16. 凱旋

 沿岸警備隊の救援ヘリを見送って間も無く、黒鬼は、閻魔大王の存信が近付いて来るのを感じた。

 未だ数千㎞も離れてはいるが、そろそろ助太刀部隊を移動させ始めた方が良さそうだ。黒鬼は、そう判断した。

 円形をした金斗雲の群れの一端が伸び始め、カタツムリの角が伸びる様に飛行機雲が伸びて行く。

 交代で旋回飛行をしていた戦闘機の編隊が、泡を食ったように編隊を解いた。1機は先頭の飛行機雲周辺を旋回し、1機は残った円形部分を旋回飛行し始めた。残る1機は、先の2機を援護する為に後方へと退いた。

 金斗雲の移動速度は、商用飛行機とほぼ同じ。戦闘機の巡航速度を少し下回る程度なので、警戒任務中の戦闘機にとっては、給油も考えると程良い移動速度である。但し、ヘリコプターの追跡できる速度ではない。

 黒鬼部隊が火器の類を一切所持していない事は既に、沿岸警備隊のヘリ搭乗員から国防総省に報告されていた。金斗雲の列がアメリカ大陸の上空に入ってしまえば、アメリカ国民に未知なる武器で攻撃を仕掛けない限り、地上での犠牲者を発生させ兼ねない戦闘機からの先制攻撃は無い。

 黒鬼部隊の次なる行動が読めない故の緊張感は有るが、何も出来ないと言う弛緩した追跡劇が数時間に渡って続いた。

 そして、黒鬼部隊は閻魔大王達と合流を果たす事になる。合流場所は、カンザス州とミズーリ州の州境に位置するカンザスシティー上空である。

 カンザスシティー上空で再び、金斗雲の群れが円形上に集まった。

 カンザスシティーの中心部には、地方都市といえども、幾つかの高層ビルが林立している。だから、金斗雲の集まった高さは、雨雲の漂う高さと同じ高度だった。だが、通常の雨雲と違う事は、誰の目にも明らかだった。

 退勤時間が間近の夕刻。市街地を気忙きぜわしく歩く市民、或いはオフィスビル等で勤務する市民は皆、不安そうに上空を見上げている。赤信号の交差点で停車する車列の中にも、運転席の窓を開けて空を見上げる市民の姿が多く見られた。

「ハリウッド映画、そのまんまだ。

 あの雲は魔界の入口で、あそこから悪魔が湧き出て来るのではないか?」

 そうささやき合う市民の姿が至る処で見られた。彼らの予想はあながち外れていない。

 ハリウッド映画とは違って、閻魔大王達に邪念は無かった。市民に危害を加えるつもりも毛頭無い。此れは人助けなのだ。

 一方、金斗雲の上では、猛から幽体離脱した閻魔大王と、アーネストから幽体離脱した学鬼、そして黒鬼の3人が会合した。

 作戦の概要を学鬼が説明する。

『部隊を二つに分けます。一つ目の部隊は、黒鬼さんと私。二つ目の部隊は閻魔様に指揮して頂きましょう。

 それぞれ、現世の人間である猛君とアーネスト氏が同行するので、何か戸惑う事が生じれば、アドバイスを貰えるでしょう。

 最初の部隊は、ミズーリ州とイリノイ州のトウモロコシ倉庫を狙います。閻魔様の部隊は、カンザス州とオクラホマ州の小麦倉庫を狙います。それぞれの倉庫から穀物サイロごと地面から切り離し、東アフリカに運びます。

