18. 一触即発
3カ月後。
中国政府の情報通り、砂漠地帯の灌木林から姿を現したテロリスト集団が、パイエスト共和国の首都を目指して進軍し始めた。イスラム教徒主体の庶民が点在している周辺国土は既に
進軍と言っても、正規軍ではないので、戦力自体は地方軍閥の其れと変らない。戦力の大半は歩兵である。
テロリスト集団の方も、人民解放軍の支援を受けた共和国軍が戦力を拡充させている事は承知している。だから、夜陰に紛れて、先遣部隊として歩兵の過半を首都近郊まで前進させていた。
歩兵達は昼間、砂漠色の幌を被り、強い日射しと喉の渇きに耐え、偵察ヘリを警戒した。夜になると、再び前進する。こうして、首都近郊まで接近して行ったのだ。
赤茶けた岩山の洞窟に身を隠すように構えた活動拠点に残る歩兵を先導しながら、戦闘車両が砂塵を捲き上げて疾駆する。戦車も何両かは戦列に加わっていた。
神出鬼没の機動性こそが最大の戦術だと攻め込んだテロリスト集団が、首都外縁部の警備基地を襲撃する事で戦端が開かれる。歩哨の額を撃ち抜いたライフル銃の轟きが、戦闘開始の合図だった。
敵襲の警報は共和国軍の中枢に伝えられ、首都中心部も慌ただしくなる。
内乱勃発の動きを閻魔大王に伝えてくれたのが、都心部のホテルに滞在していたキャサリン・ウィーバーである。記者会見場で
ただ、彼女が難民キャンプに直接赴いたのではなく、ボディーガード替わりに憑依していた邪鬼が黒鬼に状況を報告した。
閻魔大王は黒鬼からの報告にウムと頷くと、改めて黒鬼に指示を出した。
『
黒鬼は「御意」と頭を垂れると、姿を消した。
アーネストが閻魔大王に尋ねる。
「キング閻魔。
『地獄に兵器と言う物は存在しない。百聞は一見に如かず、だ。汝は黙って見ておれ』
不満顔のアーネストの横で、猛には閻魔大王の作戦が理解できた。
――なるほど、確かに名案だ。
猛はそう思った。
1分も経たずに、臭鬼を伴った黒鬼が姿を現した。
白雪姫に毒林檎を手渡した老婆にソックリな臭鬼の姿を見て、アーネストが「ジーザス、クライスト!」と騒いだ。
『臭鬼。腐臭の甕は持参したか?』
『はい、閻魔様。甕を背に載せた鬼畜が500騎。邪鬼が騎乗して上空で控えています』
『ウム。事は急を要する。
早速、黒鬼の先導で互いに争う二つの集団の中間地点に赴き、甕の蓋を開けて参れ』
閻魔大王は黒鬼と邪鬼に指示した。
御意と答えて退室しようとする2鬼の動きに慌てて、アーネストが閻魔大王に懇願した。
「頼む。俺達も連れて行ってくれ! 是非、取材させてくれ!
