First memory 18

= memory 18 =


SHINさんは、あらためてピアノに向かうと、シャツの袖を折り返した。

そして、マイクスタンドを調整している。

次は歌うの?

ピアノの音だけで、おかしくなってる私は、歌声を聴くとどうなるんだろう?

前奏が始まった。

(Honesty)ビリー・ジョエル。

お兄ちゃんのコレクションにある。隣の部屋から何度も聞こえてきた。

でも、本人よりもこのSHINさんの(Honesty)が 私は好き!

優しくて、透明な声。高音になると少しビブラートがかかる。その揺らぎが聴く者の体内に、歌を染み込ませていくんだ。

歌詞の意味は知らない。でもこの曲が好きになった。どんな意味を持った歌であっても。


今度は歌い終わっても、SHINさんは立ち上がらなかった。そのまま次の曲が始まる・・・

久保田利伸(MISSING)ーずるい。私だけじゃない。店内にいる女性すべてが、きっとそう思ってる。

I love you ・・ってところで、ちょっとこっちを見た気がした。でも、店のこっち側の席の人、全員自分を見てくれたと思ってる。多分、reserve席のおじさんも。

ドキドキは止まらないし、胸の痛みも収まらないし、相変わらず目は離せないけど、どこかどこか奥からもう一人の私の声がする。

今、胸の中で芽生えているものはとても危険だって。

でもやっぱり目が離せない。心臓が痛い。唇が乾いてくる。高音のビブラートが、ガードした心にに染み込んでいく。

私の中にSHINさんへの想いをガードしようとする私がいる。いつだって、どんな時だって、自分のことを冷静に見つめている、もう一人の私。

いじめられてた時、誘惑に負けそうになったとき、保身のために心と違う行動をとろうとしたとき、これまでも何回も、冷静な私があらわれた。

SHINさんを好きになってはダメってこと?


(MISSING)を聴きながら、あちこちからのため息を感じる。それほどに魅了する。おそらくたくさんの女性たちを。

私は、そのため息と彼を見つめる熱い女性たちの眼差しを、店の一番奥のボックス席から見つめていることで少し冷静になれた気がする。

胸のどきどきはまだ収まっていないけれど。

深呼吸をする。溶けているCHERRY specialを少し食べる。まだ残っている冷たさで、目を覚ましなさい。

何よりも考えなくてはいけないことは、あと数週間後には、ここで歌うのだということ。

SHINさんを見つめる女性たちのように、彩さんにだって彼女の歌が大好きなお客さんがいて、その人たちは彩さんがいなくなったら来ないのかもしれないけど、うっかり月曜や木曜に<Noon>にやってくるかもしれない。その時、ステージに立っているのが私なんだ。

せっかくお金を払って来店してくれる方々を、せめてがっかりさせない、金返せって思わせないことがオマエにできるの?

SHINさんのように、お客さんの心を虜にすることはできるはずないけど、せめて皆さんのお酒がおいしくなくなることがないように歌えるの?

さっきとは違うドキドキが、心の中で嵐を起こしだしたころ、SHINさんの1回目のステージが終わった。


ステージが終わると同時に、店内が少し明るくなった。

深々と礼をしたSHINさんが、テーブルを廻っている。お客さんと言葉を交わしている。何かプレゼントを渡している人もいる。やっぱり人気者だ。

SHINさんのことを好きになることに、必死でブレーキをかけながら、彼が他の女性たちと笑って話すのを見ているのが、少しいやだと思う。ジェラシーは想いを強めるのかもしれない。ちょっと哀しいよ。

大丈夫。きっとまだちょっとだから。ちょっとのはずだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る