 穀物サイロとは、此の様な形をしています』

 学鬼は黒鬼に1枚の紙を見せた。、ペットボトルを逆様にした様な絵が手書きされている。

『一つの穀物サイロは凡そ50トンの穀物を貯蔵しています。

 必要量は、難民1人が1日に500gを食べるとして、3カ月で4500トン。穀物サイロで90個分です。

 満杯でない穀物サイロも混じっているでしょうから、切りの良い100個ずつを、トウモロコシ倉庫と小麦倉庫から持ち去る事にしましょう。

 100鬼の邪鬼と金斗雲が一つの穀物サイロを運ぶとして、1万鬼が必要となります。予備も考慮して、3万鬼の邪鬼達を二手に分けていれば、十分でしょう』

『作戦の概要は承知した。ところで、穀物倉庫とは何処に所在するのだ?』

 至極当然の質問を黒鬼は学鬼にした。

『残念ながら、特定できていません。

 少なくとも、100個の穀物サイロが1箇所に集中している事は無いようです。

 ですから、1万5千鬼の邪鬼達を散らして探索させ、見付けた穀物倉庫から順に、付近に居る100鬼の邪鬼が現地集合すると言う動きをしましょう』

『分かった。それでは、早速。邪鬼達を四方に飛ばすとしようか』

 丁度その時。ミズーリ州とイリノイ州の州兵基地から飛び立ったヘリコプターが、数十機の規模で編隊を組み、閻魔大王達に迫って来た。

 先頭の機体に設置されたスピーカーから、大音量で警告が発せられた。

「未確認飛行物体に乗船しているバットマン他の皆さん! こちらは、ミズーリ州兵とイリノイ州兵です」

 ヘリコプターからの警告に猛達5人が振り向いた。

「皆さんは、これから、食糧の運搬作業を始めるとの情報が有ります。ですが、アメリカ政府に確認した処、其の様な軍事作戦を行う予定は無いそうです。

 従って、我々は、皆さんに、速やかに投降する事を求めます」

 警告内容を聞いた猛が呟く。

「もうバレているよ。流石さすがはアメリカ政府。俺達、大丈夫かな?」

 猛の背中越しに、幽体離脱した閻魔大王が「怖いのか?」と尋ねた。頷く猛。

『物事には勝負時と言うものが有る。自分の性根しょうねを信じて、行動に移すのだ。ワシの力を信じよ』

 一方のヘリコプターの機内では、操縦士が無線でヘリコプター基地の司令部と対話していた。

「英語で警告を与えて、本当に相手に通じているんだろうな? 奴ら、異星人だって言う噂じゃないか」

「メキシコ領海で遭遇した沿岸警備隊の人間に依れば、英語で大丈夫らしい」

「でも、あちらさん。何の反応も無いぜ」

 反応が無いのは当然であった。閻魔大王に投降する意思は無い。

 黒鬼が閻魔大王を促した。

『閻魔様。向こうの数は両手両足の指で数えられる程度の少数です。3万の邪鬼を四方八方に散らせば、彼らが邪魔立てする事は叶いません。

 先程の作戦通り、此処で我々は散りませんか?』

『もう二手に分ける算段は着いておるのか?』

『はい。私の考える事は、私が何も言わずとも、邪鬼共に伝わります。

 閻魔様に従う部隊は、自ずと其のように動きましょう』

『其れは心強い。それでは、作戦開始と行こう!』

 閻魔大王の一言で、3万もの金斗雲が一斉に別れた。飛翔速度は時速5千㎞。

 ヘリコプターの操縦者の目には、一瞬で金斗雲の群れが雲散霧消した様に映った。


 収穫期を迎えた穀倉地帯が広がるミズーリ州の一画。

 トウモロコシの茎が刈り取られて丸裸状態になった畑が延々と続く大地に、ポツネンと10基の穀物サイロを林立させた穀物倉庫が姿を見せている。

 既に太陽も沈み、夜空には満点の星がきらめいている。穀物倉庫の敷地はフェンスと鉄条網で囲われ、要所々々に設置された照明設備が敷地内部に向けて鈍い光を放っている。

 此の穀物倉庫を見付けた邪鬼が仲間を呼ぶ。黒鬼も駆け付ける。学鬼の憑依したアーネストも駆け付ける。

 夜間の穀物倉庫には数人の警備員が詰めているだけである。金目の物は何も無い。トウモロコシの粒だけである。こんな処に強盗が押し入る事を想定しろ――と言うのが無理難題であった。

 金斗雲から敷地内に降り立った黒鬼は、警備室に向かった。

 アーネストが、

「事前に警備員に釘を差しておけば、無用な争いを避けられると思う。

 俺は顔を見られたくないから、バットマンだけで行って来てくれよ」

 と、助言したからだ。

 黒鬼は素直に警備室をノックし、ドアを開ける。交代番だった1人と遭遇した。残りは深夜勤務に備えて仮眠中だった。

『御免。今から穀物サイロを移動する。

 何かと五月蠅いと思うが、直ぐに終えるので、気にしないで欲しい』

 突然ドアを開けて入って来たバットマンにそう告げられると、警備員も呆けるしかない。口に咥えた柄付きキャンディーが落ちそうになる。

 警備室から出て来た黒鬼が「始め!」と号令すると、100鬼の邪鬼達が一斉に作業を開始した。

 100杖の刺股で穀物サイロを下支えする鉄製パイプの骨組みを押し始めた。軽く押しただけの様に見えるが、鉄製パイプは安々と“く”の字に折れ曲がり、下向きの巨大なペットボトルを思わせるサイロが軋み音と共に倒れ始める。

