第114段 芹河行幸 【行平】
昔、光孝天皇が芹川に御幸なさった時に、ある初老の男を、昔はともかく、今はもう年を取っていて役目にふさわしくないのではないかと思ったが、冬の大鷹狩りのお供として同行させた。その中将であった翁は、草木染の狩衣の袂に鶴を縫い合わせ、歌を書きつけて帝に奉った。
年寄りの私をお咎めにならないでください。こうしてお仕えするのも今日限りだと鶴も鳴いております。
この歌は朝廷の公卿らに不興だった。自分の年齢を詠んだ歌ではあったが、和歌を知らない者は、聞き及んで、けしからんことだと思ったのだ。
【定家本】
むかし、仁和の帝、芹河に行幸したまひける時、いまはさること、にげなく思ひけれど、もとづきにけることなれば、大鷹の鷹飼にてさぶらはせたまひける。すり狩衣のたもとに書きつけける。
おきなさび 人なとがめそ かりごろも 今日ばかりとぞ 鶴も鳴くなる
おほやけの御けしきあしかりけり。おのがよはひを思ひけれど、若からぬ人は聞きおひけりとや。
【朱雀院塗籠本】
昔。ふか草のみかどの。せり川のみゆきし給けるに。なまおきなの。いまはさることにげなく思ひけれど。もとつきにけることなれば。おほかたのたかがひにてさぶらひ給ひけるを。すりかりぎぬの袂に。鶴のかたをつくりてかきつけける。
翁さひ 人なとかめそ 狩衣 けふはかりとそ たつもなくなる
おほやけの御きそくもあしかりけり。をのがよはひ思けれど。わかゝらぬ人きゝとがめけり。
【真名本】
昔、仁和の帝、芹河に行幸し給ひける時、
翁さび 人なとがめそ 借衣 今日ばかりとぞ 田津も鳴くなる
【解説】
『定家本』によれば、光孝天皇が自分も年を取っているので、翁に自分のことを詠まれたのだと思って「おほやけの御けしきあし」くなったのだ、と解釈できる。
「おほやけ」が「天皇」自身の意思である可能性は無くもないが、しかしならば普通に帝と書けばよいではないか。私はやはり「おほやけ」は「朝廷」とか「公卿ら」という意味だと思う。単に、役目を辞退しようとして咎められたのだろう。
『玉勝間』
「今はさることにげなく」云々、たれともなくて、かくいへること聞えず。『真名本』には、なま翁の今は云々と有り、よろし。
されど歌の上に、中將なりける翁とあるはわろし。かの翁とこそいふべけれ。又は上を、中將なりける翁いまはさること云々といひて、歌の所には、何ともいはでもありなん。
大鷹のたかがひを、『真名本』に、
宣長の意見に全面的に賛成だ。「大方」は「大鷹」の誤りであろう。「中将なりける翁、」の位置もおかしい。
『朱雀本』は『定家本』の第81と82段の間に挟まっている。
『朱雀』は深草の帝(仁明天皇)と書いているが、『日本三大実録』や『後撰集』によれば芹川御幸は仁和2年の光孝天皇(仁明皇子、仁明の4代後)となる。
在原行平は仁明、光孝の両朝に存命だったので、どちらもあり得るが、光孝天皇の時でほぼ間違いはあるまい。
藤原基経は無理矢理、陽成天皇を退位させて55才の時康親王を立ててとしたのだ。当時としてはもう翁の年齢だ。行平の歌を心安からず思ったかもしれないか、光孝天皇がほんとに怒っていたのは基経と、その妹の高子と、その兄妹の養父良房のやり方だった。
光孝天皇は天皇に即位する気がまったくなく、摂家の横暴に怒っていた。そのため自分の皇子らに源氏を賜って、臣下にしてしまった。光孝天皇の子、宇多天皇も、その子の醍醐天皇も、いったんは臣籍降下したのである。
『日本三代実録』
元慶6(882)年12月21日
山城国葛野郡嵯峨野、充元不制、今新加禁。樵夫牧竪之外、莫聴放鷹追兎。(略)紀伊郡芹川野・木幡野、(略)天長年中、既禁従禽。
仁和2 (886)年12月14日
戊午。行幸芹川野。
『後撰集』
15-1075
仁和のみかと、嵯峨の御時の例にて、せり河に行幸したまひける日
在原行平朝臣
嵯峨の山みゆきたえにしせり河の千世のふるみちあとは有りけり
15-1076
おなし日、たかかひにて、かりきぬのたもとにつるのかたをぬひてかきつけたりける 行幸の又の日なん致仕の表たてまつりける
在原行平朝臣
おきなさひ人なとかめそ狩衣けふはかりとそたつもなくなる
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