第106段 龍田川 【古】
昔、ある男が、親王らが散策なさる山野に付き従って、龍田川のほとりで、
龍田川に紅葉が流れて、まるで川の水を唐紅に絞り染めにしたように見えます。神代の昔から、こんなことは聞いたことがありません。
【定家本】
昔、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田川のほとりにて、
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
【朱雀院塗籠本】
むかしおとこ。みこたちのせうえうし給ふ所にまうでて。たつた河のほとりにて。
千早振 神代もしらぬ たつた川 からくれなゐに 水くゝるとは
【真名本】
昔、男、
千葉破る 神代も聞かず 龍田川 唐紅に 水
【解説】
親王とは、惟喬親王のことで、竜田川とは水無瀬川のことなのである。
『古今集』0294。『小倉百人一首』017 在原業平朝臣。
本居宣長が『玉勝間』で指摘しているように、『万葉集』には「竜田川」は一つも詠まれていない。「竜田川」は平安朝になってから詠まれるようになった。話せば長いことながら、この「竜田川」とは山崎の水無瀬離宮(今の水無瀬神社)を流れる「水無瀬川」(もしくは「山崎川」)のことである。以下延々とその理由を述べる。
『古今集』「仮名序」に
いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ。かの御時に正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは君も人も身をあはせたりといふなるべし。秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば、帝の御目に錦と見たまひ、春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。また山の辺赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人麿は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける。
奈良の帝の御歌
竜田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
とあるが、ここではすでに、「奈良の帝」とは「奈良の御時」の天皇(聖武天皇?)のことだろうと誤解されている。
「奈良の帝」は「ふるさととなりにし奈良の都にも」と詠んだ平城天皇、つまり、平安初期の天皇でなくてはならない。
ちなみに平城天皇は業平の祖父である。
私は、いくらなんでも、紀貫之がこんな酷い思い違いをしたとは思えないのだ。『古今集』「仮名序」は白河院時代の誰か(おそらく源俊頼の関係者の誰か)が捏造したものだと思われる。
『古今集』0253
神な月 時雨もいまだ ふらなくに かねてうつろふ 神なびのもり
0254
ちはやぶる 神なび山の もみちばに 思ひはかけじ うつろふものを
0284
題しらず 又は、あすかがはもみちはながる
たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし
竜田川の歌なのに題が飛鳥川なのが興味深い。
通常、竜田川と呼ばれているのは、飛鳥川と同じく大和川の支流であるが、竜田川は北から、飛鳥川は南から流れ込むので、まるで違う川。
奈良時代、飛鳥川として詠まれた古歌が、平安時代になって竜田川のほうがポピュラーになったため、詠み変えられたのであろうか?
「神なびの御室の山」というのも本来は飛鳥地方の山であったか。
「神奈備」は「神名備」「神南備」「甘南備」などとも書き、原始神道における神の依り代となる山や岩、森や野など。『出雲国風土記』『万葉集』にも、「神名樋」「神名火」と多く見える。「神なびの」は里、淵、山、森、海、原などの地名にかかる。「御室」は神が降臨する場、「御室山」は神が降臨する山という意味。ただし、御諸山、三室山とも呼ばれる三輪山のことを差しているとも考えられる。
しかしながら、『古今集』に見える「神なびの山」「神なびの森」「神なびのみむろの山」「神がきのみむろの山」というのは、ある特定の地名である。これも宣長が『玉勝間』で指摘している。
京都から桂川、淀川を下ると山崎へ至る。山崎というのは、琵琶湖を流れ出た淀川が桂川や木津川などと合流して大阪平野へ出て行く地峡のあたりのことであり、山崎という地名もその地形に由来すると思われる。山崎より手前にはかつては巨椋池という古代湖があった。
山崎を過ぎると水無瀬川が合流して、前述の水無瀬離宮がある。水無瀬川上流の山間部が紅葉の名所であって、ここらあたりが神なび山であった。おそらく平安京遷都後、西国へ往還するようになって以来、よくここを経由するようになったと思われる。
本居宣長『玉勝間』一の巻「立田川」に
『古今集』秋下に、神なびの山を過て、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるをよめる、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる」、此神なび山は、山城ノ國