 重いサイロを下から支える感じで、10個の金斗雲がサイロ下に回り込み、緩やかに転倒させる。

 逆さペットボトルの最も高い位置に在る底部には穴が開いており、トウモロコシの粒を運び上げる為のベルトコンベアがつながっている。其処からトウモロコシの粒が零れ始めた。1鬼の邪鬼が気付き、穴の大きさに千切った金斗雲で塞いだ。

 そして、真横の状態になった穀物サイロが、金斗雲の群れの上に横たわった。

 一連の作業の所要時間は数分に過ぎない。同じ作業を10回、繰り返した。

 黒鬼の後に続いて警備室から出て来た警備員が呆気に取られて、邪鬼達の作業を眺めている。

 流石さすがに残り3本となった時点で、我に返った警備員が仮眠中の同僚を起こしに行ったが、出て来た同僚警備員もまた、呆気に取られて見ているしかなかった。

 小一時間の作業を終えると、穀物サイロを積んだ金斗雲を伴い、黒鬼達は夜空に飛び去って行った。

 此の初回の作業要領は、黒鬼を通じて残りの邪鬼に伝わった。

 閻魔大王の率いる第2分隊の小麦輸送も含め、日付の変ったばかりの深夜には合計200個の穀物サイロの行列が、アフリカ大陸を目指して、大西洋に差し掛かろうとしていた。

 遠目には、獲物を探し当てた蟻の行列が巣穴を目指して戻って行く様な光景である。

 行列の動向を、今度はアメリカ空軍のレーダー網も捕捉していた。金斗雲は捕捉できないが、高さ数十mの穀物サイロをレーダーで捕捉する事は容易たやすいからだ。

 行列を追尾する事は不可能だった。時速5千㎞で飛翔する金斗雲を追尾できる乗り物は、此の世に存在しない。だから、国防総省の統合参謀本部も指を咥えて眺めているしかなかった。

 但し、迎え撃つとならば、別である。

 閻魔大王達の進路はアメリカから東部アフリカを目指す直線コースを辿っており、東南東の方向に直進していた。アメリカ海軍の内、東大西洋と地中海に展開している第6艦隊であれば、進路上で迎え撃つ事が可能だ。

 此の日も西部アフリカ沖に1隻のイージス艦が作戦行動に従事していた。

 アメリカ合衆国の資産が奪われたのだ。人的被害が皆無とは言え、社会騒乱を狙った一種のテロ行為だと解釈されたのだ。アメリカ政府としては、黙って見過ごすわけには行かなかった。

 イージス艦に、国防総省の統合参謀本部メンバーである海軍作戦総長から、迎撃命令が指令された。指令を受けたイージス艦は、1発のスタンダード艦対空ミサイルを金斗雲の縦陣行列に向けて発射した。

 正確な攻撃目標は、行列の先頭で運搬されている穀物サイロである。戦闘機以上の速度で向かって来る穀物サイロに対して、高い命中精度は期待できなかったが、威嚇にはなると判断された。

 スタンダード艦対空ミサイルが、白煙と共にロケット噴射を放ちながら、艦上に設置された発射ランチャーを飛び立って行く。イージス艦内の防空指揮所に詰めたレーダー監視要員が、ミサイルの軌跡を食い入る様に見ている。

