一枚の写真が今も僕を支えている

やたこうじ

一枚の写真が今も僕を支えている

 僕の部屋の壁には、伊勢で撮った一枚の写真がある。


 少しばかり古めかしい和室に僕と妻、その間に座る一歳になった息子が写っている。この時の僕は笑っているが、本当はとても辛かった事を今でも忘れない。


 当時、僕は無職だった。

 システムエンジニアの仕事に疲れ、転職先の製菓会社ではワンマン社長との折り合いがつかず、早々に辞めてしまっていた。


 まだ時折雪が見える一月頃だったか。

 なかなか仕事が見つからない僕へ、妻から提案があった。

「ねえ、旅行に行かない?」

 僕は驚いた。仕事がいつ決まるのかわからない状況で、それはただの浪費でしかなかった。

「駄目だよ。僕は働いてないし、お金もない。それにこんな状況で楽しめないよ」

 失業手当は出ているものの、それと妻の収入では、贅沢なんて全くできない金額だ。本当なら早く勤め口を見つけて、と急かされても仕方ないのに、妻は続けて言った。

「働き始めたら、また休み取るのも難しくなるでしょ。だったら今行こうよ。ほら、厄落としも兼ねて、伊勢とかどう?」

 気分転換を勧めている事が有り難かったが、気を遣わせている事は苦しかった。でもこういう時の妻は頑固だ。結局僕は折れる事になる。


 僕達の旅行計画は、細かく決めてもうまくいかない事が多いので、大雑把に決めている。

 その時は妻が決めた。


『牡蠣・スペイン村・伊勢神宮』


 一泊二日のドライブ旅行だ。

 旅行初日は早朝に出発した。妻は色々買い込んで車の中でお菓子と景色を楽しむ。

 道中の本屋で調べた牡蠣のお店に行き、色々な種類の牡蠣を食べ、その後スペイン村に向かう。この日は終始雨、平日だった事も重なってスペイン村はお客さんがあまりいなかった。

 しかしその分、室内のアトラクションは、全く待つこともなく楽しめた。

 そして夜も遅い頃、道に迷いながらやっと二見浦の旅館に到着する。

 部屋に入り、家族写真が撮れていなかったことから、また妻が提案してきた。

「折角だから、記念に三人で撮ろうよ」

 笑うきっかけがあれば、何かが変わることを思ってだろうか。妻は小さな事でも気遣ってくれていた。


 その時の写真が、壁のそれだ。

 二日目も雨。伊勢神宮にも行ったが、正直あまり覚えていない。その時私がずっと思い続けていた事は『ごめん』『ありがとう』『なんとかしなければ』。

 結局あまり気持ちに余裕はないままだった。


 家に帰る車の中、僕は自分自身にも約束をして、妻に言った。

「いつかもう一度行こう。今度はちゃんと働いている時に、ちゃんと休みを取って行こう」

 その時の妻の返事は普通だった。

「また同じ所より、違う所がいいな」

 僕を励ます旅行。だけど妻は、そんな風でもない、ただの旅行で終わらせようとしてくれていた。


 その後も、僕は不器用な性格から、何度か転職を繰り返してしまったが、縁あって堅実な経営をする会社に勤める事が出来ていた。

 そしてあの日から四年ほど経った秋に、今度は僕から旅行を提案した。

「伊勢に行きたい。またあの時の旅館にみんなで泊まって、もう一度伊勢神宮に行こう」

 今は家族に小さな次男が仲間入りしている。

「いいよ」

 また普通に答える妻。

 だけど僕にとっては自分との約束、またそれとは関係なく、今度は妻にとって本当に普通の旅行であって欲しかった。

 そしてこの時の方針も変わらず大雑把に、今度は僕が計画を立てた。


『伊勢神宮・前に泊まった旅館・色々食べる』


 妻はこれが計画なの、と微笑む。

 僕もそうだよ、これでいいんだ、と笑う。


 初日に、伊勢神宮に向かった。

 外宮では近くのパン屋でフランスパン、内宮では帰りに赤福とソフトクリームを食べた。

 そして夕方にはあの旅館に到着する。

 今度はゆっくり館内を見た。旅館は昭和中期から続く佇まいで、デザインにも新しさなんてものはない。部屋は写真の雰囲気そのままの和風だったが、それは僕が求めていたものだ。

 しかし全く覚えていなかった。でも、昔見えていなかった事が見えている。

 部屋で一息ついた頃、僕が言う。

「ちょっときて。みんなで写真を撮りたい」


 翌日早朝、前回雨で行けなかった旅館近くの夫婦岩へ向かう。今度は仲良く歩く息子達と、その後を歩く僕達がいる。

 そして旅館を出て、旅の締めくくりに奮発して松坂牛のお皿が廻るお店に寄って焼肉を食べた。

 前回ロクに出来なかった色々な事が、僕なりに出来ている。やっと一つ心残りを減らした気分になった。


 帰りの車の中、また妻に言う。

「また行こう。もしかしたら次は息子にも嫁さんがいるかもしれないけれど。みんな付いてきてくれるなら、またみんなで行こう」

 妻は屈託無く答える。

「もう、いいんじゃない?」

 妻は僕のこの旅行の意味をわかってたのかもしれない。こうは言ってるが、またきっと一緒に来てくれるはずだ。


 その時に撮った写真はアルバムにある。

 しかし壁には、三人で撮った写真が貼ったままだ。

 目に留まるたび、あの時の自分の不甲斐なさ、妻の思いやりを思い出す。今思えば僕の分岐点だったんだろうかと思う。

 あの時に伊勢に行かなかったなら。ふさぎ込んだまま過ごしたのなら。

 そしてこの一枚が、今までの自分を支え、今も自分の背中を押してくれている。


 もうあんな思いはするな、させるな、と。


 僕の人生の途中に伊勢がある。

 生まれた土地でもない、育った土地でもない、ただの旅行先だ。


 だけど僕には自分を、家族を連れて行きたいと思う、大切な旅行先だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一枚の写真が今も僕を支えている やたこうじ @koyas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