猛、なっ! 此れは全世界に報道した方が良い作戦なんだろ?」
「閻魔さん。アーネストの言う通りだ。俺達も連れて行って欲しい。
それに、動きが有る時にはミズ・ウィーバーにも取材させる約束だから、其れも果たさないといけない」
『承知した。黒鬼。
但し、生身の身体だから、怪我をせぬよう、上空に留めておけ』
閻魔大王は黒鬼に対して追加の命令を指示した。
閻魔大王の憑依した猛、学鬼の憑依したアーネストは、黒鬼、臭鬼と共に、戦闘現場に急いだ。
其の短い道中も、アーネストは学鬼に質問し通しである。
「ドクター学鬼。此の動物は何と言うんだ?」
(鬼畜です)
「鬼畜? 太平洋戦争中に日本人が俺達を指して使っていた蔑称と同じなんだな。
ところで、此の鬼畜は何を食べているんだ? そう言えば、ドクター学鬼達、鬼は何を食べているんだ? 俺は鬼達の食事風景と言うものを見た記憶が無いが・・・・・・?」
(私達は、
「咎人?」
(ええ。地獄で
「性根?」
(ええ。ですが、言葉で説明するのは難しいですよ。実際に地獄を訪問すれば、理解して貰えるんですが・・・・・・。
断片的なイメージで良ければ、目を閉じてください。私が地獄の風景を幾つか、お見せしましょう)
瞼に浮かんだ地獄の光景に、アーネストは「げっ!」と言った切り、黙り込んでしまった。
一堂が戦闘現場に到着すると、臭鬼の指揮で邪鬼達が作業を開始する。鬼畜に騎乗した邪鬼は地表に降り、鬼畜の片側から腐臭の甕一つを解いて地面に置くと、甕の蓋を開けた。
煉瓦積みの壁を漆喰で白く塗った住宅群からは既に住民も避難しており、空き家を防弾壁として、双方が銃撃戦を繰り広げていた。
ところが、腐臭の甕を中心に、波紋の輪が広がる様に双方の兵士達がバタバタと倒れ始めた。白目を剥いて、口から泡を噴いている。地面に倒れた身体は僅かに痙攣している。
「ドクター学鬼。あの婆さんは化学兵器を使ったのか?」
(いいえ。化学兵器ではありません。腐臭の刑場で執行しているのと同じ事を
「化学兵器じゃないと言っても、一種の神経ガスを撒いたんじゃないのか? 死んじゃいないみたいだが・・・・・・」
(死んではいません。殺生をしない事が閻魔様の方針ですから。
それに、殺してしまっては地獄が忙しくなりますからね。私達にとって、有り難い事ではないのです)
「まあ、合理的な判断だな。
でも、あの神経ガスみたいな物を吸うと、一般市民も卒倒してしまうんだろう?」
(其れは分かりません。性根の曲がった一般市民であれば、卒倒するでしょうね。
ですが、善良な一般市民であれば、何ら影響を受けないと思います)
「悪人か善人かのハッキリした分類じゃないからな、実際は。大半の人間は其の中間だぞ。そう言う場合は、どうなる?」
(性根の曲がり具合で、臭く感じる度合いが変りますね。
100%善良なら無臭。少し悪人なら屁を嗅いだ様に。もう少し悪人なら、腐った生ゴミの臭いを嗅いだ様になります。まあ、例え話ですけれど)
「フ~ン。全ては性根次第かあ」
双方の兵士が卒倒し終わった頃、邪鬼に憑依されたキャサリン・ウィーバーが、鬼畜に騎乗して現場に到着した。
「キング閻魔! どうせ、ミスター鬼頭に憑依しているんでしょ?
貴方は化学兵器を使用したのですか?
化学兵器は大量破壊兵器の一種ですよ。私達人間だって、そう軽々しくは化学兵器を使用しないのに!
やっぱり、貴方達は悪魔だったのですね。貴方が善良だと信じた私が馬鹿でした!」
到着するなり、興奮したキャサリンは大声で猛を非難し始めた。凄い剣幕である。
「キャサリン。お前は誤解しているみたいだぞ。俺が事情を説明してやるよ」
同じ疑問について既に学鬼と遣り取りしていたアーネストが、キャサリンを
幽体離脱状態になった閻魔大王は、怒ったキャサリンを無視し、黒鬼と臭鬼に指示した。未だ、事態を掌握し切ったわけではない。先が急がれる。
『次なる場所に移り、同じ事を遣って参れ。そして、全ての戦闘行為を終結させるのだ』
閻魔大王がアーネストとキャサリンに向かい口を開く。
『ワシに何か言いたいようだな。ワシは