 一方、行列の先頭を飛ぶ金斗雲には閻魔大王の憑依した猛が乗っている。隣の金斗雲には学鬼を憑依させたアーネスト。2人の直ぐ後ろを黒鬼の乗った金斗雲が飛んでいた。

 眼下では猛スピードで海原が過ぎ去って行く。あまりの飛翔速度に一つ一つの波間は見えず、海面は濃紺一色である。未だ夜も明けていない。

 前方から物凄い速度で近付く物体に、黒鬼が気付いた。ミサイルのロケット噴射の輝きが遠目に見える。

 危険を感じた黒鬼は、穀物サイロの行列の左右を並走する予備役の邪鬼達に命じ、行列の前方に防御陣を張らせた。

 1万弱の金斗雲が隙間なく重なり、一瞬で巨大な傘が開いた。遠目に見たならば、丸みを帯びた矢尻の様に見え、行列全体は1本の矢の様に見えた事だろう。

 金斗雲で作られた防御陣の周辺部にスタンダード艦対空ミサイルが衝突する。

 衝突された部分は、ミサイルを包み込む様にして後方に伸びる。伸びた部分が乳牛の乳房の様になる。

 現世の物質が地獄の物質に衝突した場合、運動エネルギーは確かに伝わる。だが、地獄の物質を動かそうとするならば、現世に比べて桁違いに大きなエネルギーを必要とするようだった。

 そして、現世の物質と地獄の物質が交わる事は決してない。

 だから、ミサイルが金斗雲の群れに突入しても、小学生が相撲の力士に突進した様になる。

 金斗雲の群れの方でも、最初はミサイルの運動エネルギーを逃がそうと推進力を弱めて包みこんだ後、防御陣の形状を回復させるので、乳牛の乳房状に伸びた部分は再び短くなる。そして、ロケット噴射しているミサイルが防御陣の壁に頭を付けて静止している均衡状態を保った。

 接触信管が作動せず、爆発もせずにロケット噴射し続けていたミサイルであるが、ロケット推進剤を使い果たすと、金斗雲の防御陣からスルリと落ち、海面に落下して行った。

 猛とアーネストには、防御陣の一部が長い煙突の様に自分達の方に伸び、ゆっくりと元の状態に戻ったと見えた。数分後には、防御陣の下から海面に落下するミサイルの姿が見えた。何とも狐に摘ままれた様な光景であった。

「猛! 何だか俺達。危ない状態だったみたいだなあ」

「そうだね。あれってミサイルだよね?」

「そうみたいだな。俺達を撃墜しようと試みたようだな」

「やっぱり、アメリカ軍?」

「そうだろう。此処は未だ公海上のはずだから、攻撃を仕掛けて来るとしたら、アメリカ軍しかいないだろ」

「俺達って、アメリカ政府と戦争を始めた事になるのかな?」

「今ので、アメリカ軍も諦めるんじゃないか。ミサイルが通じないとなれば、残るは核ミサイルしかないだろう? 

 流石さすがにトウモロコシと小麦を盗まれた位では、核ミサイルを撃ち込んだりはしないだろう」

 実際、其の後は何の攻撃も受けず、穀物サイロの行列は難民キャンプに到着する事が出来た。

 一方のアメリカ海軍のフリゲート艦であるが、アーネストの推測通り、確かにミサイル攻撃が無効だと言う事実に恐れおののいていた。だが、時速5千㎞で通り過ぎる行列を攻撃できるタイミングが一度しか無いと言う制約も最初から有ったのだ。


 難民キャンプでは、次々と空から穀物サイロが降りて来る様子を見た難民達が大騒ぎだった。

 高さ数十mの穀物サイロ。しかも100基と言う数が次々に降りて来るのだ。壮観の一言に尽きる眺めだった。

 遠くから眺めている難民達は、或る程度の高さまで降りた金斗雲の上に宇宙船の様な穀物サイロの姿を見る事が出来た。

 地上から上空を眺めている難民には、50mプール程の雲がまず降りて来て、地上に着地する光景が見えた。間近で見学していると、ギリギリまで金斗雲が地表に近付かないと穀物サイロの姿が見えない。

 だが、金斗雲が穀物サイロを載せている事を理解すると、二つ目以降が着地する度に、難民達は諸手を挙げて歓声を上げた。踊り回る者も多い。中には、小悪魔然とした邪鬼と腕を組んで踊る難民の姿も有った。

 穀物サイロに先だって降りて来たアーネストは、徹夜明けの疲れも見せずにテントに飛び込んだ。愛用のカメラを手にして外に戻り、一連の降下劇を写真に撮りまくる。カメラマンのかがみであった。

