから呼び寄せた。税務・法務のスタッフがバージン諸島を訪れ、必要な手続きを全て代行してくれた。

 国防サービスの収入や寄付の出納管理の業務委託契約も締結した。業務委託契約こそが、投資顧問会社スタッフの出張目的だった。其の間、猛達4人はバージン諸島でのバカンスを楽しんだ。

 バージン諸島。

 カリブ海の西インド諸島に浮かぶ火山性の島々である。100を超す数の大半は無人島で、経済活動を営む居住島は六つしかない。

 西半分がアメリカ領、東半分がイギリス領で、猛達はイギリス領のヒルトラ島に滞在している。ヒルトラ島は、首都ロードタウンが所在し、1万人弱の人口を抱える小島である。

 イギリス領といえども、経済的にはアメリカ領の島々と密接な関係にあり、使用される通貨は英国ポンドではなく米国ドル。

 山勝ちなヒルトラ島で満足な農地を確保する事は叶わず、産業と言えるのは観光業と金融業くらいしかない。エメラルドグリーンの海を臨み白浜が続く景色は風光明美であり、アメリカ本土からヨットで休暇に訪れる観光客も多いので、宿泊施設などは立派である。

 国民の大半は十八世紀にアフリカから連れて来られた黒人奴隷の末裔で、キリスト教徒が多い。公用語は英語である。


 ホテルのプライベート・ビーチに折畳み式のリクライニング・チェアを広げ、日光浴を楽しむ4人。大きく倒した背凭れに上半身を預け、白い麻生地の足掛け部分に両脚を投げ出して自堕落な脱力状態を楽しんでいる。

 太陽も相当に傾いていたが、依然として南国特有の強い日差しがビーチパラソルの外から差し込んで来る。細波さざなみの揺れる海と雲一つ無い空の境界付近を黒いサングラス越しに眺め、放心状態で愉悦に浸っている。

 それぞれのソファーの横に控えた小さな床机の上にはカクテルグラスが置かれている。カラフルな色彩のカクテルにストローを突き刺したグラスの表面には水滴が浮かんでいる。

「天国だなあ~。此の儘、死ぬまで此処で過ごせたら、もう幸せの極みだな」

 体毛の濃い身体を赤くしたアーネストがシミジミと感想を口にする。

「アーネストさん。天国って、極楽の事を言っているんですよね?

 私は極楽に行った事が無いのですが、こんな場所なんでしょうか?

 現世には何か、文献の様な物が残っているのでしょうか?」

 ビーチパラソルの日陰に浮かんだ学鬼が、アーネストを見降ろしながら質問する。

「学鬼さん。其れは例え話だよ。俺達は誰も極楽を見た事なんて無いんだから」

 真面目な学鬼を猛が冷やかす。

『フフフ。そうですよ、学鬼さん。極楽は、こんな場所ではありません。ねえ、閻魔大王』

 瑠衣のビーチパラソルの日陰に浮かんだ旱魃姫が、隣に浮かぶ閻魔大王に同意を求めた。

然様さよう。此処とは違うな。もっと辛気臭い場所だ。

 しかも、黄帝様と会う為に出向く場所だから、緊張もする』

「でも、どんな場所なの、極楽って?」

 と、瑠衣が旱魃姫に尋ねた。

 猛を挟んで反対側に寝そべっていたキャサリンが「私も聴きたいわ」と同調した。

 キャサリンは黒人女性だけれど、髪の毛はブロンドで、現地人とは違う風貌をしている。ニューヨークで勤務する時にはジム通いを欠かさないらしく、彼女の引き締まった肢体は少し筋肉質でもある。

『どうって。日差しもこんなに強くなくて、暑くもなく、寒くもない処』

「何だか変化に乏しそうねえ。退屈しそうな処に聴こえるわ」

『キャサリンさんの言う通りですね。現世には色んな気候が有るから、退屈しませんわ』

 アフリカの気候は乾燥して砂塵の舞い上がる暑さだった。

 此処の気候は同じ程度の高い温度だが、海に囲まれているので空気が湿っている。優しい感じのする暑さだった。

『だが、猛。毎日毎日、此処に寝そべってばかりで、汝らは退屈しないのか?

 此れでは極楽と大差無い様に思うが・・・・・・?』

「だって、閻魔さん。此の半年余り、俺達は働き詰めだったからね。映画の主人公だって、俺達ほどには活躍しないよ」

「でも、猛。活躍したのは閻魔さんでしょ。貴方じゃないと思うわ」

 瑠衣が混ぜっ返す。

「でも、実際に肉体をキング閻魔達に貸したんだし、多少は知恵も出したぞ」

「そうそう。それに貴女達、ワーカーホリックの日本人と違って、私達には夏のバカンスが当たり前なの。此処にキング閻魔がいる限り、私達は大手を振って休暇を楽しめるんだから。野暮な事は言わないでよ」

 アーネストとキャサリンが猛の援軍に回る。

「そう言えば、ミズ怠鬼。今まで質問した事が無かったけど、貴女は地獄で何をしているの?」

 熊の緩キャラをあしらった服を着て頭上に浮かんでいる怠鬼に、キャサリンが話し掛けた。

『ワシか? ワシの役務は閻魔大王に湧く退屈蟲を退治する事じゃ』

「退屈蟲?」

『そう。地獄ではな。余りに退屈だと、此の位の白い蟲が湧くんじゃよ。其れを潰すんじゃな』

 怠鬼が右手の親指と人差し指で退屈蟲の長さをキャサリンに教えた。

「じゃあ、キング閻魔は地獄で退屈な時間を過ごしているって言う事?」

『確かにな。判じ場で亡者達の性根を判じているだけだから、現世での半年と比べれば、単調には違いない』

『じゃから、現世に来た閻魔様には退屈蟲の湧いた事が無い』

「でも、其れって、旱魃姫が一緒だからじゃないの?」

 また、瑠衣が混ぜっ返す。瑠衣の冷やかしに、閻魔大王と旱魃姫は顔を見合わせ、頬を赤らめた。

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