仲間内に誤解が生じては、物事を遅滞なく進めるに当り、障害と成り兼ねない。
黒鬼。鬼畜に騎乗した邪鬼は全て、戦闘現場まで連れて行って構わない。
その替り、難民キャンプに待機している邪鬼を10鬼、回して欲しい。金斗雲に乗って来るように伝えてくれ。やはり、単身で止まるのは不安だからな』
『御意!』
黒鬼と臭鬼、500鬼の邪鬼は、次なる戦闘現場に去って行った。
学鬼が幽体離脱して来て、キャサリンに説明を始める。アーネストの場合より遥かに細かく丁寧に説明した。
学鬼の説明に納得したキャサリンは徐々に無口になり、終いには閻魔大王に謝罪した。
『気にする事は無い』
閻魔大王がキャサリンに向かって言った。
其の時である。
全員が避難したと思っていたが、一部の住民は逃げ遅れていた。逃げ遅れた住民が、銃痕で壁が穴だらけになった住居から顔を覗かせた。銃撃戦の終了を確認し、路地に出て来る。
そして、路上に倒れているテロリスト集団の歩兵を見付けた。見付けた住民の1人は大声で別の住民を呼び寄せる。
何とはなしに、住民達が集まる様子を見ていた猛達だったが、其の後の展開に酷く驚いた。
卒倒中のテロリスト兵を取り囲んだ10人近くの住人は、兵士を蹴り始め、両手で抱え込む程の大きな石を近くから持って来ると、兵士の頭に叩き付けようとした。
『いかん!』
そう叫んだ閻魔大王は、咄嗟に猛の身体を操り、鬼畜を兵士の傍らに急降下させた。
鬼畜を
閻魔大王は幽体離脱して、身長250㎝の威風堂々とした体躯を現すと、
『殺生はならぬ!』
と、住民達を一喝した。砂漠気候では耳にしない雷鳴が空に響き渡る。
そして、難民キャンプの上空に止まった金斗雲の全てに、黒鬼の後を追わせた。他の戦闘現場でも同様の事態が発生し兼ねないからである。
猛の騎乗する鬼畜も上空に舞い上がり、アーネストとキャサリンの隣に戻った。
幽体離脱の状態で、閻魔大王は2人に語り掛ける。
『自分に危害を加えようの無い兵士を、
怨みなのか? だが、あの兵士が自分の家族を殺したのだと、どうして言い切れるのだ? 怨む対象に相違ないと、果たして言い切れるものなのか?』
「其れだけ怨み辛みが溜っているんだろう」
『だが、敵方の兵士だと言っても、あの兵士は見た処、若い。未だ殺人に手を染めていないかもしれない』
「キング閻魔の言う通りね。
でも、長く争いが続くと、人間は正気を失ってしまうのよ。冷静な判断力を失ってしまうのね」
「ああ。哀しいけど、其れが現実だな」
アーネストとキャサリンの反応に、閻魔大王は暗澹たる気持ちになった。
『それでは、憎しみの悪循環を断ち切れないではないか。其れは正に煉獄。
地獄の刑場ですら、性根が矯正されれば、極楽に抜け出す事が出来ると言うのに。
此処では煉獄が続いておる。地獄よりも酷い世界。これでは此の国の民は救われぬ』
閻魔大王は悔しさを我慢できないと言う表情で声を絞り出した。
こうして、閻魔大王の活躍に依り、テロリスト集団の武力蜂起は失敗に終わった。
残念ながら、テロリスト集団が一掃されたわけではない。指導者達は腐臭に捕まる事もなく、遁走した。
それでも、此の快挙はグローバル・ニューズ社と中央ニューズ・ネットワーク社の特ダネとして、全世界に配信された。
テロの恐怖に萎縮していた世界中の人々は、新たなヒーローの出現に歓喜し、閻魔大王を称えた。
パイエスト共和国のオルドレン・ムーレイ大統領もまた、閻魔大王に感謝し、難民キャンプまで出向いて謝意を伝えた。
『ムーレイ大統領の謝意には及ばぬ。ワシは遣るべき事を遣ったまでだ。
それよりも、ムーレイ大統領。
此の難民キャンプの惨状を見て行ってくれ。難民達はムーレイ大統領に従っていた民。汝には彼らの幸せを追及する義務が有るはずだ。
其の方策を是非、考えて欲しい。ワシもムーレイ大統領を応援するから』
イスラム教徒の国民など、警戒の対象としか見ていなかったオルドレン・ムーレイ大統領だったが、閻魔大王に諭されると少しは心が揺れる。
――どうして、こう言う有り様になったのだろうか・・・・・・?