 此の時点で難民キャンプを取材している特派員は少なく、特ダネである。

 猛も、アーネストに続いてカメラを手に取り、降下現場を走り回った。100機の穀物サイロが横たわるのだ。取材範囲は相当に広い。

「猛!出来るだけ、カーモネギ社のロゴが写る角度で穀物サイロを撮っておけよ」

「えっ!? なんで?」

「そうすりゃ、カーモネギ社の宣伝効果も狙えるだろう? 奴らの怒りも多少は収まるはずだ」

 デリカシーに欠けた人間に見えるが、こんな所には細かい配慮が行き届くアーネストであった。

 10万人の難民が取り囲んでいるので、中には、配給を待たずに穀物サイロに忍び込もうとする不届き者も現れる。そう言う不届き者を、邪鬼達が刺股で押し戻していた。

 だが、穀物の保全と秩序だった配給は閻魔大王の領域ではない。UNHCRの担当領域である。閻魔大王は瑠衣に差配を任せた。猛と瑠衣の2人は、再会を喜ぶ時間も早々に打ち切り、各々のるべき仕事に没頭した。

 UNHCRはPKOの各国軍隊に穀物サイロの警護を要請した。

 そして、未製粉の状態だったが、少しずつ配給を開始した。製粉機まではアメリカから持参しなかったので、製粉方法は改めて考える事にした。

 一方の警護活動から解放された邪鬼達の内、5千鬼を現世に残し、残りの邪鬼達には地獄への帰還を命じた。

 地獄には三途の川を飛び越えて帰るので、金斗雲が水に溶ける事は無い。金斗雲に搭乗した姿をユラユラさせると、次々に消え去った。

 邪鬼達の消えて行く様を目撃した難民達は狼狽した。邪鬼が幸福の使者だと頭では理解していたが、未知なる現象への恐怖に響(どよ)めきが広がった。PKOの兵士達ですら怪奇現象に度肝を抜かれた。

 現世に残った5千鬼の邪鬼であるが、解脱状態で現世に留まるのも暑苦しいので、難民達に憑依させて貰う事にした。ボディーガードになるし、心で会話するすべを体得できるからだ。

 其の際、瑠衣が良いアイデアを提案する。

「どうせなら一度、邪鬼さん達は猛に憑依して、それから難民に憑依し直してはどうかしら?

 そうすれば、英語と日本語を話せるようになるわよ」

 英語と日本語を話せても、読み書きは別である。基本的に鬼は憑依した相手の知識を取り込めるのだが、邪鬼の場合、読み書きだけは儘ならなかった。恐らく、心での対話に慣れ切ってしまい、上手く頭に入らないらしい。

 読み書きを改めて勉強し直す必要は残るが、難民は重宝するはずである。

「それに楽器演奏の技術も。彼らが自立する時に助かると思うのよね」

「瑠衣! 其れは妙案だなあ。猛とは違って発想が柔軟だわ。

 ところで、猛って、そんなに楽器演奏が得意なのか? 俺は知らなかったが」

「ええ。日本人のプロ奏者並みよ。大概の楽器は演奏できると思うわ。

 でも、今は貴方だって演奏できるはずよ」

「嘘だろう? 何故? 俺は生まれながらに音痴だぞ」

「だって、閻魔さんに憑依されたんでしょ?

 それに、学鬼さんにも憑依されたんだから、東京大学の教授並みの知識も有るはずよ。思考力は自分自身で鍛えないと駄目だけど」

 憑依を通じて体得した技能が乗り移る事を、瑠衣はアーネストに教えた。

「ジーザス、クライスト! 此れは凄い贈り物だ!」

 クリスマスプレゼントを貰った子供の様に大騒ぎするアーネストであった。

 そうと決まれば、閻魔大王は猛から一時的に解脱しなければならない。

 良いチャンスだからと、学鬼も解脱して来て、カーモネギ社のロゴ入り穀物サイロと邪鬼達を背景に、皆で記念写真を撮る事にした。砂漠とは言え、環境への影響に配慮して、旱魃姫が瑠衣から解脱したのはシャッターチャンスの一瞬だけである。

 左から学鬼、黒鬼、旱魃姫、閻魔大王、猛、瑠衣、アーネストと並び、ニッコリと笑顔を浮かべた不思議な1枚が撮影された。人に依っては、正真正銘の心霊写真だと騒ぐだろう。