とあって、実際『新編国歌大観』の『重之集』には「山崎川を立田川と言ふ 御かへし」という(謎の)詞書が
白波の 立田の川を 出でしより のちくやしきは 舟路なりけり
という歌に添えられている。「筑紫へいくとて」とは、『新編国歌大観』とは別系統の『重之集』に記載があるものだろうか。事実、重之は肥後や筑前の国司を歴任している。ともかくも、宣長の主張の一番の拠り所はこの重之の歌なのである(重之は清和源氏、兼信の子。兼信は貞元親王の子。貞元は清和天皇の子。小倉百人一首には「風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな」)。
「同集別ノ部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々」というのは、
『古今集』0387
源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める
しろめ
いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし
0388
山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにしてわかれをしみけるによめる
源さね
人やりの 道ならなくに おほかたは いきうしといひて いざ帰りなむ
(山崎から神奈備の杜まで人々が送りについてきて、帰りがたく、別れを惜しんだときに詠んだ歌。
人に行けと言われてきた道ではなく、自分の意思できたのだけれど、なんだかだいぶ行くのがつらくなってきたから、帰ってしまおうかな。)
のことを言うのである。人やりとはつまり国司や役人として京都から派遣されることをいう。ここでもやはり、京都から西国へ行く人を見送るために山崎を過ぎて水無瀬まで来たことを言っているのである。
『玉勝間』二の巻「又立田川」
立田川といふは、前の卷にいへるごとく、山崎川の事なるを、そは今いづれの川ならむ、かのわたりの事、よくもしらで、としごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかへるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、此川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつもなし、さてつらつら考るに、水無瀬川といふは、後の名にて、此河ぞいにしへの立田川なるべき、此川、山崎と水無瀬とのさかひにあり、山城ノ國と津ノ國との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津ノ國嶋ノ上ノ郡になん有ける、今は狹(せば)き河なれど、かなたこなたの堤たかくて、水はよろしきほどの流れなるを思ふに、古ヘはややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくはなしつるなるべし、さて立田川によみ合せたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城ノ國乙訓ノ郡、玉手ヨリ祭リ來ル酒解ノ神社(名神大月次新嘗)、これを續後記又臨時祭式などに、山崎ノ神ともあれは、此神社によりたる名にて、すなはち山崎山のことにぞあるべき、此社は、すなはち今の山崎天王なりともいへり、然るに今水無瀬の里を過て、はるかにあなたに、
同じく『玉勝間』二の巻「水無瀬川」
いにしへにみなせ川といひしは、一つの川の名にはあらず、いづれにまれ、水のなき川といふことにて、あるは砂の下を水はとほりて、うはべに水なき川をもいへり、萬葉四に、「戀にもぞ人はしにする
今の水無瀬の地名はもとは水成であったと言っている。
『古今集』0293
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
素性
もみぢ葉の 流れてとまる みなとには くれなゐ深き 浪や立つらむ
0311
秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
貫之
年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ
業平は惟喬親王と良くこの地方に狩りに行った。惟喬は文徳からこの地方を相続したのだ。竜田川すなわち水無瀬川に遊ぶ機会がいくらもあったはずだ。業平がわざわざ飛鳥地方まで遊びに行ったときにたまたま歌を詠んだと考えるよりもずっと自然なのである。
二十年くらい後、業平がおじいちゃんになり、宇多天皇がまだ定省王と呼ばれた少年の頃、業平じいさんから昔語りをきく。定省が天皇となり上皇になってから、吉野に御幸し、途中、山崎、水無瀬宮、神なびの森、竜田川を経る。竜田川を京都の人たちに広く紹介し、和歌に大量に詠まれるようになる。
こうして神なび山のイメージが固定することなったのである。万葉時代のように、民間歌謡として自然に普及したのではなかった。
そういうわけで、「神なび山」は「竜田川」とセットで詠まれることが多いのだ。
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