と、自問自答してみる。
だが、国民全員が仲良く暮らす未来を、どうしてもムーレイ大統領は想像できなかった。
『それとな、ムーレイ大統領。
今はテロリストの兵士共を空の上に収監しておるが、
今は金斗雲に腐臭の甕と一緒に乗せておるから、正気が戻れば、また腐臭に気絶する。其の繰り返しだが、徐々に性根も矯正される。
閻魔大王の言葉の所々に理解不能な単語が出て来るが、ムーレイ大統領にも閻魔大王の言いたい事は理解できる。
――太宗を占めるイスラム教徒からは憎まれている我が身だが、自分に何が出来るのか?、考えてみても良いかもしれない。
少しだけ殊勝な気持ちを抱いて、ムーレイ大統領は首都への帰路に着いた。
反面、苦虫を噛み潰した様な気持ちで此の事態を迎えている勢力が有った。中国共産党である。
中国政府は数十年に渡ってパイエスト共和国を支援して来た。アフリカでの勢力拡大の拠点とする長期戦略の一環だった。経済的支援もしているし、軍事支援もしている。多大な資金と時間を投入して、パイエスト共和国を筋金入りの親中国家に変貌させて来たのだ。
ところが、テロリスト集団の撃退を機会に、ムーレイ大統領の態度に微妙な変化が生じたのだ。
勿論、中国の後ろ盾を必要としているのは厳然とした事実であり、中国べったりの姿勢は変わらない。だが、何となく、隙間風が吹き始めた感じが有った。
例えば、テロリスト集団が再び武力蜂起する可能性に備えて、中国政府がパイエスト共和国に追加の軍備増強を提案した処、やんわりと断られたのだ。無償供与にも関らず、だ。
「先に供与された武器には一切の消耗が出ていません」
閻魔大王が魔法の力でテロリスト集団を退けたので、共和国軍の武装ヘリや装甲戦闘車両は温存されたままである。
「弾薬の類も未だ豊富に残っています。追加の軍備増強は必要無いでしょう」
そう言われると、中国政府もゴリ押しは出来ない。
ただ、ムーレイ大統領の発言には「閻魔大王が頼りになりますから」と言うニュアンスが言外に窺えた。此の兆候は中国共産党にとって面白い変化とは言えなかった。
パイエスト共和国の心変わりを予防する為。得体の知れない閻魔大王の軍隊にプレッシャーを掛ける為。人民解放軍は限られた海軍戦力を遣り繰りして、パイエスト共和国の領海に空母艦隊を派遣する事を決定した。
中国共産党が空母艦隊を派遣すれば、他の大国も看過できなくなる。
アメリカ政府は、アメリカ海軍の第7艦体をアフリカ沖のインド洋に派遣して、対抗の意思を鮮明にした。アメリカ政府に加えて、インド政府も空母艦隊を送り、アメリカ海軍と足並みを揃えた。インド海軍の空母はロシアから購入した中古空母だ。垂直離着陸機主体のロシア空母を改装した艦艇であった。
人民解放軍は前面の虎を追い込むつもりが、後面の狼を2匹も招き入れてしまった。
中国共産党も此の展開を予想しなかったわけではないが、危険を冒してもアフリカの橋頭保を守る方を優先したのだ。
こうして、インド洋を舞台に中国と米印の両軍は
軍事的緊張の高まる事態に困惑したのが、パイエスト共和国のオルドレン・ムーレイ大統領である。ムーレイ大統領は難民キャンプに居る閻魔大王を訪ねた。
「私は我が国の領海で戦争が起きる事を望みません。パイエストの国民が不幸になります。
戦争が起きなくても、今の緊張状態では漁師達が安心して漁に出られません。其れは彼らの生活基盤が崩れると言う事です。
キング閻魔の御力で何とか事態を収拾できないものでしょうか?」
ムーレイ大統領の懇願に、閻魔大王は腕組みをした。
――どうして、事態は悪い方向へ、悪い方向へと転がって行くのだろう・・・・・・?
今や閻魔大王の参謀役となっていた猛、瑠衣、アーネスト、キャサリンの4人の顔を順繰りに眺める。
猛が閻魔大王に進言する。
「閻魔さん。地獄の力を以ってすれば、双方の艦隊に武装解除させる事は可能でしょう?
まずは、武装解除させましょう。そして、閻魔さんが行司役となって、話し合いのテーブルに着かせるのです」
アーネストが挙手する。
「だがよ。キング閻魔。まずは中国政府と話し合ってみちゃ、どうかな?