 記念撮影の後、難民達に憑依を呼び掛けた。勿論、憑依のメリットも説明した。

 食糧を運んで来た邪鬼達に好印象を抱いていた難民達は、我先にと立候補した。結果的に、5千鬼の邪鬼達は希望者全員に順繰りと憑依する事になった。


 翌日、3人のFBI捜査官が海兵隊の1個小隊と共に難民キャンプを訪れた。アメリカ陸軍からPKOに派遣されていた兵士の何人かも先導役として合流している。

 FBI捜査官は逮捕状を持参しているものの、氏名が不明なので逮捕者の欄は空白だった。容疑は強盗罪、器物破損罪、入国管理法違反罪など。

 PKOに派遣されていた兵士が、真っ直ぐにUNHCRのテントまで遣って来る。

 誰何すいかする声に、猛と瑠衣、アーネスト、黒鬼がテントから出て来る。

「何か用か?」

 アーネストが恍けた口調で、身分証明バッチを見せたFBI捜査官に質問する。

「お前とお前、そして、其処のバットマンに逮捕状が出ている。大人しく、我々に同行して貰いたい」

「嫌だ」

 100基もの穀物サイロが転がっているので、証拠隠滅は不可能だ。単純に拒絶するしかない。

「同行を拒絶するなら、力ずくで逮捕するまでだ」

「力ずく? こちらには神様のしもべが就いているのだぞ」

 アーネストがそう強がっていると、何処からか集まって来た難民の群集から邪鬼達が解脱し、FBI捜査官と海兵隊員達を取り囲んだ。猛達の前にも、盾として邪鬼達の壁が出来た。

 騒ぎを聞き付けて解脱した閻魔大王が、邪鬼達の壁を掻き分けて前に進み出ると、FBI捜査官に言った。

『ワシには汝らと争うつもりは無い。仮に争ったとしても、汝らに勝ち目は無い。

 其れは分かっておるだろう?』

「だが、アメリカ合衆国の資産を強奪されて、おめおめと泣き寝入りする事は出来ないのだ」

『汝らも周囲を見回してみろ。此処は飢えた人間共で一杯だ。

 是奴こやつらを見過ごして、汝らの良心は痛まぬのか? 性根が曲がり始めておるぞ』

 FBI捜査官も思わず口籠る。

 個人的には閻魔大王の主張に首肯するが、立場上、其れは出来ない。一方で、司法省も本気で閻魔大王を逮捕できるとは思っていなかった。何らかの落し前を着けるポーズを探りたかったに過ぎない。

「だが、強盗犯を見逃す事は出来ない。そうすれば、社会の秩序が崩れる」

『食糧に見合う金銭とやらを渡せば、文句は無いのだろう?』

 閻魔大王の一言に、猛と瑠衣、アーネストの3人は「えっ?」と言う表情を浮かべた。

――資金が無いから暴挙に及んだのであり、閻魔大王は、如何どうやって代金を支払うつもりなんだ?

