第2話 One room_One girl

 夏の訪れを、私は毎年蝉の鳴き声で感じている。煩わしくけたたましい求婚は、私の大嫌いな夏の定番だ。何故夏が嫌いか、と言われれば、少し答えるまでに時間を要する。暑いのも嫌いだし、蝉の声は煩いし、何かと出費が多いし。けど決定的な理由は見当たらない。きっとは、本能から夏が嫌いなのだ。

 けど今日は、夏だけども良い思い出に残る日になるだろう。念願の一人暮らし開始は、夏休み一週間前。春先に引っ越す予定だったのだが、その部屋が別の人で埋まってしまう手違いがあり、代わりに用意された深毬荘に入ることになった。結構時期は延びたが、それも過去の話。今日から煩い妹と弟に生活や趣味の邪魔されないと考えれば、過去の憂鬱は水に流せる。

 前の住人が置いていったらしい家具は古いけどまだ使える。管理人さんが譲ってくれた冷蔵庫も、小さいけれど一人暮らしにはちょうど良い。テレビだってそこそこの大きさだし、画質も悪くはない。強いて言うなら、防音設備がしっかりしてないけど、あまり気にならない。

 多くない荷物を整理し、あらかじ買っておいた手土産の菓子を持つ。挨拶はちゃんとしろ、と出発前に母からしつこく言われたものだ。綺麗に包装された箱の中身は少し高い洋菓子店の4種類のクッキーの詰め合わせ。凄く美味しそうだった。隣人に渡さず、私が食べたいくらいだ。


__ピンポーン、ピンポーン__


 二度、続けてチャイムを鳴らす。蝉の声にかき消されない大きいチャイムの音色は少し古くさく、霞んでいる。ドアの向こうで「はーい」と返事が聞こえてきた。少し低めの声。恐らく男だろう。......どういう人なのだろう。このアパートは家賃も安いから、同じ学生かもしれない。はたまた、テレビで見るような夢を追う大人かもしれない。期待と好奇心が心を支配していくなか、ついに扉が開く。

「あ、えっと.....隣に引っ越してきました。白瀬悠希です。これ、どうぞ」

 言葉の前、予定には無かった吃りが入る。扉を開け、視認したのは、予想に無かった人間。灰色のスウェットに、寝癖が酷い焦茶色の髪。無造作に伸びた髭。きっと私のお父さんは、こんな感じなのかもしれない。

「お、おう。ありがとよ、嬢ちゃん。俺は.....ナンジョウアケヒロだ。よろしくな」

 クッキーが彼に引き取られる。嬢ちゃん、なんて呼ばれたのは初めてかもしれない。少し掠れた、低い声。クラスにいる男子とは違った、男性の声。そんな声で「嬢ちゃん」なんて呼ばれるとこう.....嬉しいような恥ずかしいような気分になってしまう。さっきより暑くなった頬を隠す手段はなく。せめて表情が崩れることはないように、と口の端に愛想を強く滲ませた。

「はい、よろしくお願いします」

 小さく頭を下げ、起き上がると同時に見上げた彼の顔は端正なもので。似たような俳優を見たことある気もしてくる。


 夏の初め、蝉の鳴き声。青く晴れ渡った空の下の出会いに感謝するようになることを今の私は知らない。けどきっと、なんとなく予感はしていたのだ。彼とはこれからも関わることになる、と。

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TWO ROOMS 明神響希 @myouzinsansan

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