人民解放軍が撤退すれば、アメリカとインドの艦隊だって引き揚げるはずだ。
それに、パイエスト共和国としても、中国政府の頭ごなしに事を進めては、外交的に困ると思うぜ」
「はい。そちらの方の言う通りです。中国政府に仁義を通すべきだと思います」
『そうか。それでは、チン・イーモウの意見も聴いてみよう。黒鬼。奴を呼んで来てくれ』
黒鬼に招き入れられた亡者イーモウに、猛が相談事の一部始終を説明した。
「中々、難しい状況ですねえ・・・・・・。
ですが、中国人を動かす際には、相手の面子を立てないといけませんからねえ。
いきなり武装解除を求めると、それでは面目丸潰れですから、最悪の選択でしょうな。
閻魔大王。私が御供致しますから、中国大使館のガオ大使と話し合ってみましょう」
中国大使館で、猛と亡者イーモウはガオ大使と膝詰めでの会談をもった。通訳は必要無い。
特派員の猛が同席する事にガオ大使は難色を示したが、閻魔大王は亡者に憑依できない。そう説明されると、ガオ大使も猛の同席を渋々認めた。だが猛に発言権はなく、閻魔大王は幽体離脱の状態で会談に臨む。
「シャオ・チンピン。色々有って挨拶に来るのが遅れてしまったが、今日は謝礼の挨拶に参上したんだよ」
「謝礼?」
「ああ。コンテナ輸送の手間賃を入金して貰ったんでな。無事、閻魔債を償還し終えた。
閻魔大王の気分も此れで晴れ晴れとしたよ。多謝、多謝」
「其れは良かったですね。でも、チン先生。要件は別に有るのでしょう?」
「相変わらず鋭いな。お前の予想通りだよ。
人民解放軍には、空母艦隊の引き揚げ命令を出して欲しいんだ。
元々は閻魔大王の軍隊を警戒したからこそ、空母艦隊なんかを派遣したんだろう?
閻魔大王は、中国に限らず、何処の国とも争わない。
それに、何処の国の軍隊だって閻魔大王には敵わないぞ。アメリカ海軍が閻魔大王に負けた事を、人民解放軍だって知っているんだろう?」
「ええ、諜報部隊が報告して来ています。ですが、駆逐艦1隻が相手だったと聞いています。空母艦隊が相手だったら、果たして、どうなるでしょう?」
「アメリカの第7艦隊が相手だとしても、閻魔大王は負けないよ。
地獄の力は、そんなものじゃない。お前ら生きている人間の想像を超えているよ」
「そうだとしても、人民解放軍は空母艦隊を撤退できません。
そんな事をすれば、アメリカとインドの圧力に負けて逃げ帰ったと言う風になってしまう。中国共産党の面子に掛けても、そんな真似は出来ません」
「そうだろうな。俺もそう思うよ」
「チン先生に理解して頂いて、本当に嬉しいです。チン先生と敵味方の関係になる事には耐えられません」
「うん、うん。俺も同じ気持ちだ。
だがな、閻魔大王は、全ての艦隊に武装解除を命じると、お決めになった。此れは決定事項だ。
閻魔大王の決断を本国の共産党本部に伝えて貰いたい。
それと、もう一つ。閻魔大王の決心を事前に通告した相手は中国政府だけだ。此の事も共産党本部には、必ず伝えて欲しい」
ガオ中国大使との会談を済ますと、閻魔大王は「地獄の邪鬼達を現世に呼び寄せろ」と黒鬼に命令した。
呼び寄せた邪鬼の数は30万鬼余り。穀物強奪作戦を実行した際の10倍の数である。
日本の茨城県に所在する竜神湖では再び怪現象が起こった。
今度の怪現象は1昼夜の長きに渡って続いた。だから、これから何が起きるのかと、世界中の人々が固唾を飲んで怪現象に注目した。
移動を始めた飛行機雲の伸びる方向は、南西の方向。台湾の上空を通過し、インドシナ半島を横切り、飛行機雲はインド洋を渡った。
移動速度は前回の3倍近い。戦闘機と同じ位の速度に、世界中が驚愕した。
現世に到来した者は、邪鬼達に限らなかった。
風鬼、冷鬼の極寒の刑場コンビ。暑鬼、渇鬼の暑漠の刑場コンビ。辛鬼、餓鬼の辛食の刑場コンビも到来した。ドサクサに紛れて、怠鬼も遣って来た。