 そう思ったのは、FBI捜査官も同じであった。

「代金を支払うのか?」

『今は金銭も無いし、金銭を集める知恵も無い。だが、当ては有る』

 やけに自信満々である。まぁ、自信無さ気な閻魔大王と言うのも想像つかないが・・・・・・。

「分かった。事後にしろ、代金を支払うつもりならば、こちらにも交渉に応じる余地が生じるだろう。

 今日の処は、大人しく引き下がる事にしよう」

 そう宣言すると、ホっとした表情を浮かべ、FBI捜査官は踵を返して行った。


 FBI捜査官と海兵隊の兵隊達が姿を消すと、邪鬼達もそれぞれの宿主に憑依し直した。

 誰も居ない状態に戻ると、猛と瑠衣とアーネストの3人が閻魔大王に駆け寄る。

「閻魔さん。どうすんの? 金! 資金調達の当てが本当に有るの?」

『ワシには分からぬ。だが、金持ちだった亡者なら地獄にる。其奴そやつに知恵を出させようと思ってな』

 確かに貧乏人の猛達が額を寄せて相談したって、金儲けの妙案は思い浮かぶはずがない。そんな知恵が有れば、今頃は大金持ちである。

『そこでだ。学鬼よ』

 閻魔大王の呼び掛けに、学鬼がアーネストの身体から幽体離脱して来た。

『金儲けの才能の有りそうな亡者を何人か、此の現世に連れて来てはくれぬか?』

『御意』

 学鬼は一旦解脱し、そしてユラユラと消えて行った。

 そして1分も経たずに、5人の亡者を連れて戻って来た。何度経験しても、此の現象には感覚的に納得できない。特にアーネストは「ジーザス、クライスト!」と煩い。

 ただ今回ばかりは、アーネストを責められなかった。猛と瑠衣の2人もギョっとしたからだ。猛には免疫が有ったが、そうでない瑠衣は大きな悲鳴を上げた。

 其の理由は5人の亡者の出で立ちに有った。

 まず、5人とも裸体であった。三途の川で衣服を渡河人に没収されたのだから、其れは仕方無い。

 それよりも、肉体そのものが酷かった。

 5人の内3人は使役の刑場に居たらしく、指の爪は剥がれ、手足の至る処に擦傷を負い、血を流していた。1人は針山の刑場で串刺しの刑を受けていたらしく、全身が穴だらけである。其の穴からは血が流れ、全身が血みどろだった。最後の1人は全身に打撲痕が有るが、出血はしていない。

「閻魔さん。瞬きしてよ。此れはグロいわ」

 猛が催促すると、閻魔大王は素直に瞬きした。其の瞬間、亡者達の傷が癒えた。猛自身も此の現象は初めて目にする。猛の後ろでアーネストが「ジーザス、クライスト!」と再び大声で叫ぶ。

『閻魔様。経歴を違えて、5人の亡者を連れ戻りました。

 もう既に性根の矯正も完了間近の者達ですから、金儲けの秘訣を素直に教えてくれると思います。

 おい、君達。簡単に自己紹介しなさい』

 学鬼の指示を受けて、5人の亡者が順番に自己紹介していく。

 1人目の亡者は、ジェイソン・ソラリス。有名なアメリカ人投資家である。

 2人目の亡者は、フリードリッヒ・ミューレン。ドイツ人の埋蔵金ハンター。

 3人目の亡者は、シルビア・コルソ。コロンビア人の麻薬王。

 4人目の亡者は、アレッサンドロ・ボルタ。イタリア人の密輸王。

 最後の5人目の亡者は、チン・イーモウ。中国人の高級官僚だった。

 此の内、3人目のシルビア・コルソが重度の咎人とがにんで、猛の推測通り、針山の刑場に居た。4人目のアレッサンドロ・ボルタは中度の咎人で、極寒の刑場に居た。全身の打撲痕は風鬼と冷鬼が吹き付けるひょうに因るものだった。

 5人の経歴を聴いた猛、瑠衣、アーネストだったが、後半の3人は単なる犯罪者であり、相談相手として期待できそうもないと、早々と諦めていた。ただ、悪知恵が必要な局面に迫られるかもしれないので、現世に留まって貰う事にした。

 本命は最初の2人。ジェイソン・ソラリスとフリードリッヒ・ミューレンである。

 裸体で彷徨さまよわれても困るので、UNHCRのテントに招き入れると、難民キャンプ内で衣服を探し回った。


 翌週。今度はアメリカ政府の財務省の人間が難民キャンプを訪れた。閻魔大王に請求書を渡す為である。請求額は、6450万ドル。日本円に換算すると、70億円強。

 請求書を覗き込んで金額を検算していた学鬼が「おかしいなあ」を連発する。

「小麦の市況がトン当たり150ドル。強奪した重量が5千トンとして、75万ドル。

 一方のトウモロコシの市況がトン当たり180ドル。強奪した重量が小麦同様に5千トンとして、90万ドル。

 小麦とトウモロコシを合わせても、165万ドルにしかならないはずです。6450万ドルと言う金額は、法外な金額に思えますが・・・・・・?」

 学鬼は目敏く指摘し、財務省の人間に説明を求めた。財務省の人間は肩を竦めると、一言だけ言った。

「2枚目の明細書を御覧ください」

 何と! 請求額の大半は、破壊された穀物倉庫の復旧費用であった。

 つまり、火事場泥棒的に強奪などせず、穀物マーケットから市場取引として買い付けていれば、30分の1以下の費用で済んだのだ。現実には手元に資金が無いので、強奪せざるを得なかったのだが・・・・・・。

 此の事実に気付いた一堂は、思わず「ハア~っ」と深い溜息をいた。

 身に沁みる悲哀と共に、自暴自棄に陥った貧乏人が土壺どつぼに嵌まって行くプロセスを理解した。

 だが、請求された金額は支払わねばならない。次なる悩みは金策であった。

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