第95段 彦星に勝る恋

昔、二条の后にお仕えしている男がいた。おなじく、后にお仕えしている女に、常にようすをうかがって、通い詰め、口説いていた。なんとか、物越しでも良いので、二人きりで対面して、恋しく思い詰めてきたことなどを伝えて、少しでも気持ちを晴らしたいというので、女は、たいへんひそかに、男と物越しに会った。いろいろと語り合って、男が


 今宵、私があなたの彦星になりましょう 天の川を隔てる堰を今は無くしてください。


この歌に感心して女は男と会うことにした。


【定家本】

昔、二条の后に仕うまつる男ありけり。女の仕うまつるを、つねに見かはして、よばひわたりけり。「いかでものごしに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるかさむ」といひければ、女、いと忍びて、ものごしにあひにけり。物語などして、男、

 彦星に 恋はまさりぬ 天の河 へだつる関を いまはやめてよ  

この歌にめでてあひにけり。


【朱雀院塗籠本】

昔。二條の后宮につかうまつる男有けり。女のつかうまつれりけるを見かはしてよばひわたりけり。いかで物ごしにたいめして。おもひつめたることすこしはるけんといひければ。女いとしのびて物ごしに逢にけり。ものがたりなどして。おとこ。

 彥星に 戀はまされり 天のかは へたつる關を 今はとめてよ

これををかしとやおもひけん。あひにけり。


【真名本】

昔、二条後宮に祗承つこうまつる男ありけり。女の祗承つこうまつれるを、常に見かはして、夜這ひ渡りけり。如何で物越しに対面して、鬱把く思ひ短めたる言、少し晴るかさむと云ひければ、女、最偲びて、物越しに相ひにけり。物語などして、夫、

 彦星に 今夜こよひはなりぬ 漢河あまのがは 隔つるせきを 今は停めてよ

此の歌に目出て会ひにけり。


【解説】

『定家』「恋はまさりぬ」『朱雀』「恋はまされり」、『真名』「今夜はなりぬ」。ニュアンスがかなり違う。


藤原高子が二条の后と呼ばれるようになったのは、皇太后位を剥奪されて、陽成上皇の御所(二条邸)に移り住んで以後のことだ。だからこのころ高子はそうとう高齢で、すでに男女の恋愛などというものからは卒業していたはずだ。

その二条邸で高子に仕えていた男女の話。

陽成天皇は退位した後長い間院御所の陽成院(朱雀院とも二条邸とも言う)で暮らしたが、ここで何があったか、ほとんど何も知られていない。

こんなエピソードが残ったのは不思議だ。

陽成院は宇多天皇や醍醐天皇よりも長生きした。なぜ廃位されたか、その真相も闇に包まれている。たった一つの御製が残されている。

『後撰集』0777

つりどのの皇女につかはしける

つくばねの 峰よりおつる みなの川 こひぞつもりて 淵となりける


これとても、とうてい本人が詠んだとは思えない。古歌をそれっぽくアレンジしたものだろう。陽成天皇は摂関政治創設時の深い闇だ。そしてその母、藤原高子も。

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