「こんな面白そうなイベントを前にして、玉座の背凭れに独り座っておいても詰らん。ワシの役務は閻魔様にお仕えする事じゃ!」
と、今の閻魔大王には退屈蟲の湧きようが無い事を承知で、現世に乱入して来た。
臭鬼も腐臭の
兵士達が失神してしまっては艦隊のコントロールが乱れるかもしれず、二次災害に直結し兼ねないからだ。臭鬼は後詰めの駒であった。
30万鬼の邪鬼達は、両軍の空母艦隊の中間地点で、カーテンを敷く様に金斗雲の壁を作った。
金斗雲の壁を目の前にした第7艦隊の艦隊司令長官は、全軍に待機を命じた。
東大西洋に展開していたフリゲート艦が無力であった事件の内容を、統合参謀本部から聞き及んでいたからだ。だから、眼前の雲に通常兵器の歯が立たない事を承知している。無駄な攻撃を仕掛けないよう、インド海軍の司令長官にも要請した。
一時期、NASAが「地球外生命体の襲来だ」と騒いだが、閻魔大王自らが記者会見で明らかにした真相を世界中が知っている。だが、金斗雲の分析をしても素性は解析不能だったし、未知の勢力である事には変わりない。こちらから手を出すべき相手ではなかった。
此れは臆病ではない。理性的な判断と言うものだ。
一方の人民解放軍。金斗雲のカーテンの反対側では、艦隊司令長官が戦闘準備を進めていた。
第6艦隊のフリゲート艦が恥を掻いたと言う情報は諜報部隊から聞いていたが、対戦したフリゲート艦は撃沈されたわけではなく、無傷だった。それに、諜報活動で得る情報も断片的であり、金斗雲の壁の防御力を認識していなかった。
だから、閻魔軍を侮ったのだ。
空母から艦載機を発進させ、金斗雲の壁に空対空ミサイルを何発も撃ち込ませた。だが、金斗雲の壁に乳牛の乳房の様な突起をアメリカ海軍側に伸ばしただけで終わった。
次に、空母護衛の任に就いていた駆逐艦から、艦対空ミサイルを何発も撃ち込ませた。だが、同じ顛末を迎える。
人民解放軍の艦隊司令長官は、駆逐艦群に全ミサイルの一斉掃射を命じた。
2発や3発のミサイルは防げたとしても、ミサイルの物量攻撃にまで耐えられるかどうかは別問題だ。頭数を頼む人民解放軍の伝統的な発想であった。
戦術論上は、此の判断が正しい。だが、相手は地獄の鬼達なのだ。効き目は全く無かった。
往生際が悪そうだなと判断した黒鬼は、風鬼に指示し、嵐を巻き起こさせた。
金斗雲のカーテンの一方では、波高20m以上の大波が波打ち、人民解放軍の艦艇群を前後左右に大きく揺らした。
経験した事の無い程に艦艇が激しく揺れるので、
風鬼が嵐を静めると、艦上ハッチを開けて空気を入れ替えようとする艦艇も幾つか現れた。
艦上ハッチを開けなかった艦艇に対しては、黒鬼がマントを翻して乗り込み、自慢の長剣で甲板に穴を開ける。すかさず鬼達が艦内に侵入する。
餓鬼が侵入した艦艇の乗組員達は、突然の空腹に襲われた。
腹が減って、腹が減って、戦闘どころではない。腹が減っては
其処に、辛鬼が
地獄で咎人達に与える辛実は乾燥して赤くなっているが、手加減して青い状態の辛実を撒いた。それでも、思わず口にした艦艇乗組員は激辛具合に
こうなっては、戦闘能力を維持できない。
艦長の手前、艦橋スタッフは辛実に手を出さなかったが、甲板員達が使い物にならない今、艦艇は漂流するしかない。
別の艦艇には、暑鬼と渇鬼が侵入した。途端に艦艇内はサウナ状態になる。
脱水症状を起こし、喉が渇いて仕方が無い。乗組員達は際限なく水を飲んだが、貯水タンクの水にも限りが有る。戦闘不能状態に陥るまで大した時間は掛からなかった。
更に別の艦艇には、冷鬼が侵入した。艦艇内の温度は冷蔵庫並みに冷えた。
赤道直下のインド洋が戦場なので、乗組員は寒冷地用の服装をしていない。例え寒冷地用の服を装備していても、冷鬼は温度を更に下げるだけだ。乗組員達は歯をガチガチと振るわせ、其の場に縮こまり、
