付記
紀有常の妻
紀有常の妻は藤原内麻呂の娘である。ところが内麻呂は812年に死んでいる。有常が生まれたのは815年。つまり、有常の妻は、有常より少なくとも2才年上だということになる。
内麻呂の享年は56才。この年で子を産むことは、不可能ではないが、かなり珍しい。内麻呂の子らで生年が分かっているもので一番若い者でも、だいたい799年までに生まれている。
ということは、有常の妻は、有常より10才くらい年上だった、と考えるのが自然だということにならないか。
有常は幼馴染みの娘と結婚したが、後に有常が左遷されたので、妻と疎遠になった、という解釈はおそらく間違いなのだ。
「筒井筒」に見るような、仲睦まじい夫婦とは、有常ではなく、紀氏に伝わるもっと古い、別の伝承であろう。
紀氏が生駒山の麓に住んでいたのは、奈良時代のことに違いない。有常は平安遷都から20年後に生まれているのだ。
有常はおそらく元服と同時くらいに、ずっと年上の妻を名家から迎えた。女も本来ならばもっと高い身分の夫に嫁ぐつもりでいたかもしれない。たとえば姉の藤原緒夏は嵯峨天皇の夫人になっている。ところがずっと年下の有常の妻にされてしまった。何かの政略があった。つまり、有常は紀氏の長者となるためにあえて藤原氏の妻を娶った。藤原氏は紀氏を自分の郎党に組み込んだ。
有常の姪静子は文徳天皇の更衣となり、第一皇子惟喬親王や斎宮恬子内親王を生んだ。在原業平は有常の娘婿であり、業平は惟喬親王の身辺警護役だった。藤原氏も有常を無視することができないので、一族の娘を嫁がせたのだ。
それで第16段にも書かれているように、40年近くも連れ添ったのだから不仲ではなかったのだろうが、有常が思ったようには出世しないので、妻は姉(緒夏?)とともに尼になってしまった。
内麻呂は冬嗣の父で、生前に従二位右大臣にまでなった人だから、紀氏よりはずっと権力者であった。死後に贈従一位左大臣となったのは、冬嗣が娘順子を仁明天皇に入内させ権力を握ったからだろう。
有常が内麻呂の娘を娶ったことは有常の出世にはずいぶん有利だったはずだ。しかし冬嗣の子良房に藤原一族の権力が集中していく過程で、有常は左遷され、妻は有常を疎むようになり、ついには離縁することになったのに違いない。
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