人民解放軍の空母艦隊は、空母護衛の任に就いていた全艦艇が難破船と化して漂流し、無傷の空母だけがポツンと孤立する有様となり、作戦遂行能力を喪失した。
金斗雲のカーテンの反対側。
カーテンに突起が次々と伸び、元の平坦な状態に戻る現象が止んでから、小1時間。幕の開かない演劇舞台を眺めている様な気分を味わっていた艦隊司令長官だったが、緊張感を保ち、新たな動きに身構えていた。
空母艦上の司令塔に詰めていた司令長官は、分厚いガラス窓の向こうに浮かぶバットマンの姿を目にする。
『司令長官に相談が有る。艦内に招き入れては貰えんだろうか?』
腕組みをしてマントを旗めかし、宙空に仁王立ちした黒鬼が、そう口にした。
司令長官は司令塔スタッフと顔を見合わせる。スタッフの方も進言しようが無かった。
止むを得ず、黒鬼を艦橋に招き入れる。
『有り難う。司令長官。無用の争いを避ける事が出来て、助かった』
下士官の案内で艦橋に入って来た黒鬼が、友好的な状態で会話に応じてくれた事に謝意を表した。
『カーテンの向こうでは、対峙していた艦隊が戦闘不能に陥っている』
「えっ!? 未だ1時間しか経っていないぞ。そんな馬鹿な事が有るか! 本当か?」
信じられないと言う顔付きで、艦隊司令長官が反応する。
スタッフ達も、ギョっとした表情を浮かべて、聞き耳を立てている。
「艦隊全てを沈没させたのか?」
『いいや。1隻も沈没させてはおらん。だが、戦闘できない状態だ。
貴殿の部下に確認させれば、真偽は直ぐに分かる事だろう』
「
『私が、あちらの司令長官と話を着けて来る』
「着けて来る? 未だ決着してはいないのだな?」
『そうだ。これから話を着けて来る』
「それでは何故、私の処に来たのだ? 順番が違う様な気がするが・・・・・・?」
『前以って貴殿と相談したい儀が有ったからだ』
「何だ?」
『対峙する艦隊は戦闘不能に陥っているが、貴殿の艦隊は無傷のままだ。
此の儘、あちらの艦隊を先に撤退させては、彼らの面子が完全に潰れてしまう。それでは後顧の憂いを残すのだ。
だから、貴殿の艦隊から先に撤退して貰いたい。艦隊が無傷だから、先に撤退したとしても、貴殿が恥入る事は無いだろう?』
「バットマンの言いたい事は理解する。だが、私の一存では決められない。本国と相談する必要がある。
其の為にも、中国側の空母艦隊が戦闘不能になった事実を確認させて欲しい。本国との相談は、それからだ」
『承知した。其の旨、あちらの司令長官と話をしてこよう』
黒鬼は第7艦隊の空母を飛び去った。
人民解放軍の艦隊司令長官にしてみると、黒鬼の仲裁内容以外に選択の余地は無かった。
反対すれば、パイエスト共和国のテロリスト集団を撃退した化学兵器を艦内で撒くと、黒鬼に脅された事も理由の一つだった。そうなっては、人民解放軍の面目は丸潰れとなる。
だから、アメリカ海軍の哨戒ヘリに着艦許可を与えた。哨戒ヘリに搭乗したアメリカ士官が人民解放軍の内状を査察した。
自分の空母の中を敵兵に歩き回らせる事は、軍人として癪に障る事ではあったが、
これからは、米中印の3カ国間の外交で落とし所を探る局面となる。
現場兵士には長い1日。外交当事者にとっては、アっと言う間の1日が過ぎ、翌日にはアメリカ海軍とインド海軍の空母艦隊が転進し始めた。
紛争は回避されたのだ。人民解放軍の方は、新たな補充要員が到着し次第、太平洋に戻る予定だ。
此の仲裁作戦の成功により、閻魔大王の名声は世界中で高まった。何せ、1人の死傷者も出さずに、軍事大国の空母艦隊を転進させたのだから。正確に言えば、人民解放軍には体調を悪化させた兵士が溢れていたが、戦闘に因る負傷では無かった。
殺生を一切せずに大国間の争いを解決するなんて人智を超えた手腕は、地獄の鬼達の面目躍如だった。
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